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流転の騎士  作者: KEN
序章
1/6

無力な子供

 セミセスクトス暦

 二千六十年 エオストルの月


 酷く冷たい雨粒が少年の両肩を叩いた。泥を跳ね上げながら走る背には焦りが滲み、泥濘んだ地面に残る小さな足跡は少年の恐怖をありありと物語る。背中に突き刺さった少女の言葉が頭の中で蠢いた。


 両親の死体と、泣き叫ぶ義妹を残して少年は逃げ続けた。罪悪感よりも恐怖が勝る事は仕方の無いことで……。我が身を守る事すら困難な状況では見捨てるしかなかった。そう言い聞かせるように唇を噛み締める。口の中に鉄の味が広がり、嫌でも両親の身体から溢れ出た血液を思い出した。


 東の空で雷雲が煌く。雫の大きさが増した事にも少年は気付かなかった。絶壁とほぼ垂直の斜面に囲まれた峠。貴族が使うような豪奢な馬車なら擦れ違う事すら困難な道幅の山道を、少年は駆け下りる。雨の臭いに混じって血の臭気が鼻腔を衝くのは、少年の衣服に大量にこびり付いた両親の血痕が原因だった。


 雨が全身を濡らしても口の中は乾き、喉を震わせる事もできない。恐怖という熱が、少年の身体を内側から乾燥させた。それでも食道を駆け上る酸味だけが治まらないのは、少年が未だ人間である証拠だろう。養子であるにも拘らず、商人の跡取りとして不自由の無い生活と本当の愛情を注いでくれた家族を、あっさりと切り捨てた自身に対する憤り。そして、それ以外の選択肢を選ぶ力を持たない弱い自分に対する嫌悪。


 力が欲しいと渇望する自分を否定する臆病な心が何よりも憎かった。


 背後から聴こえる義妹の絶叫は、少年が想像する最悪の結末を告げるものだと分かる。胸が痛んでも振り返る事はしない。振り返ってしまえば、家族を見捨てた罪が許されない事を少年は知っているのだ。犠牲の上で生き延びた命を無駄に失う事だけはしてはいけない。唯一つ、それだけは空を覆う曇天に誓っていた。


 地面の感触すら曖昧な状況だ。少年の両足は既に悲鳴を上げ始め、呼吸も定まらない。少年の背後にも、音を立てずに死が迫っていた。


 耳元を掠める小さな風切り音。それが、少年の少し癖のある黒髪を数本散らした。同時に恐怖が身体の内側から込み上げる。自分の小さな命を握られているという絶対的な力の前で、少年は叫び出したい衝動に駆られた。喉奥に張り付いた恐怖が、それを許さない事を知っていても、それでも少年は喉を震わせた。


「たすけてください。だれか……たすけて」


 少年の声が誰かに届く事など無い。少年の声が大した音量ではない事を差し引いても、鉱山での強制労働を強いられる平民に、こんな場所で出くわす事は先ず無い。行商人は自身の積荷を守る事で精一杯だろう。貴族なんて者は自分の命惜しさに一目散に逃げ出すような人種だ。


 希望という光が絶望と隣り合わせである事を思い知る。


 弓の有効射程は約百五十メートルである。子供の足で逃げ切れるほどの距離ではない。今にも震える肩を掴まれるのではないかと、少年の心は恐怖に彩られた。


 歩幅の違いはそのまま速さの違いに置き換える事が出来る。子供よりも広い歩幅を持つ大人ならば、単純な速さは倍以上なのだ。


 恐怖がそれを可能にしたのか、先程まで耳に入らなかった雨音がやけに大きく聴こえた。遠方の空で轟く稲光が獣の咆哮に聴こえる。耳殻に飛び込む音の塊が鮮明に響き、後方から聞こえる泥を跳ね飛ばす足音を聞き逃す事はなかった。


 頭の中で警笛が鳴り響く。地面を蹴る少年の両足は力強さを増した。


 死にたくない――という生への執着が、少年の背中を押す。


 なだらかな傾斜の坂道でも、泥濘んだ地面では全速力で走れない。脹脛が痙攣しようとも、立ち止まる訳にはいかなかった。立ち止まれば直ぐに追いつかれるだろう。そうなれば少年の命は簡単に握り潰されてしまう。捕まる事は死に直結しているのだ。


