大きな木の下のベンチ
今日もグラウンドでは、大きな声が聞こえている。
私はその声に包まれながら、グラウンドの近くにある、大きな木の下のベンチに腰掛けるのが放課後の習慣。
野球部の練習を見ながら、今日のみんなの体調をうかがう。
別にマネージャーじゃないし、彼氏目的でも無いけど。
「木下。今日はどんな感じ?」
ふいにかけられた声の主は、振り向かずともわかる、あの人の声。
「そうね…。背番号2番、キャッチャーの子が良くないみたい。」
「そうか。じゃ、声をかけてくるか〜。」
面倒くさそうな気の抜けた足取りでふらふらとグラウンドにむかって歩いていく。
あの声はやっぱり、紛れもなく化学の教師で野球部顧問の桐生 竜彦。(きりゅうたつひこ)
竜とかかっこいい名前とは裏腹にいつもいい加減な人。
でも私はそこが好き。
先生だから、こんな事思っちゃダメなんだろうけど。
「先生。」
「…何だよ。」
彼はだるそうに振り向いた。
「今日はどんな練習するの?」
「まぁ適当にやるさ。」
「ふ〜ん。」
野球部のこと、ちゃんと考えてるのかな。
私は昔から野球が好きなうえに、人間観察に長けているためか、彼に目を付けられて、今日のような事をずっとしてきた。
「文句言いたいなら言えば良いだろ?何だよ。」
「先生、寝不足?」
「………は?」
「私の目にはそう見える。」
先生は持っていた煙草を携帯灰皿に押しつけて、頭をかいた。
そんな見慣れた仕草が、今日はやけにかっこいい。
「バレたか…。」
「えぇ、まぁ。」
先生は苦笑しながら、私の横に座った。
野球部に行くんじゃ無かったの、といつもなら言うだろうが、慌てて口を噤む。
たまには見とれてみても、良いじゃない?
どうせ叶わぬ恋なのだから…。
「よっ」
先生は急に私の膝の上に頭をのせて横になった。
「な、何して…」
「ん?膝枕?」
「じゃなくて!何でそんなことしてるのよ!」
「寝不足なんだよ、ちょっと寝かせろよ。」
人の気も知らないで。
こんなとこ誰かに見られたら…。
「何笑ってんだよ。」
先生は私を見上げながら、ニヤッと笑う。
ガバッと手で顔を覆う。
見られてると思うと、顔が自然に赤くなって、それがさらに羞恥心を煽った。
「笑ってません。」
「笑ってるくせに〜!」
「うるさい。」
「そんじゃ、木下。俺行くわ。また明日もよろしくな。」
「あ、はい。」
私は先生のだらしない後ろ姿を見送りながら、ため息をついた。
幸せってこういう事を言うのかな?
叶わぬ恋と知りながらも、やっぱり諦める事が出来なくて…。
ダメだって思ってるのに、先生との時間が嬉しくて…。
愚かっていうのかもしれないな。
「ねぇ、木下くるみさん。」
次の日の放課後、日直日誌を書き終わって、空がオレンジ色に染まった教室から出ようとしたら、目の前に着飾った女たちが立ちはだかった。
「……誰ですか。」
「竜彦の女で〜す。」
「あんた2ーAの田中麗子でしょ。先生の彼女って…ダメじゃん。」
「あたしの事知ってんの?嬉し〜い!あたしってば美人で有名だからね。」
いや、ケバくて馬鹿って有名かな。
私はかるく鼻で笑った。
「で、何か用なの?」
「竜彦に近づくなブス!」
「……………は?」
「竜彦、あんたのせいで困ってた。ずっと悩んでるんだから!」
私がなにをしたっていうの…?
