私を留学へ送り出した婚約者と親友は、私の恋文に花丸をつけて笑いものにしていました
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帰国したら、まず最初に伝えたい言葉があった。
ありがとう、と。
苦しい日々のあいだ、私は何度もエドガーからの手紙を読み返した。
あの人の言葉は、遠い王都にまだ自分の帰る場所があるのだと思わせてくれた。
サマンサから届く優しい便りにも、そのたび何度となく救われた。
眠れない夜にはエドガーの手紙を胸に抱き、泣きたい朝には二人からの封筒の端を撫でて、「私はひとりではない」「帰る場所はちゃんとある」と言い聞かせた。
だから私は、予定より少し早く王都へ戻れると分かったとき、その知らせをあえて使いに託さなかった。
私が戻ることを知らせる手紙より、私自身の方が少し早く王都へ着く。そう思うと、かえって嬉しくなったのだ。
驚かせたかった。
帰ってきたのか、とエドガーが目を見開く。
それから、ほんとうに嬉しそうに笑ってくれたらいいと思った。
――本当に、そう思っていた。
◇
「君には、もっと広い場所が似合う」
留学を迷っていた私にそう言ったのは、婚約者である伯爵令息エドガーだった。
私の家もエドガーの家も通商に関わる伯爵家で、父同士の仕事の縁から婚約が決まった。
春のやわらかな陽が差し込む庭園の東屋で、彼は白い石の背もたれに寄りかかりながら、まっすぐ私を見ていた。
「隣国との通商はこれからもっと増える。外国の言葉だけじゃない。商いに使う言い回しや契約の読み方まで分かる人間は少ない。君は向いているよ」
向いている。
その言葉が、どれほど嬉しかったことか。
父はよく、彼を「商いをただの金勘定で終わらせない人だ」と評していた。
少し年上の彼は、私にはずっと大人に見えた。遠くを見ているような、その横顔が好きだった。
「でも、わたくしが行って、本当に意味があるでしょうか」
「あるに決まっている。君が学んだことは君自身のためにもなるし……」
わずかに間を置いて、彼は言った。
「いずれ、私の隣に立つときにも無駄にはならない」
胸が熱くなった。
彼の役に立てる自分になりたいと、本気で思った。
「行くべきよ、リディア。絶対に」
そう言って、親友のサマンサは私の手を包んだ。
王都でも評判の紅茶店で、彼女はいつものように柔らかく笑っていた。
華やかで人目を引くのに、不思議と近寄りやすい。そんな人だった。
学園に入ったばかりの頃、彼女が周囲から微妙に距離を置かれているのを見たことがある。
誰かがはっきり口にするわけではない。けれど、甘えた声や男の子への距離の近さは、同年代の令嬢たちに確かに嫌われていて、彼女のまわりにはいつも薄い線が引かれていた。
ある日の昼食時には、目の前の令嬢がわざと彼女の盆に肘をぶつけ、スープが揺れ、パンが床に落ちた。
周囲は一瞬だけ静まり、それから何事もなかったように目を逸らした。
そういうやり方が、私は嫌いだった。
私は彼女の向かいに座り、自分の盆を置いた。
「これ、半分こにしましょう」
それがきっかけで、サマンサはよく声をかけてくれるようになった。
昼食の席でも、休み時間でも、気づけば一緒にいることが増えていった。
そうして私たちは、自然に友人になった。
「あなたが向こうで素敵になって帰ってきたら、私、誰より先に褒めてあげる」
サマンサはそう言って、嬉しそうに微笑んだ。
「それに、エドガー様だって嬉しいはずよ。お仕事を分かってくれる奥方って、きっと心強いもの」
その頃の私は、本当に幸せだった。
夢を応援してくれる婚約者がいて、背中を押してくれる親友がいた。
三人で笑い合うこの関係が、この先も続いていくのだと疑いもしなかった。
――二人のことを、信じていたのだ。
◇
留学は、思っていた以上に厳しかった。
最初の一か月で、私は何度も声を殺して泣いた。
発音を笑われた日。
商いに使う専門用語の講義についていけず、同席していたクラスメイトたちの視線に耐えられなくなった日。
それだけで済む話ではなかった。
留学先の学び舎は、外国から来た娘にやさしい場所ではなかった。
露骨に追い返されるわけではない。けれど最初から、「外の人間」として見られているのが分かった。
