犬の餌と呼ばれたスープを、王家の神獣は毎晩食べに来る~犬に食べさせろと言った夫は、神獣の正体を知らない~
夫は、私の料理を「犬の餌」と呼んだ。
それも、王宮の同僚を六人も招いた夕食会の席で。
夫のジェラルドは、ハートウェル子爵家の当主だ。
ハートウェル子爵家は、代々、王宮の式部官――儀式や宴の段取りを任される役人――をつとめてきた家で、王都の一等地に屋敷を構えている。
私の生まれたブランケ男爵家は、北の果ての小さな領地を治める、名ばかりの貴族だった。
あるのは畑と牧場と、領民より羊のほうが多い村がいくつか。
父は領民と一緒に畑に出て、母は台所で、村の子どもたちにスープをふるまっていた。
この結婚を望んだのは、ハートウェル子爵家のほうだった。
半年前、北の領地の山に、銀の鉱脈が見つかったのだ。
鉱山の権利と引きかえに、私は王都へ嫁いできた。
夫が欲しかったのは鉱山で、私ではない。
それは、婚礼の日にもうわかっていた。
その夜のテーブルには、料理人のマルセルが三日かけて用意した皿が並んでいた。
バターをたっぷり使った鴨のロースト、牛の脂で焼いた肉のパイ、濃いクリームのソース、砂糖で光る果物の煮込み。
どれも王都で流行りの、上等な料理だ。
その端に、一皿だけ、私の作ったスープがあった。
北の村の、根菜と大麦のスープ。
かぶと、にんじんと、かぼちゃ。
バターも脂も使わない。
塩はほんのひとつまみ。
朝から弱い火で、ことこと煮た。
その日は、母の命日だった。
母から習ったこのスープを、一年に一度だけは作ると決めていた。
夫には、前の晩にちゃんと話してあった。
夫は書類から目を上げずに「好きにしろ」と言った。
「これは?」
客の一人が、スープの皿をのぞきこんだ。
夫は、ワインのグラスを置いて、笑った。
「ああ、妻の田舎料理ですよ。北の、何もないところの出でしてね」
それから、私のほうを見もせずに続けた。
「ノーラ。こんな犬の餌を、客に出すな」
テーブルが、どっと笑いに包まれた。
「犬の餌とは、手厳しい」
「いやいや、ハートウェル殿の言うとおり。バターの一かけも入っていない」
「北では、これがごちそうなのでしょうな」
私は、膝の上で両手を握りしめた。
嫁いで半年。
夫が私の料理に口をつけたことは、一度もない。
それでも、こんなふうに笑われたのは初めてだった。
――母さん。あなたが教えてくれた料理は、そんなに恥ずかしいものだったのでしょうか。
北の村では、誰もがこのスープを囲んで笑っていた。
寒い冬の日も、収穫の終わった夜も。
あの温かな食卓が、遠い昔のことのように思えた。
「下げろ」
夫は、手を振った。
「犬にでもやれ」
◇
夜が更けて、客が帰ったあと。
私は、台所の大鍋を抱えて、勝手口を出た。
鍋には、ほとんど手のつけられていないスープが残っていた。
マルセルは「捨てておきますよ」と言ったけれど、私は首を振った。
旦那様は、犬にやれとおっしゃったのだ。
だから、犬にあげる。
裏門の外は、ひんやりと暗かった。
ここ数日、夜になると、門の向こうに大きな影がうずくまっているのを、侍女のベスが見ていた。
「奥様、本当に行くんですか。あれ、子牛くらいありますよ」
「大丈夫よ。おなかをすかせているだけだと思うから」
門を少しだけ開けると、影がのそりと起き上がった。
本当に、大きな犬だった。
体じゅう泥だらけで、毛はもじゃもじゃにからまっている。
ただ、こちらを見る目だけが、月の光を映して、しんと澄んでいた。
私は、手提げのランプを近づけて、犬をよく見た。
あばらが浮くほどやせている。
なのに、おなかだけが、ぱんと張っていた。
