第一節 近衛騎士アレン・バックノーリス4
「お前に何が分かる!!」
男の怒声には怒気以外の感情も混ざっていた。まるで違う生き物に自分の気持ちをぶつけるような、諦めと悲しみに彩られた怒りだ。到底理解されるはずのない事だと憤るような男の言葉にアレンは息を呑んだ。
アースライド帝国を統べる貴族にとって平民が理解できない卑しき存在であるように、男にとってそれは貴族であり、そして偽善者を気取る騎士サマなのだ。帝国人全ての味方であるような態度を取りながらも、貴族と平民の命を秤に掛けて平民を平気な顔で切り捨てる。男にとってアレンはそんな騎士の一人であった。
「お前は一日を生きて終えられた事に涙を流す子供を知っているか? 小さな掌一杯の水に感謝する子供を知っているか? 人並みの幸せも知らずに死んでいく子供達を知っているのか!? 俺は子供の為ならどんな事だって出来る。罪を犯すことであの子達の命を繋げるのなら、俺は――」
アレンは男の言葉を遮った。誰にでも譲れない一線という物が存在する。男にとって、それは子供の命であり、犯罪とはそれを繋ぐ手段なのだろう。アレンが正論を述べたところで男の考えが変わる可能性は限りなく無に等しい。
「貴方の考えは分かりました。自分がどんなに言葉を紡いでも貴方の意思が動く事はないのでしょう。しかし、犯罪行為を見逃す事はできない」
アレンの言葉に男は重心を後ろに下げた。男の脹脛に力が溜まる。それは後方へと走り出す予備動作だった。だが男が逃げ出す猶予をアレンは与えない。
男の足首を刈るような勢いの足払いで世界が反転した瞬間、男は組み伏せられていた。踏み込みや溜めの動作を目視できない速度で地を蹴ったアレンの速さはまさに神速。倒れた男の頭部を守りながら腕を締め上げたアレンは捕縄を路地の隅に投げた。それは捕まえるつもりが無いというアピールである。
石畳が伝える心地よい冷たさは熱くなっていた男の感情までも冷ますかのように、ゆっくり男の全身に行き渡った。
「自分達は外敵となる者を排除しなければならない。時には命を奪うこともある。命を秤に掛ける事も少なくはない。しかし、全ての騎士が民の心を理解していないとは思わないで欲しい。これは自分の理想でしかないけれど、騎士道というのは王族に認められた先でも貴族に認められた先でもなく、護ると決めた人達を護り抜いた先にこそ在るんだと思っている。そして、自分が護ると決めたのは、この国の民だ」
アレンの言葉の全てを受け入れるほど男の心は清らかではない。心を許した相手以外の言葉を信用するには厳しいものがあるだろう。貧困街の暮らしは想像を絶するのだ。経験した事のある人間以外に貧困街に住む人間の辛さを理解できるはずがない。男はそれを身を以って知っているだけに、アレンの言葉を信じる事は出来なかった。
「お前には分からないさ……。貧困街の暮らしを知らない人間には絶対に理解できない。言葉でどれだけ取り繕っても、現実を目の当たりにして同じ台詞を吐いた人間を俺は見たことが無い」
「分かりますよ。血の繋がった家族と暮らす人間の方が少なく、乳児期の赤子を抱えた十にも満たない子供が母親の代わりを務めている事も。大人の暴力に怯えながら血の繋がらない家族を護ろうとする子供も知っています。カビが生えて捨てられたパンを義弟や義妹と共に食べて命を繋いだ事も憶えています」
アレンは貧困街の出身であった。男に向けられた視線は貧困街の苦しみを知った上で、それを乗り越えた強い光を湛えていたのだ。そこに至るまでにどれほどアレンが苦しんだのか、今の男には計り知れない深さがアレンの言葉が信用に足る事を裏打ちしていた。