膝枕がいけなかったの。
でも、それは先生がしてきたんじゃない。
日誌を握る手が自然と強くなる。
「嘘じゃないわよ。竜彦が電話で言ってたんだもん。あんたの存在が邪魔なの!」
「……うるさいな。」
「何よ!竜彦のためにも、もう近づかないで!」
「黙れっ!あんたに何がわかるってゆうのよ!!」
私は持っていた日誌を振り上げた。
きゃーというわざとらしい悲鳴と同時に私の手首は掴まれた。
「大丈夫かレイコ。」
「ふぇ〜ん。竜彦ぉ…怖かったよ〜…」
田中麗子が先生に抱きつき、鼻をすする音が廊下に響く。
先生の顔は見えないが、荒い息づかいからして走ってきたんだろう。
そんな事を考えている私の頭の中はなんて冷静なんだろう、と鼻で笑っちゃいそう。
心はもう笑えないぐらいに痛いのに。
先生に掴まれた手首は、まだ掴まれたままで、力の抜けた手から日誌が落ちた。
「お前何やってんだよ!!女が日誌を振り上げるなんて…はぁ…お前なぁ……」
先生がこちらに振り返り、鋭い目つきで私を睨みつけた。
深いため息の音が、私の心をさらに切り刻む。
先生は私のせいで困ってる、迷惑してるのか。
だから寝不足なのかも。
掴まれた手首を振り払い、私は先生に頭をさげた。
「すみませんでした。もう二度と、先生を困らすことはしません。」
「おう。真面目でよろしい!」
さっきとは一転、先生はいつものようにだらしなく笑いながら、私の頭をなでた。
「………っ…。」
視界がぼやけてきたのを隠すために、私はもう1度頭を下げた。
「失礼します。」
「あ!おい!!」
誰もいない廊下を駆け抜けた。
いつもの木の下のベンチの横も通り過ぎ、門を出てからやっと、足をゆるめた。
馬鹿みたい。
先生に恋した時点で迷惑に決まってるのに。
わかってたはずなのに。
追ってきてくれるのでは、という淡い期待を持つだけの勇気もなくて、私は夕日を背にして足早に家に帰った。
次の日もその次の日も、化学の授業は寝て、放課後は走って家まで帰った。
おかげで先生と言葉を交わすこともなく1週間が過ぎた。
田中麗子も、あれ以来見ていなかった。
「木下!」
家に帰ろうと大きな木の下のベンチの横を通り過ぎた時、今1番聞きたくない声がした。
「あ…、桐生先生。あの…、さようなら。」
「ちょい待ち!」
走り出せば良いものの、私は足を止めた。
「私…最低だぁ…」
「なんで?」
「…独り言です。」
振り向くことは出来ずに、胸が痛くて泣きそうになる。
迷惑になるなら、声、かけないでよ。
ほっといてよ…
「今日はみんな元気そうです。なので、失礼します。」
「待てってば!」
「ほっていて下さい。迷惑なんでしょ!?もうほっといて…」
「迷惑だぁ?そんなこと誰が言った。」
先生は目を丸くして、頭を掻いた。
それが無性に腹立たしくて、私は先生を睨みつける。
しらばっくれちゃって。「あなたの彼女の田中麗子よ。電話でそう言ったくせに。私がそばにいることで困ってて、悩んでるんでしょ?もう良いよ先生…、私知ってるから。」
「良くないな。それ、でっかい勘違いだから!」「………勘違い…?」
先生は自分の横をポンポンとたたいた。
私は首を横に振るしかできなかった。
「はぁ…お前な…。悩むなんてめんどくさい事、お前の事だから出来るんだからな。卒業するまでは手出さないでおこうか悩んでたけど、やめた!くるみ、俺のオンナになれ。」
淡々と先生は言った。
「…………え?」
「え、じゃないだろ。」
だって…
だって
「田中麗子は?」
「レイコは彼女じゃないから。霊子、ただの背後霊にしか思ってない。」「うわ…最低…」
「なんで?」
「女心がわかってない!」
それを聞いて先生は、何を思ったのか急に笑い出した。
「わかりたくもないね、くるみの心以外は。」
「は、恥ずかしいこと言わないでください!」
顔はきっと夕日に負けないくらいの紅さなのだと思う。
「私、ずっと先生が好きだったよ。」
「俺だって。おいで、くるみ。」
「………うん!」
ためらいなく、私は先生の横に座った。
もうここは私の居場所なんだ。
いつもと同じベンチなのに今までとは違うホッとした気持ちになった。
夕日ももう沈みかけて、辺りはさらに紅さを増していた。
「卒業したら結婚しような。」
「子供が生まれたら名前は球児が良いかな?」
今日もまた野球部の声がグラウンドに響いている。
全然先生と生徒っぽくない…。
でもまた先生と生徒の恋の話を書きたいです。