発音を間違えれば、聞き返されるより先に笑われる。
言い回しをひとつ誤れば、空気が止まり、それから上品な微笑みの下で距離を置かれる。
こちらが必死に食らいついている話題ほど、向こうは当たり前のように進めていく。
少し気を抜けば置いていかれ、追いついた頃にはもう次の話に移っていた。
講義も厳しかった。
言葉が分かるだけでは足りない。
商いに使う契約文の癖、土地ごとの慣習、税の動き、品目ごとの相場、港ごとの流れ。
覚えることは山ほどあり、しかも誰も待ってはくれない。
ひとつ遅れれば次も分からなくなり、分からないまま座っている自分だけが、ひどく無能に思えた。
生活もまた、心を休ませてはくれなかった。
食事は口に合わず、寝台は硬く、窓の外の音さえ落ち着かなかった。
王都なら何でもない挨拶ひとつが、ここではよそよそしく響く。
自分では礼を尽くしたつもりでも、あとになって、あの場で失礼だったのではないか、無作法に見えたのではないかと考え出すと眠れなくなる夜があった。
誰かひとりが露骨に石を投げてくるわけではない。
けれど、笑顔のまま値踏みされ、丁寧な言葉のままできない側へ分類される。
その静かな選別の方が、あからさまな悪意よりよほど堪えた。
何度も帰りたいと思った。
講義の朝になると胃の奥が重くなり、靴紐を結ぶ手が止まることがあった。
寮へ戻れば、ようやく今日も終わったという安堵より、明日もまた始まるのかという息苦しさの方が先に来た。
それでも私は机に向かった。
言葉を覚え、数字を追い、恥をかき、また覚えた。
帰りたいと思わなかった日は、一日もなかった。
私が踏みとどまれたのは、王都に帰れば、自分の努力を待っていてくれる人がいると信じていたからだった。
夜、寮の小さな机に向かうたび、王都が恋しくなった。
エドガーに会いたい。
サマンサとお茶を飲みたい。
あの庭園の匂いが恋しい。
そんな夜、私は手紙を書いた。
週に一度。ときには二度。
灯りの芯を整え、机に便箋を広げ、丁寧に言葉を選んだ。
エドガーへは、少し背筋の伸びる手紙を書く。
親愛なるエドガー様。
本日、ようやく専門用語の講義でお褒めの言葉をいただきました。
まだまだ未熟ではありますが、いつかあなたの隣に立つとき、恥ずかしくない私でいたいのです。
時折、堪えきれない恋しさも、そこへそっとしたためた。
会いたいこと。
声が聞きたいこと。
帰ったら一番に顔を見たいこと。
サマンサへの手紙は、もう少し素直だった。
こちらで見つけた花のこと、空の色、学び舎での出来事。
帰ったらたくさん話したいことを、気負わず書くことができた。
学びの足しにもなると思って、私は学業の合間に通訳補助や簡単な翻訳の仕事も引き受けていた。
そこで得たお金は、必要な本や細かな出費に回しながら、少しずつ手元に残していった。
父は留学中も不自由のないよう十分に持たせてくれていたけれど、エドガーやサマンサへの贈り物だけは、自分で得たお金で選びたかった。
エドガーには万年筆や天然石のカフス、手帳を、サマンサには髪飾りや手鏡、香り袋を選んだ。
喜んでほしかった。
遠くにいる私のことを思い出してほしかった。
その品に、自分の時間と気持ちをきちんと込めたかった。
返事は、きちんと届いた。
エドガーからの手紙は整っていて、簡潔で、理知的だった。
けれど、その中にときどき差し込まれる柔らかな一文が、余計に胸を打った。
君の努力を誇らしく思う。
無理はしないでほしい。
帰る日を楽しみにしている。
戻ったら、今度こそ長く抱きしめたい。
君が帰る場所は、いつでもここにある。
サマンサの返事も優しかった。
あなたの頑張りは私の自慢よ。
王都のことは任せて。
帰ってきたら、今度はゆっくり二人でお茶にしましょうね。
眠れない夜にはその手紙を胸に抱き、冷たい朝には封筒の端を撫でながら、「大丈夫」と言い聞かせた。
つらい二年ではあった。
でも私は、あの二人のおかげで何とか耐え、前を向いてこられたのだと思っていた。
帰国の日程が予定より早まった。
けれど私は、そのことをあえて知らせなかった。
もうすぐ会える。
手紙ではなく、声で、顔を見て、ありがとうと言える。
驚かせたかったのだ。
その一心だった。
◇