鼻を寄せてきた犬の息から、古くなったバターのような、すえたにおいがした。
門のわきの石畳には、吐いたあとが残っている。
脂が浮いて、てらてらと光っていた。
私は、このにおいを知っていた。
北の村にいたころ、収穫祭のあとで、牧羊犬が何匹も寝こんだことがある。
村の子どもたちが、ごちそうの脂身やパイのかけらを、面白がって犬にやったのだ。
犬たちは、喜んで食べて、それから何日も吐いて、ぐったりしていた。
――人のごちそうはね、犬のおなかには重すぎるの。
そう言って、母は犬たちのために、薄いスープを少しずつ作った。
「……あなた、どこかで、ずいぶん上等なものを食べさせられたのね」
犬は、答えるかわりに、鼻を鳴らした。
私は、スープを器によそうと、水差しの水で少しのばした。
そして、ほんの少しだけ、地面に置いた。
犬は、しばらく器の匂いをかいでいた。
それから、ゆっくりと舌を伸ばして、ひと口。
ふた口。
あっというまに器は空になり、犬は「もっと」と言うように、私の顔を見上げた。
「だめよ。いきなりたくさん食べたら、また吐いちゃう」
私は、もう少しだけよそった。
それも空になると、鍋にふたをした。
「続きは、明日ね」
犬は、しばらく鍋をうらめしそうに見ていたけれど、やがてあきらめたように、私の手をぺろりとなめた。
温かい舌だった。
ふいに、母の声を思い出した。
台所で、このスープをかき混ぜながら、母はよく言っていた。
――このスープはね、ノーラ。人だけのものじゃないのよ。
子どものころは、意味がよくわからなかった。
でも、鍋を抱えて屋敷に戻るとき、私の足どりは、来たときよりずっと軽かった。
その日から、私は毎晩、犬のために夕食を作るようになった。
◇
犬は、毎晩やってきた。
決まって、屋敷の明かりが消えるころ。
裏門の外に、のそりと大きな影が座っている。
私は、夫とマルセルの料理の支度が終わったあとの台所を借りて、こっそり鍋を火にかけた。
人のための料理とは、作り方を変えた。
塩は入れない。
大麦は、指でつぶれるくらいやわらかく煮る。
三日目からは、鶏の胸肉を足した。
皮と脂をきれいに取って、ゆでて、細かくほぐす。
そして毎晩、犬の様子を見ては、小さな帳面に書きつけた。
――一日目。少しずつ二杯。吐かなかった。
――三日目。鶏を足す。よろこぶ。おなかの張りが、少しひいた。
――五日目。量をふやす。息のにおいが、もうしない。
犬は、吐かなくなった。
不思議なことに、犬は日に日にきれいになっていった。
泥が落ちたわけではない。
相変わらず、どこを走り回ってくるのか、毎晩泥だらけでやってくる。
けれど、その泥の下の毛が、少しずつ銀色に光りはじめていた。
月の明るい夜には、まるで犬そのものがうっすら光っているように見えた。
「奥様。あれ、本当にただの犬ですかね」
ベスが首をかしげた。
「さあ。でも、いい子よ」
一度だけ、夫が裏門の近くを通りかかったことがあった。
犬は、私の手から鶏肉を食べるのをやめて、低くうなった。
夫は「汚い野良犬だ。近づけるな」と顔をしかめて、さっさと屋敷に戻っていった。
その夜、夫はめずらしく機嫌がよかった。
「ノーラ。王家の神獣のことは知っているか」
夕食の席で、夫は自分から話しかけてきた。
嫁いでから、たぶん三回目だ。
「国を守っている、白い獣だと聞いています」
「その神獣が、一か月もまともに食事をとらないのだ。夜になると、神獣舎から姿を消すらしい。陛下はたいそうお嘆きでな」
夫は、鴨のローストを切り分けながら、鼻で笑った。
「王宮の料理人どもは、毎日、牛の脂の焼き物だの、クリームのパイだのを供えているそうだが、それでも食べん。つまり、まだ上等さが足りんのだ。国を守る神獣だぞ。並のごちそうで満足するものか」