 恐らく馬車の車輪も地面を噛まなくなるであろう、それほどまでに大地は濡れていた。少年の体重ですらクッキリと足跡を残す柔らかい道は、追走劇を繰り広げるにはあまりに脆い。背後に迫る脅威は弓を使うのだから、逃げ果せる可能性は無に等しく、更に少年は体力に秀でてはいなかった。


 蛇行すれば弓矢の命中率は格段に下がるだろう。先程の一撃を外した事から、弓の才を持ち合わせた人間ではないと当たりをつける。そもそも、弓の名手なら凶賊に成り下がる必要はないのだから。しかし、デメリットもある。蛇行するという事は直線距離で間合いを詰められ易い事に他ならないのだ。


 迷う。少年に正常な判断が出来るのか? 正常だという認識ですら少年の思い込みである可能性がある。それで無くとも恐怖に頭が支配されているのだ。逃げる事だけを考えれば、右手に見える深い谷に身を投げればいい。凶賊も命を投げ出してまで少年を追ってくる事は無いだろう。しかし、それは出来なかった。


 命を絶つ事は曇天に誓った唯一の決意を反故にするものだからだ。


 打てる手が無かった。少年の頬を雨ではない温かい雫が伝う。大陸人には珍しい黒眸から涙が溢れていた。肩が震えるのも嗚咽を堪えているからだ。声を上げて泣くことすら出来ず、立ち止まる事も許されない。草食動物が肉食動物に狩られるように、弱者は強者に狩られる事を受け入れるしかない。それが抗いようもない現実だった。


「この距離なら外さない」


 背後に迫る凶賊の声がやけに近くに聞こえる。少年は文字通り、心臓が跳ねたのを自覚した。


 身体が丈夫ではない少年が同じ速度で走り続ける事は不可能であり、無意識の内に失速していたのだ。先程振り返っていれば凶賊の接近には気付けただろうが……少年は今更だが後悔した。背中越しに聴こえた凶賊の声から二人の距離を推測する。恐らく数メートルである事は予想できた。雨の音にも掻き消されない程の距離だからだ。現に追っ手と少年の距離は十メートルも無い。


 少年は振り返った。凶賊と対峙する事に不安や恐怖が無かった訳ではない。相手は読んで字の如く、残忍で凶悪な賊なのだ。情けを掛けられる事は無いだろう。どうせ殺されるならば、一矢を報いたいという思いが少年に覚悟を決めさせた。


 少年は腰に差した短剣の柄を握る。短剣といってもペーパーナイフなので、殺傷能力はあまり無い。しかし、人を斬るという観点では鋏にも劣るペーパーナイフも、突き刺す事なら可能である。少年の狙いはまさにそれだった。


 生誕祝いに友人からプレゼントされた物をこんなカタチで使う破目になるとは、と少年は口元を引き結ぶ。子供が買い求められる値段の物だ。柄頭に宝石のレプリカをあしらった以外は煌びやかな装飾は施されていないが、少年のお気に入りだった。


 少年の敵意を感じ取った凶賊は、今までよりも更に愉悦に満ちた笑みを浮かべる。凶賊の背に引っ掛けられた矢筒には数本しか矢が残っていない。少年の耳元を掠めた一矢以外にも矢を射ていたのだろう。それが尽く外れるものだから、少年が逃げ回る事を止めた為に笑みを零したのだ。


 弓兵を相手に接近戦を挑むこと自体は悪くない判断だった。しかし、子供と大人の体格差は少年の想像以上に厳しいものがあった。人間の急所は上半身に集中している。凶賊の腰元よりも下に天頂がくる少年の身長では、有効な攻撃手段は皆無だった。


 元々、突き刺すという攻撃手段は振り下ろす事で最大の威力が発揮される戦法である。振り下ろす力と振り上げる力では、前者が圧倒的に強い。少年の力で人体を穿つには逆手に持って振り下ろす他ないのだが、低身長の少年には無理な戦法だった。


 鋭い衝撃が少年の脇腹を襲う。天から降り注ぐ雨粒を弾きながら、腰を軸にした蹴りが少年に叩き付けられたのだ。普通ならそれだけで意識を失ってもいいほどの痛みが、少年の臓器を打ち付ける。幸いしたのは地面が泥濘んでいた為に、軸足の固定が利かなかった事。その証拠に、凶賊は体勢を崩していた。