王都へ戻ったその日、私は屋敷で荷を解くより先に、エドガーに会いに行った。
伯爵家の屋敷で出迎えた家令が、申し訳なさそうに告げる。
「エドガー様は、先ほどお出かけになりました」
少し迷ってから、私は行き先を尋ねた。
答えは、ベルフォールという宿だった。
驚かせたかった。
だから私は、胸の奥の小さな弾みを隠したまま言った。
「私が参りましたことは、どうかお伝えにならないでくださいませ」
そう念を押すと、家令は一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに頭を下げた。
ベルフォールは、王都の中央から少し外れた場所にある品のよい宿だった。
食事にも、内々の相談にも、密会にも使われる。何の用で入っても、それらしく見える。そういう場所だった。
胸の奥に、薄い不安が張った。
それでも私は、商談かもしれない、打ち合わせかもしれないと自分に言い聞かせた。
だが宿の近くで馬車を降りたとき、エドガーと、帽子を深くかぶった女が並んで中へ入るのを見てしまった。
喉が、ひくりと縮んだ。
知り合いだろうか。
商談の相手だろうか。
そう思おうとしても、胸の奥のざわつきは消えなかった。
そこで引き返すこともできた。
けれど、ここまで来てしまった以上、このまま帰る方がかえって落ち着かなかった。
私は少し距離を取って宿に入り、二階へ向かった。
廊下を進んだとき、聞こえてきたのは女の笑い声だった。
最初は、サマンサの声だと分からなかった。
あまりに楽しそうで、あまりに気安かったからだ。
「あら、今回のはずいぶん熱烈ね」
足が止まる。
「どのあたりだ」
エドガーの声。
扉はぴたりと閉まりきっておらず、わずかな隙間があった。
その向こうに見えたのは、サマンサの白い指先、淡い色の便箋、細い赤ペン。
私は、思わず息を潜めた。
「あら、ここなんて素敵よ。『帰国が近づくにつれ、早くお会いしたい気持ちが日に日に募ってまいります。こうして手紙にしなければ、とても平静ではいられません』」
サマンサが、わざと少し甘く、遠慮がちに読む。
私の声色を真似るような、気味の悪い抑揚だった。
頭の中が、真っ白になった。
それは、エドガーに宛てた私の手紙だった。
眠れない夜に何度も書き直し、やっと送り出した一通だった。
どうしてサマンサが、それを持っているの。
「――『あなたへの想いが日に日に抑えきれなくなっていくのです』」
次の瞬間、エドガーが吹き出した。
「似てるな。声の作り方まで」
「でしょう?」
赤ペンが紙を走る音。
「恋慕の重さ、大変よくできました。A。情緒たっぷり」
喉が、音を立てずに乾いた。
「続きは?」
「ええと――『それでも、これほど誰かを恋しく思えるのは、幸せなことなのだとも感じております』」
「そこは花丸だな」
「やっぱり?」
赤ペンが紙を走る音が、やけに大きく聞こえた。
「依存度、非常に良好。A+、花丸。信頼度も満点」
サマンサが面白がるように読み上げる。
エドガーが喉の奥で笑った。
「やめろ」
「どうして?」
「本人を目の前にしたら、笑ってしまうだろ」
そこで、ようやく分かった。
これはただ手紙を見ているのではない。読んで、笑って、採点しているのだ。
「ねえ。リディアとのやりとりなんて、もう半分くらい私がしているようなものじゃない?」
「半分? 下手したら全部お前だろ」
心臓が、どくん、と大きく鳴った。
「でも本当よ。あの子はあなたに向けて一生懸命に書いてるつもりで、返ってくる言葉の大半は私が選んでるの」
「俺の名前で届きさえすれば、中身が誰の言葉かなんて考えもしない」
その言葉が落ちた瞬間、留学先の部屋が脳裏に浮かんだ。
冷えた寝台。
涙で枕を濡らした夜。
胸に抱いて眠った手紙。
あれは、いったい何だったのだろう。
あれを抱いて、私は何を支えにしていたのだろう。
「少し優しいことを書いてやれば、勝手に意味を深くして、勝手に支えにしてくれる。楽なものだよ。あいつ、すぐ信じるだろ」
「信じています、って。あの優しい顔で言うものね。少し癖になるわ」
「それに、向こうへやって正解だったわよね。あの子が王都にいたら邪魔だったもの」
「まあな。行ってくれてよかったよ」
エドガーの声は平板だった。