私は、スプーンを持つ手を止めた。
牛の脂の焼き物。
クリームのパイ。
裏門の犬の、すえた息のにおいを思い出した。
「来月、王の前で、神獣の饗応がある。神獣が食べた料理を作った者を、『神獣の料理番』に選ぶそうだ。私は、マルセルの料理で名乗りを上げた。バターを倍、肉を三倍にさせる。王都いちばんの料理人が、王都いちばんのごちそうを出すのだ。神獣だって、きっと食べる」
「……あの、旦那様。それは――」
「何だ」
夫の目が、冷たく私を見た。
私は、口をつぐんだ。
言っても、夫は聞かない。
この半年で、それだけはよくわかっていた。
夫は、ふんと鼻を鳴らした。
「間違っても、お前の犬の餌など持っていくなよ」
◇
その夜も、犬は裏門で待っていた。
私が大麦の粥をよそっていると、路地の向こうから、誰かが走ってくる足音がした。
「――シルヴァ!」
息を切らせて現れたのは、見上げるほど背の高い男の人だった。
黒っぽい上着は、あちこち白い毛だらけ。
髪はぼさぼさで、眉間には深いしわが寄っている。
正直に言って、とても怖い顔だった。
犬は、粥の器から顔を上げると、男の人の足もとまで歩いていって、ちょこんと座った。
「……やっと、見つけた」
男の人は、さっきまでの怖い顔がうそのように、やさしい声で言った。
犬の首すじをなでる手つきは、壊れものにさわるようだった。
それから、私に気づいて、また眉間にしわを寄せた。
「あなたは、この屋敷の人か」
「は、はい。ノーラ・ハートウェルと申します」
「エーリクだ。王宮の神獣舎で、神獣番をしている」
神獣番。
私は、エーリク様の足もとの犬を見た。
月の光を浴びて、泥の下の毛が、銀色に光っている。
「……あの。もしかして、この子は」
「王家の神獣、シルヴァだ」
頭の中が、真っ白になった。
私は、毎晩、王家の神獣に。
「わ、私、毎晩、神獣様に……」
声がふるえた。
「犬の餌を……」
エーリク様は、黙って、地面に置かれた鍋を見下ろした。
それから、何も言わずにしゃがみこみ、鍋に残っていた粥を、木のさじですくって一口食べた。
しばらく、エーリク様は動かなかった。
怒られるのだと思った。
神獣にこんなものを食べさせて、と。
けれど、エーリク様はさじを置くと、ぽつりと言った。
「……うまい」
その一言に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
嫁いでから半年。
私の作った料理を、誰かが口にして「おいしい」と言ってくれたのは、これが初めてだった。
母の命日に作ったスープも、毎晩この子のために煮込んだ粥も、誰かに認めてもらいたくて作ったわけではない。
それでも、ずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。
「……ありがとうございます」
ようやく、それだけを口にした。
エーリク様は、シルヴァのおなかに手を当てて、目を見開いた。
「張りが、ひいている。……王宮では、何を出しても吐いていたのに」
「バターや脂の多いものを、食べすぎていたんだと思います」
思わず、口から出ていた。
「最初の晩、息から古いバターのにおいがしました。北の村で、ごちそうの脂身を食べて寝こんだ牧羊犬と同じでした。だから、脂も塩も入れずに、少しずつ……」
エーリク様は、私の手の帳面に目をとめた。
毎晩の書きつけで、もう半分ほど埋まっている。
しばらく黙ってから、エーリク様は低い声で言った。
「王宮の料理人たちは、こいつが食べないたびに、もっと豪華にしていた」
