第一節 近衛騎士アレン・バックノーリス3
足音を殺しているアレンとは違い、男は逃げる事に集中しているのだろう。裏路地に反響する足音は大きくなっていた。
肩に掛けた即席の捕縄を握り締めながらアレンは聴覚に神経の半分を注ぐ。間違いなく男との距離は近付いているのだが、このままでは不味い。アレンは小さく舌打ちをしてから態とらしく足音を響かせた。このままアレンが追って来ていないと思い込まれれば男は歩調を緩めるだろう。そうなれば男を見つける事は不可能になる。アレンが追って来ている事を匂わせておく必要があった。衛兵に対して憤慨していた自分が取り逃がしては笑い話にもならないのだ。
昼時ともあって裏路地には人気が無かった。男の荒い呼吸と地面を叩く乾いた音だけが支配する世界。薄くなった建物の影の上に男の影が重なり、濃くなった影が男を追いかける。日陰であるにも拘らず男の額に珠のような汗が滲んでいるのは、男の心拍数が一定以上を保っているからだろう。
男の背筋に冷たい汗が流れる。先程まで男の発する足音だけが響いていたはずなのに、後方から聴こえる足音は既に近い位置に来ていたからだ。アレンが足止めを食らった場所からは、かなりの距離を移動している。その距離を一気に詰める程の速さを持っているのか? という疑問を男は頭を振って否定する。
それ程の速さを持っているならば、男が今こうして逃げ延びている事の説明が付かないからだ。馬車を使うには、この路地は狭すぎる。やはり足音を殺していたのだろう。そう思い至って初めて、男の足音が相手に居場所を伝えていた事に気付く。しかし、足音を消したとしても今更だ。男の焦りは呼吸に表れ、既に自制が利かないまでに荒くなっている。
小脇に抱えた手提げに視線を送る。男が狙う獲物は貴族ではなく平民の中で裕福な女性だけだ。貴族に手を出せば衛兵共は血眼になって犯人を捕らえようとする。それがアースライド帝国の法だった。封建制度のアースライド帝国の法は貴族を守る為にあり、平民には最低限の権利しかないのだ。
鉱物資源が国益の四分の一を占めるこの国では、鉱山地帯に住む平民を強制的に働かせている。首都であるレスタフでは区画整理が為されているために見かけないが、平民が虐げられるのは貴族の間では常識だった。
歯噛みする男の表情は愁いを帯びていた。希望を失い、救いの無い世界に絶望する表情だ。無精髭に覆われた顎の線は細く、灰褐色の頬は窪んでいる。男は平民街よりも更に下層――貧困街の人間だった。
数十年で急激な経済成長を遂げたアースライド帝国に貧富の差が出来るのは当然の事であり、何の救済措置も設けなかったばかりに貧困街なるものができてしまったのだ。飢餓に苦しむ子供を見てきた男にとって、犯罪行為に手を染めようとも金が必要だった。
頭に過ぎるのは彼の息子の顔。貧困街で暮らす子供が乳児期を越えられる確率は十数パーセントと言われている。現に彼の息子は平民街の子供に比べると明らかに健康状態ではなかった。
男の耳にアレンの鋭い声が飛び込んできたのは、息子の姿を頭の片隅に追い遣ったその時だった。絶え間なく動かしていた男の両足は止まる。男の予想に反してアレンが目の前の路地から表れたからだ。
「もう逃がさない」
低い声音で呟かれた言葉には、息を呑む迫力が宿っていた。行く手を阻むアレンと視線が交錯し、男は視線を逸らす事で罪悪感から逃げる。アレンはそれを見逃さなかった。
「目を逸らさないで下さい。物理的な意味ではありませんよ。犯した罪から逃げるなという意味です。貴方にどんな事情があるのか自分は知りません。しかし、それは罪を犯して良い理由にはならないはずだ」
捕縄を右手から滑らせる事で長さを調節しながら、アレンは諭す様な口調で語り掛ける。男の表情から全てを読み取る事はできない。それでも、切迫した顔を見れば何らかの事情がある事は想像できた。