「背中を押されたと思ってるのよ、あの子。厄介払いされてるなんて夢にも思わずに」
「あんまり放っておいて本当に折れたら困るだろ」
エドガーは何でもないことのように言った。
「早く帰ってこられても使えない。少しくらい役に立つものを持って戻ってもらわないと困る」
喉がひくりと鳴る。
「だから、たまにちゃんと餌をやってただけだ」
餌。
その言葉で、胸の奥がひどく静かに凍った。
私が胸に抱いて眠った手紙。
泣きそうな夜を越えるために何度も読み返した言葉。
それが、餌だった。
「二年間、ずっとこうだったのよ。向こうで傷ついて、泣いて、こっちの手紙に縋って、また立ち直って。少し優しくしてあげるだけで、毎回きれいに食いついてくるんだもの」
二年。ずっと。
知らない土地でうまく笑えなかったこと。
講義についていけなくて、部屋で一人泣いたこと。
寒い夜、薄い毛布の中で手紙を握っていたこと。
その全部を、この二人は知っていた。
知っていて、餌にしていた。
「お前も本当によく飽きないな」
「飽きるわけないじゃない。だって、こんなに出来のいい玩具、そうそうないもの」
エドガーは否定しなかった。
「……まあ、気分はいいな」
その一言で、足元の何かが完全に崩れた。
私は、二年間耐えたのだと思っていた。
でも違った。
耐えさせられていただけだった。
そのとき、サマンサが身を寄せた拍子に、エドガーの胸元のポケットから細い紐がのぞいた。
「あら、これ」
つまみ上げたのは、小さな花のしおりだった。
留学先の庭で見つけた青白い花を押して、細い紐で綴じたもの。手紙と一緒に送ったものだ。
「まだ取ってあったのね」
「こういうのは、帰ってきたあとで『ちゃんと取ってある』って見せると効くんだよ」
呼吸が、止まった。
「大事にしてくれてる、ってあの子が勝手に喜ぶのね」
「実際そうだろ。あいつはこういう細かいもので満足するんだから、楽だ。大事な餌だ、戻しておいてくれ」
サマンサはくすくす笑いながら、しおりを胸元のポケットへ戻した。
「でも残念。これは可愛いだけで、今日の部屋代にもならないもの」
「そんなくだらないものより、もっと金になる物の方がましだ」
サマンサの視線が、机の端の小箱へ移る。
天然石のカフスの箱だった。
「これなら、今日の部屋代くらいにはなるでしょう?」
息が止まる。
「使わないなら売ればいいだろ。どうせ全部取っておくほどの趣味じゃないしな」
「まあ、人聞きが悪いことをおっしゃらないで。使わずに置いておくより、役に立つというだけよ」
「リディアに見せる用のものを二つ三つ残しておけば十分だ。あとは宿代に回すなり、好きにしろ」
「前の贈り物も、ずいぶん役に立ったものね」
香油瓶。
万年筆。
手帳。
学業の合間に働いて得た金で買ったもの。
それが、役に立った。
そういうことなのだ。
「あの子、向こうでまた泣いたみたいよ」
「どこだ」
「ここ。『昨夜は少し泣いてしまいました。けれど、あなたのお手紙を胸に抱いて目を閉じたら、不思議と落ち着いて……』」
そこで彼女は、堪えきれないように笑った。
「抱いて眠るほど効くなんて、出来が良すぎるわね」
「あなたの手紙を胸に抱いて眠ったんですって。可愛いというより、便利よね。こんなに簡単に縋ってくれるんですもの」
エドガーが鼻で笑う。
「そこまでとはな」
「あなた、本当によく分かってるわよね。リディア、出立の前に軽く抱きしめられただけで、あんなに赤くなって。それだけで二年ももつんですもの」
「単純なんだよ」
布の擦れる音。
ソファーがかすかに鳴る音。
サマンサが、しなるように身を寄せたのが分かった。
「あなたに何でも差し出すつもりでいる女。信頼も、将来も、初めても」
サマンサがいやらしい声で囁く。
エドガーが低く笑う。
「どうせ婚約者だ」
「でも、お堅いところは嫌いなんでしょう?」
「好きじゃない。真面目すぎるし、少し面倒だ」
胸の奥が冷たくなる。
「でも手放さないのね」
「手放す理由もないだろ。あれだけ俺に熱を向けて、何でも差し出すつもりでいる女を。下働きみたいにただで使えて、そのまま手元に置いておけるなら十分だ。あんなの、奴隷と大して変わらない」
私は、目を閉じた。
何でも差し出すつもり。
その言葉が、自分でも否定できなかった。