それから、私に頭を下げた。
「頼みがある。明日も、作ってもらえないだろうか」
「え……」
「こいつは一か月、王宮でまともに食べていなかった。毎晩抜け出していたのは、たぶん、ここに来るためだ」
シルヴァが、ふさふさのしっぽで、私の足をぽんとたたいた。
まるで、「明日もね」と言われたみたいだった。
◇
それから、エーリク様は毎晩、シルヴァを連れて裏門に来るようになった。
勝手口の石段に、私とエーリク様が並んで座る。
足もとでは、シルヴァが器に顔をつっこんでいる。
それが、夜のいつもの景色になった。
エーリク様は、相変わらず無口だった。
けれど、私がよそったスープを一口飲むたびに、必ず言った。
「……うまい」
「エーリク様の分は、ちゃんと塩を入れてありますからね」
「わかる。こっちのほうが、うまい」
「シルヴァ様の前で、そんなこと言っていいんですか」
シルヴァが、器から顔を上げて、じろりとエーリク様をにらんだ。
エーリク様は、少しだけ肩をすくめた。
上着には、今夜も白い毛がびっしりついている。
私が手で払ってあげると、エーリク様は石みたいに固まって、それから小さな声で「……すまない」と言った。
この人は、シルヴァに話しかけるときだけ、声がやわらかくなる。
そのことに気づいてから、私は、エーリク様がシルヴァを呼ぶ声を聞くのが好きになった。
◇
ある夜、エーリク様が、ぽつりと話しはじめた。
「一か月前に、祖父が死んだ」
「……おじいさまが」
「先代の神獣番だ。シルヴァの世話を、五十年していた」
エーリク様は、スープの器を両手で包んだまま、夜の路地を見ていた。
「祖父は、いつも料理人たちを叱っていた。『神獣に、人のごちそうをやりすぎるな』と。料理人たちは、うるさい年寄りだと笑っていた」
それから、少しだけ声が低くなった。
「祖父がいなくなって、止める者がいなくなった。料理人たちは、陛下にほめられたくて、競って料理を豪華にした。シルヴァが食べないと、『まだ足りない』と、もっとバターを、もっと肉を足した」
「……それで、シルヴァ様は、ますます食べられなくなったんですね」
「俺は、こいつのおなかの調子が悪いことはわかっていた。でも、何を食べさせればいいのか、わからなかった。祖父に、ちゃんと聞いておけばよかった」
私は、足もとのシルヴァを見た。
最初の晩には浮いていたあばらが、もうほとんど見えない。
銀色の毛は、泥をはねのけるように光っている。
「シルヴァ様は、わがままで食べなかったんじゃありません」
私は言った。
「食べられなかったんです。おなかはすいているのに、王宮には、食べられるものがなかった。だから、夜になると、食べられるものを探して、外へ出ていたんだと思います」
エーリク様は、しばらく黙っていた。
それから、シルヴァの頭に、そっと手を置いた。
「……そうか。お前は、腹がへっていたのか」
シルヴァは、くうん、と鼻を鳴らした。
「北の村ではね、人と犬と家畜が、同じ鍋のものを分け合うんです」
私は、母のことを話した。
「冬は長くて、食べものが少ないから。人が食べたあとの鍋は、犬や羊にも回します。だから母は、スープに、動物の体に悪いものを入れませんでした。脂も、玉ねぎも、濃い塩も」
――このスープはね、ノーラ。人だけのものじゃないのよ。
母の言葉の意味が、やっとわかった気がした。
「あなたのお母上は、いい人だったんだな」
「ええ。とても」
私は、少しだけ笑った。
母の話を、誰かにしたのは、嫁いでから初めてだった。
母が亡くなってから、あの村のことも、母と過ごした台所のことも、胸の奥にしまいこんでいた。