 込み上げる嘔吐感を堪える事無く地面に吐き出す。地面に広がったのは、汚物というよりも血の塊だった。弾かれた拍子に頭髪は泥に塗れ、涙を泥水が蔽ってくれる。立ち上がった少年を視界に収めると、凶賊の細面が厭らしく崩れた。


「今ので逝かれても、面白くないからなぁ」


 咳き込む少年の目の前に立つ男。足首を解している所を見る限り、少年を蹴ろうとしている事は明らかだった。少年は骨に異常を来たしているだろう。大人の力とはそれ程までに強大だ。次の一撃で決める。男の内心に少年は気付いていた。


 大地を叩く雨粒は一際大きくなっている。東から吹く風が雷雲を運び、今にも轟かんとしていた。


 死を覚悟した瞬間、少年の感覚は雨を一粒一粒認識できる程に強くなっていた。脳が活性化するのが理解できる。少年は不思議な感覚を味わっていた。先程まで聴こえていた雨音や雷の轟音がピタリと止み、世界に静寂が訪れる。


『アレン・シュターク。貴方は生きたいですか?』


 少年は脳に叩き付けられた声に精神が揺らぐのを感じた。耳で拾う音ではなく、音の塊を脳に直接ぶつけられたような感覚を初めて体験する。認識の問題だろう。次第に世界が色を失っていった。色も、音も、臭いも、味も、感触も、全てが曖昧になる。


「どういう……意味?」


 自分が立っているのかどうかすら、少年には判断できなかった。神経の全てを頭に響く声に向けている事に少年は気付かない。それが全神経を傾けるという事だからだ。


『アレン・シュターク。貴方は生きたいですか?』


 録音機で音を再生したような、全く同じ言葉を全く同じ声音で問い掛けられる。少年の育ての親、つまり義理の両親が商売で録音機を扱った時に一度だけ拝見していた。先程と同じ精神の揺らぎも感じた。恐らく声が響く度に脳が割れるような痛みが伴うのだろう。


 言葉の意味は理解できた。状況も把握している。言葉の真意は分からないが、質問を繰り返しても同じ問答を繰り返すだけだろう。そうなれば本当に脳が割れてしまう可能性がある。少年の答えは決まっていた。


『生きたい』


 それは言葉にはならなかった。頭の中だけに広がる独白のようなものである。或いは少年の願いや祈りとも言えるかもしれない。しかし、声の主はそれを感じ取った。


『人の理を外れたとしてもですか?』


『誰だって死にたくはない。どれだけ貧しくて不幸でも、死ぬより不幸な事なんてない』


『わかりました。貴方に一度限りの力を授けます』


 一呼吸分の間を置いて、言葉が紡がれる。


『汝の御霊は我が檻に――我が血潮は汝の心に――ここに盟約の契りを交わす事を宣言する』


 途端に世界が彩りを取り戻した。先程までの脳の痛みが嘘のように去り、少年の視線は足を横薙ぎに振る男に向けられる。無意識の内にナイフを構えていた。


 吸い寄せられるように男の脛がナイフに穿たれる。少年の力では刺さらないナイフも、大人の力が加わった今なら熟れた果物のように容易に突き刺さった。


 悲鳴を上げて倒れこむ男。地面に身体を擦り付けるようにして、痛みを堪えようとする。しかし、命を絶つ程の致命傷を与えた訳では無い。男は脛に突き立てられたペーパーナイフを力任せに抜いた。止血道具も無くナイフを抜く事は自殺行為なのだが、そんな事に配慮できるほど男に冷静さは無かった。


「野郎! 殺してやる!!」


 伸ばされた手を拒む事は出来なかった。ペーパーナイフが肉を抉る感覚が両手に残っている。少年もまた冷静ではなかったのだ。衝撃的な感触に膝を折る。意識は既に有って無いようなものだった。



 雷鳴が轟く。血塗れの少年の頬を雨粒が叩き、艶のあった黒髪は土色に変わっていた。靭帯が捻じ切れて、手足は様々な方向に伸びている。瞳に生気は無い。胸に突き立てられたペーパーナイフの柄頭が雨水を少年の心臓へと導いた。胸に落ちる雫は、ナイフが流した涙のようだった。


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