私はそうだった。
信じていたから。
愛していたから。
将来も、想いも、人生も、全部差し出すつもりでいた。
「今はあんなに真面目ぶっていても、夫婦になればどうとでもなるだろ」
「ねえ、あとでちゃんと教えてくださいな。昼の勉強はあんなに熱心なのですもの。あなたの手ほどきで、夜の方がどれだけお上手になるのか、親友としてとても気になりますわ」
視界がぐらりと揺れた。
そのとき、サマンサが身を寄せた拍子に机の上の便箋が押しやられ、床へひらりと落ちた。
「親友と婚約者のこんなところ、リディアが見たら泣いてしまいそう」
「見るわけない」
薄い絹のショールが、するりと床へ落ちた。
そこで、もう耐えられなかった。
その音を最後に、私は踵を返した。
泣かなかった。
泣けなかった。
階段を下りるあいだ、足元は確かだった。
宿を出るまで、誰ともぶつからなかった。
馬車に乗り込むときも、声は震えなかった。
けれど屋敷へ戻る途中で、一度、どうしても我慢ができなくなった。
「止めて」
自分でも驚くほど掠れた声だった。
馬車が止まる。
降りた瞬間、私は道端に膝をつき、胃の中のものを吐いた。
何も残っていないはずなのに、何度もえづいた。
喉が焼ける。
涙が勝手ににじむ。
でも、それは泣いているのではなく、ただ体が拒絶しているだけだった。
気持ち悪かった。
吐いても吐いても、胸の奥に残ったものは消えなかった。
あの二年。
知らない土地で泣いた夜。
眠れなくて、手紙を胸に抱いた夜。
立ち上がれたと思った朝。
全部。全部。
屋敷へ戻ってからも、その夜は何も食べられなかった。
水を飲んでも吐いた。
眠ろうとすると、赤い花丸と、胸に抱いて眠ったエドガーの手紙が、瞼の裏で重なった。
気持ち悪い、と思った。
私は、何を抱いて眠っていたのだろう。
誰の言葉を信じて、二年も耐えてきたのだろう。
暗い天井を見つめたまま、何度も同じことを考えた。
エドガーは昔から、私が真面目に話しているときほど、どこか退屈そうに目を細めることがあった。
サマンサもまた、私の真剣な悩みをふっと笑って流すことがあった。
小さな違和感はいくつもあったのだ。
でも私は、自分が信じたい姿の方を選んだ。
理想の婚約者。
理想の親友。
そうであってほしいと願う自分の気持ちを、理解だと勘違いしていた。
今なら分かる。
二人は私を愛したのではない。
私に愛されている自分たちを愛していたのだ。
◇
食べても吐いた。
眠れず、眠っても悪夢を見た。
それでも三日目の朝、私は父の前に座った。
ベルフォールで見聞きしたことを、私は最初から最後まで話した。
そして、泣いて終わるつもりはないことも、これから証拠を集めるつもりでいることも。
父は途中で一度だけ、深く目を閉じた。
そして目を開いたときには、もう伯爵の顔になっていた。
「分かった。なら、最後までやりなさい」
その言葉に甘えて、私は動いた。
まず、私はベルフォールへ戻った。
宿の主人はやはり口が固く、最初は何も話そうとしなかった。
けれど、婚約者の名と、私が贈り物を送った控えを前にすると、表情がわずかに変わった。
「本来、こういうことは申し上げるべきではありません」
低い声でそう言ってから、主人は帳簿を持ってこさせた。
現金だけではなく、品でも精算された日があった。
その中に、私が送った香油瓶や万年筆の記載があった。
私の贈り物は宿の支払いに消えていたのだ。
帳簿を閉じたあとも、主人はしばらく黙っていた。
やがて、ためらうように口を開く。
「……あの日のお部屋に、紙が残されておりました。処分せず、こちらで預かっております」
出されたのは、床に落ちたままになっていた私の手紙の原本だった。
余白には赤い書き込み。返書の下書きにはサマンサの筆跡。
私が必死に綴った想いの上から、二人の嘲りが重ねられていた。
私が言葉を失っていると、主人は視線を逸らしたまま言った。
「宿では、見聞きしたことを外へ出さぬのが務めです。ですが……今回ばかりは、見過ごせませんでした」
それ以上は語らなかった。
けれど、それで十分だった。
これで足りる。
いや、足りるだけではだめだ。
逃げ道そのものをなくさなければ、意味がない。
ちょうどその頃、私が帰国前に出していた手紙が王都へ届くはずだった。