夫に話したところで、きっと「田舎の話など聞きたくない」と言われるだけだろう。
けれど、エーリク様は、急かすことも、笑うこともなく、最後まで聞いてくれた。
母が教えてくれたことを、誰かに伝えられる。
それだけで、少しだけ、母がそばに戻ってきてくれたような気がした。
エーリク様は、器の残りを飲みほしてから、私の帳面を指さした。
「それ、見せてもらえないか。シルヴァの献立を、王宮でも作れるようにしたい」
その夜から、私たちは二人で、シルヴァの献立を考えるようになった。
今日はどのくらい食べたか。
吐いていないか。
毛の艶はどうか。
エーリク様が王宮での様子を話し、私が次の日の作り方を決めて、帳面に書きつける。
けれど、エーリク様が王宮で同じものを作っても、シルヴァはひと口なめるだけで、そっぽを向いた。
食べるのは、裏門で私がよそった器だけだった。
おじいさまが言っていた、とエーリク様は教えてくれた。
「神獣は、料理が誰のために作られたかがわかる、と」
「誰のために?」
「王宮の料理人の料理は、陛下にほめられるために作られていた。あなたの料理は、こいつのために作られている。……たぶん、それも、わかるんだと思う」
嫁いでから半年、私の料理を食べてくれる人は、一人もいなかった。
今は、毎晩、二人と一匹で、空っぽの鍋をのぞきこんでいる。
私は、いつのまにか、よく笑うようになっていた。
◇
夫が帳面を見つけたのは、饗応の三日前のことだった。
その日、夫は王宮から、ひどく険しい顔で帰ってきた。
「ノーラ。王宮で妙な噂を聞いた」
夫は、私の前に立ったまま言った。
「神獣が、夜に抜け出した先で、何か食べてくるようになったらしい。脂を使わない、北の田舎の、根菜と大麦のスープだそうだ。神獣番が、陛下にそう申し上げたと」
私は、息をのんだ。
エーリク様は、私の名前は出さないと約束してくれていた。
夫に知られたら、裏門に出られなくなるかもしれない。
そう話したら、黙ってうなずいてくれた。
けれど、夫は、私の顔をじっと見ていた。
「根菜と大麦。北の田舎。……お前の犬の餌と、同じではないか」
夫は、台所へ向かった。
止める間もなかった。
夫は、棚の奥にしまってあった私の帳面を見つけると、ぱらぱらとめくって、口の端をつり上げた。
「なるほど。脂を使わない。塩も入れない。大麦はやわらかく。……ずいぶん細かく書いてあるな」
「旦那様、それは――」
「これは、ハートウェル家のものだ」
夫は、帳面をマルセルに放り投げた。
「マルセル。饗応には、これを出す。ハートウェル家の料理人が、北の古い料理を研究して作った、と申し上げる」
マルセルは、帳面を受け取って、ちらりと私を見た。
それから、目をそらした。
夫は、もう一度帳面をのぞきこんで、顔をしかめた。
「しかし、地味だな。陛下の御前に出すには、あまりに貧相だ。マルセル、仕上げにバターとクリームをたっぷり使え。王都の料理人の腕を見せろ」
「旦那様、だめです!」
私は、思わず叫んでいた。
「シルヴァ様のおなかは、まだ治りきっていません。脂を入れたら、また――」
言ってしまってから、口を押さえた。
夫の目が、細くなった。
「シルヴァ様? お前、なぜ神獣の名を知っている」
私は、答えられなかった。
夫は、しばらく私を見ていた。
それから、鼻で笑った。
「まあいい。どうせ、噂で聞きかじったのだろう。田舎者の妻が、知ったような口をきくな」
夫は、私の腕をつかんだ。
「饗応が終わるまで、お前は部屋から出るな。田舎者の妻が王宮のまわりをうろついては、私の恥になる」
その夜、私の部屋の扉には、外から鍵がかけられた。
窓の外から、遠吠えが聞こえた。
裏門のほうだ。
シルヴァが、待っている。
エーリク様も、きっと。
私は、扉をたたいた。
何度も、何度も。
けれど、扉が開くことはなかった。
ベスが、扉の向こうから、泣きそうな声で言った。
「奥様、鍵は旦那様がお持ちです。マルセルも、旦那様に逆らえないと……」
私は、扉に額をつけたまま、目を閉じた。
バターとクリーム。
あの子のおなかは、まだ、それを受けつけない。
◇
饗応の日の昼すぎ。
私は、閉じこめられた部屋の窓辺で、王宮のある方角をただ見ていた。
今ごろ、王の前に、バターとクリームのスープが出されている。
シルヴァは、それを食べてしまうだろうか。
食べなかったら、またおなかをすかせたまま。
食べたら、また吐いて、弱ってしまう。
どちらにしても、私にはもう、何もできない。
そのときだった。
屋敷の外が、急に騒がしくなった。
悲鳴と、馬のいななきと、誰かが走る足音。
窓の外を、銀色の光が横切った。
「……シルヴァ様?」
窓の下に、シルヴァがいた。
泥ひとつついていない。
月の下で見るよりもずっと大きく、銀色の毛が、昼の光の中でまぶしいほど輝いていた。
シルヴァは、二階の私の窓を見上げて、一声、高く吠えた。
ベスが、裏庭から叫んだ。
「奥様! 窓を!」
私は、窓を開けた。
シルヴァが、身をかがめて、窓の高さまで跳び上がった。
私は、ほとんど考えるより先に、その背中にしがみついていた。
風が、耳もとで鳴った。
屋根を越え、通りを越え、王都の空を、シルヴァは一息に駆けた。
◇
王宮の広間は、大騒ぎになっていた。
着飾った貴族たちが壁ぎわに逃げ、料理人たちが右往左往している。
広間のまんなかには、白い布をかけた長い台。
その上に、手のつけられていないスープの鉢が一つ、ぽつんと置かれていた。
鉢からは、バターとクリームのにおいがした。
シルヴァは、私を背中に乗せたまま、まっすぐ玉座の前に降り立った。
「ノーラ!」
人垣をかきわけて、エーリク様が駆けてきた。
息を切らせて、上着は今日も白い毛だらけだった。
「シルヴァが、あのスープの匂いをかいだとたんに、広間を飛び出した。……あなたを、迎えに行ったんだな」
「……はい」
私は、シルヴァの背中から降りた。
足がふるえていた。
玉座から、静かな声がした。
「そなたが、ノーラか」
国王陛下だった。
私は、あわてて膝をついた。
陛下の横には、真っ青な顔をした夫が立っていた。
「神獣番から、話は聞いている。神獣を救ったのは、ある屋敷の奥方の料理だと。……名は、最後まで言わなかったがな」
陛下は、台の上のスープを見た。
「ハートウェル子爵は、このスープを、自分の家の料理人が北の古い料理を研究して作ったものだと申した。神獣は、ひと口も食べなかった。ノーラ。このスープを、どう見る」
私は、立ち上がって、鉢をのぞきこんだ。
帳面のとおりの根菜と大麦。
けれど、その上に、黄色いバターが浮いている。
クリームが、大麦の粒をとろりと包んでいる。
「作り方は、私の帳面のものです」
私は言った。
「でも、バターとクリームが入っています。シルヴァ様のおなかは、脂の多い料理で弱っていました。まだ治りきっていないので、これは食べられません。食べなかったのは、シルヴァ様が、自分の体を守ったからです」
陛下は、壁ぎわのマルセルを見た。
マルセルは、帳面を握りしめたまま、がっくりと膝をついた。
「……奥様の帳面です。私は、奥様の書いたとおりに作りました。仕上げにバターとクリームを足せと命じられたのは、旦那様です」
広間が、ざわめいた。
夫が、一歩前に出た。
「へ、陛下! 妻のものは家のもの、すなわち私のものでございます。それに、妻の料理など、ただの田舎の――」