帰国の日程が早まる前に送った一通だ。
そこには、こう書いていた。
やっとあと十日ほどで帰ることができます。
この手紙が最後になるかもしれませんね。次はもう、顔を見て言えるでしょうから。
誰より先に、あなたに会いたいのです。
この二年で、私はあなたを想う気持ちがどれほど深くなっていたかを、思い知りました。海より深い、なんて書いたら笑われてしまうかもしれませんね。それでも、本当なのです。
帰ったら、今度こそ少しでもあなたの役に立てる私でいたいのです。
あの二人なら、また会う。
また笑う。
また返事を考える。
私が黙っていると、主人が低く言った。
「……次にお二人がお見えになる日も、だいたい見当はついております」
私は顔を上げた。
「もし、お望みなら、隣のお部屋をお取りします」
主人は最後まで、こちらをまっすぐ見なかった。
それでも、その申し出がただの商売ではないことは分かった。
私は静かに頷いた。
「お願いいたします」
あの二人なら、また会う。
また笑う。
何事もなかったように、同じことを繰り返すのだろう。
私はその日を待った。
◇
二度目のベルフォールで、私は事前に、二人が密会する予定の隣の部屋で待った。
主人が用意したそこは、壁一枚隔てた隣室だった。
こちらの声は届きにくく、向こうの声は拾いやすい。
ほどなくして、二人が来た。
扉の開閉の音。
笑い声。
衣擦れ。
それだけで、胸の奥が冷えた。
「読んだ? 今回の」
サマンサの弾んだ声がした。
「どれだ」
「これよ。もうすぐ帰ってくるんですって。最後の手紙になるかもしれません、ですって。寂しいわねえ」
紙の擦れる音。
それから、わざとらしく息を整える気配。
「『この二年で、私はあなたを想う気持ちがどれほど深くなっていたかを、思い知りました。海より深い、なんて書いたら笑われてしまうかもしれませんね。それでも、本当なのです』」
吹き出す声がした。
エドガーだった。
「海より深い、か」
「少しロマンチックすぎるわよね。Bかしら」
サマンサがくすくすと笑う。
「でも嫌いじゃないわ。必死さはよく出てるもの」
赤ペンが紙を走る音。
「そのあとがもっといいの。『帰ったら、今度こそ少しでもあなたの役に立てる私でいたいのです』ですって」
一拍のあと、エドガーが鼻で笑った。
「そこはA+だな。都合の良さに花丸だ」
「ええ、花丸ね」
また赤ペンの音がした。
「向こうで覚えた言葉も契約の読み方も、戻ったらこっちで使わせればいいんですもの。本人は“支えるつもり”で喜ぶし、こんなに手間のかからない話、ないでしょう?」
「伯爵家の娘で、しかもこっちに惚れてる。あれだけ揃ってれば十分だ」
言葉が、冷たいまま胸の奥へ沈んでいく。
「親友の顔をしていれば、あの子ほんとうによく喋るもの」
サマンサの声が、甘く沈む。
「私を少しも疑わず、安心した顔で何でも預けてくるでしょう? あの顔を見るの、好きなの。あの子が、何も知らないまま私を信じきった顔でいるのが、たまらないわ」
くすくすと笑う気配。
「慰めれば安心するし、背中を押せば信じるし、そのまま大事なものまで差し出してくるのに、自分が取られてるって気づきもしないんですもの」
笑い声。
「ほんとうに性格が悪いな、お前」
「お互い様でしょ?」
ソファーが軋む。
「あなただって好きなくせに。あの子が自分から首輪をつけてくるところ」
「楽だからな」
エドガーの声は淡々としていた。
「情で繋いでおけば勝手に働く。少し優しくしてやれば、その何倍にもなって返ってくる。あれほど使いやすい駒はない」
駒。
そういうものとして見ていたのだと、今はもう驚きもしなかった。
「でも、あの子、変に真面目でしょう? 嫌だと思うことまで、そう簡単に飲むかしら」
「飲むよ」
エドガーは即答した。
「夜に来いと言えば来る。疲れていても、遅くても、“会いたかった”と言えば嬉しそうな顔をする。少しくらい無理を言っても、断るより先に相手を困らせないかを考える女だ」
吐き気よりも先に、ひどく澄んだ嫌悪が立ち上がる。
「頼られた、必要とされたって顔をするもの。あなたのためならって、自分から飲み込んでくれるでしょう?」
サマンサが笑う。
「あいつは俺に誠心誠意尽くす。俺はそれを受け取ってやって、ときどき餌をやればいい」