「ノーラ」
陛下は、夫の言葉をさえぎった。
「この場で、神獣のために一皿、作ってもらえるか」
◇
王宮の台所を借りて、私はいつものスープを作った。
かぶと、にんじんと、かぼちゃ。
大麦は指でつぶれるくらいやわらかく。
脂を取った鶏の胸肉を、細かくほぐして。
塩は入れない。
広間に戻って、器をシルヴァの前に置いた。
シルヴァは、匂いをかぐのももどかしそうに、器に顔をうずめた。
ひと口。
ふた口。
広間じゅうが、息をひそめて見守っていた。
器が空になると、シルヴァは顔を上げて、私の手をぺろりとなめた。
それから、満足そうに、私の足もとにごろりと寝そべった。
陛下が、ふうっと長い息をついた。
「……一か月ぶりに、神獣が、人前で食べた」
それから、夫のほうを向いた。
「ハートウェル子爵。もう一度聞く。この料理を、そなたは家でどう扱っていた」
夫は、口ごもった。
そのとき、広間の入り口から、声がした。
「おそれながら」
息を切らせて立っていたのは、ベスだった。
シルヴァを追って、王宮まで走ってきたのだ。
「旦那様は、奥様のスープを、客人六人の前で『犬の餌』とおっしゃいました。『犬にでもやれ』と。奥様は、言われたとおり、毎晩、裏門の犬にあげていたのです」
広間が、しんと静まりかえった。
夫の顔から、血の気が引いた。
「ち、違います、陛下! あれは、その、本当に、ただの犬の餌で……裏門に来る、汚い野良犬にやっていただけの……」
言いながら、夫は、ゆっくりと、私の足もとを見た。
銀色の神獣が、寝そべったまま、夫を見上げていた。
陛下は、静かに言った。
「その『犬』は、わが王家の神獣だが」
シルヴァが、低く、長くうなった。
夫は、その場にへたりこんだ。
◇
夫は、神獣の饗応役を外された。
妻の帳面を盗み、神獣の体を害するおそれのある料理を、陛下の御前に出した罪で、式部官の職も解かれた。
陛下は、私に尋ねた。
「ノーラ。そなたは、この者のもとへ戻りたいか」
「いいえ」
私は、はっきりと答えた。
「離縁を、お許しください」
陛下は、うなずいた。
そして、私を「神獣の料理番」に任じた。
◇
神獣舎の台所は、小さいけれど、日当たりがよかった。
窓の外では、シルヴァが芝生の上で昼寝をしている。
銀色の毛が、風に揺れていた。
私は、二人分のスープをよそって、テーブルに置いた。
片方は塩入り、片方は塩なし。
エーリク様は、塩入りのほうを一口飲んで、言った。
「……うまい」
「それ、毎日言いますね」
「毎日、うまいから」
エーリク様は、器を置いて、しばらく黙っていた。
上着には、今日も白い毛がついている。
それから、目をそらしたまま、ぼそりと言った。
「これからも、毎日、食べたい。……シルヴァの、ついででいいから」
私は、くすっと笑った。
「ついでじゃありません」
エーリク様が、顔を上げた。
「エーリク様の分は、ちゃんと、エーリク様のために作っていますから」
エーリク様の耳が、みるみる赤くなった。
窓の外で、シルヴァが片目を開けて、ふさふさのしっぽで、ぱたんと一度、芝生をたたいた。
「そういえば」
エーリク様が、赤い顔のまま、わざとらしく咳ばらいをした。
「隣の国の神獣も、近ごろ食が細いらしい。陛下が、あなたに相談したいと」
私は、エプロンのひもを結び直した。
「では、まずは、どんなものを供えられているのか、聞くところからですね」
料理は、食べる人のために作るもの。
それを忘れなければ、きっと、どんな相手にも、心から喜んでもらえる一皿を作れる。
母が教えてくれた味を、今度は私が、世界のどこかで待っている誰かに届けていこう。
(完)