「削られるのは、あの子だけね」
「本人がそう思わないなら問題ないだろ」
二人が笑う。
「ねえ、結婚したあともそんなふうに言うことを聞くかしら」
「聞く」
エドガーは迷いなく言った。
「嫌だと思っても、“ここで拒めば俺を困らせるかもしれない”“私が我慢すれば済むなら”の方を選ぶ。泣くことはあっても、最後は自分で飲み込むさ」
ソファーが、かすかに鳴った。
「リディアって、ほんとうに便利ね」
サマンサが喉の奥で笑う。
「だから手放す理由がない」
エドガーの声は低かった。
「惚れてる。役に立つ。家にも利く。あれだけ揃ってれば十分だ」
「しかも、まだ誰の手垢もついていない、綺麗なまま」
サマンサが、愉快そうに囁いた。
「そういう子ほど最初が肝心よね。昼だけじゃなく、夜もちゃんと躾けてあげなくちゃ。少し無理をさせることでも、“愛してる”“お前だけだ”って甘い顔で言えば、最後は受け入れるでしょうし」
血の気が引くほど静かな嫌悪が、胸の奥に広がった。
「ああ、最初に一度受け入れさせれば、あとは早い」
エドガーが笑う。
「首輪をつけた犬みたいなものだ。……いや、あそこまで従順なら、ほとんど奴隷だな」
「素敵」
サマンサが喉の奥で笑う。
「最初は嫌だったくせに、きっと次はもっと上手くやろうとするのね。ほんとうに都合がいいわ。花丸よ」
そのあとも、聞くに堪えない言葉は続いた。
気づかない。
都合がいい。
親友のまま奪えばいい。
結婚したあとも使い道はいくらでもある。
そういう言葉が、笑い声と一緒に壁越しに流れ込んでくる。
やがてソファーが大きく軋み、衣擦れの音が近づいた。
私は立ち上がった。
扉へ手をかける。
そのまま、躊躇なく開け放った。
はだけた姿のサマンサが、ソファーの上でエドガーの股の間に収まるように座り、背中から彼にもたれていた。
背後から腰を抱かれたまま、広げていた手紙の上でサマンサの赤いペン先が止まる。
笑い声が消えた。
その一瞬の静けさだけで、もう十分だった。
私は扉を開けたまま、部屋の中へ一歩入った。
サマンサの手から手紙がはらりと落ち、エドガーは立ち上がりかけた姿のまま固まる。
サマンサははだけかけた胸元に反射的に手をやり、慌てて布を寄せた。
「……リディア」
最初にそう言ったのはエドガーだった。
驚きと狼狽、それでもまだ何とかなると思っている甘さが、声に滲んでいた。
「なぜここに。まだ帰っていないはずだろ」
「お会いしたくて参りました」
静かに答える。
サマンサが慌てて立ち上がる。乱れた裾を直しながら、親友らしい潤んだ目を作った。
「違うの、聞いて。これはあなたのことを話していたの。もうすぐ帰ってくるあなたを、どう迎えたら喜ぶかって、その相談を――」
その横で、エドガーがはっとしたように表情を変えた。
さっきまでの狼狽を押し隠し、今度はひどく甘い顔を作る。
「そうだ。少し驚かせようと思って、あえて人目につかないところで――」
そこまで言ってから、自分の格好に気づいたのだろう。
襟元の釦は途中まで外れ、胸元があらわになっている。
視線がさらに下へ落ちる。トラウザーのフックまで外れ、下げる途中のままだった。
今まさに事に及ぶつもりだったと、自分で白状しているような有様だった。
「……いや、今日は暑かったから、少し楽な格好でいただけで、何も」
そこで一歩、こちらへ来る。
「リディア、違う。本当に違うんだ」
低く、やわらかな声。
留学先で何度も胸に抱いて眠った手紙の延長にあるような、私を安心させるための声音だった。
「会いたかった。知っていたら、すぐにでも会いに行くつもりだった」
さらに、もう一歩。
「寂しかったんだ。お前がいないあいだ、俺だってずっと――」
そこでエドガーは、ふと思い出したように胸元へ手をやった。
ポケットから取り出したのは、小さな花のしおりだった。
留学先の庭で見つけた青白い花を押して、細い紐で綴じたもの。――大事な餌。
「……あのしおりも、ちゃんと取ってある。嬉しかった。お前らしいと思っていた」
その言葉に、胸の奥がすうっと冷えた。
まだその手を使うのか、と。
そのまま抱き寄せようとするように両腕を伸ばしかける。
はだけた胸元のまま、甘い声のまま、まだこの顔で押し切れると思っているのだ。
身の毛がよだった。
とっさに私は身を引いた。
エドガーの手が空を切る。
私の目にあったのは、怒りでも涙でもない。
汚物でも見るような、冷えきった嫌悪だった。
私はそのまま、サマンサへ視線を移した。
潤んだ目も、震える声も、今の私には腐ったものへ香を振りかけて誤魔化しているようにしか見えなかった。
甘く取り繕うほど、中の腐りきったものが透けて見える気がして、ぞっとするほど気味が悪い。
エドガーの目の色が変わった。
甘さが消え、焦りと苛立ちがのぞく。
「……何だ、その目は。後をつけて来たのかどうか知らないが、帰ってきたのならそう言えばいいものを。だまし討ちのようなことをして。卑怯だろ」
答えず、私は机の上に視線を落とした。
赤い花丸。
インク。
私の手紙。
宿代に換わるはずだった贈り物の箱。
それを一つずつ見てから、私はふわりと微笑んだ。
「私のお手紙を毎度ご採点いただき、ありがとうございました」
空気が止まる。
サマンサの笑みが凍りついた。
エドガーの眉がぴくりと跳ねる。
「……何を、言って」
「せっかくですもの」
私は穏やかな声のまま続けた。
「お礼に、今度はお二人のやりとりも採点していただこうと思いましたの」
エドガーの喉が鳴った。
サマンサの指先がわずかに震える。
「何のことだ」
エドガーが低く言う。
さっきまでの狼狽を押し隠し、苛立ちを混ぜた声だった。
「意味の分からないことを言うな、リディア」
「意味なら、すぐにお分かりになりますわ」
私は扉の向こうへ視線を向けた。
「今後、お二人と深く関わることになるかもしれない皆様にも、お二人がどういう方か知っていただいた方がよろしいと思い、お呼びいたしましたの」
静かに微笑む。
「わたくしも長くお付き合いしてまいりましたのに、よく分かっておりませんでしたもの。ですから皆様には、事前に知っていただいた方が親切かと存じましたの」
二人の顔色が変わった。
「……は?」
エドガーの声がかすれる。
「何を――」
「どうぞ」
私が告げると、隣室の扉が静かに開いた。
最初に入ってきたのは父だった。
続いて、エドガーの父。
サマンサの後見人である叔父。
エドガーが就こうとしていた商会の重役。
最後に、サマンサに縁談を持ちかけていた家の夫人。
ひとり、またひとりと姿を見せるたびに、二人の顔から血の気が引いていった。
サマンサが一歩後ずさる。
エドガーは言葉を失ったまま、その場に立ち尽くした。
「お二人がどのようなお話をなさるのか、最初から最後まで、別室でご一緒に聞いていただいておりましたの」
沈黙が落ちる。
「立ち聞きではありませんわ。わたくしが、お呼びしたのです」
「リディア、お前……!」
エドガーの顔が怒りで赤くなる。
焦りと狼狽が混じった、醜い色だった。
「勝手なことを――!」
「勝手?」
私は緩やかに首を傾げた。
「婚約者の不在をいいことに親友と逢瀬を重ね、私の手紙を持ち出して赤で採点し、贈り物を宿代に換え、そのうえ私を奴隷のように扱おうと算段していたお二人が、そのようなことをおっしゃるの?」
エドガーが息を呑む。
「違う、それは……少しふざけただけだ!」
「そんなことで、こんな大ごとにする方がおかしい。父上、これは誤解です。リディアが勝手に聞いて、勝手に騒いでいるだけで――」
乾いた音が響いた。
エドガーの頬が横にはじける。
父親の平手だった。
「黙れ」
低い声だった。
怒鳴ってはいないのに、部屋の空気が震えた。
「たった今、自分の口で吐いた言葉を、何で塗り替えられる」
エドガーは頬を押さえたまま、呆然と父を見た。
サマンサが慌てて一歩出る。
「ち、違うんです、おじさま。わたくしはただ、少し、ふざけて――」
「ふざけて」
叔父が初めて口を開いた。
冷えた声だった。
「親友の恋文に花丸をつけ、心を踏みにじり、婚約者と寝台へもつれ込もうとしておいて、それを“ふざけて”で済ませるつもりか」
サマンサの唇が震えた。
「わたくし、そんなつもりでは……」
「なら、どういうつもりだった」
返せない。
目だけがあわただしく泳ぐ。
潤んだ目も震える声も、もう誰にも通じなかった。
私は床に落ちた一枚を拾い上げた。
「では、採点を始めましょうか」
二人がはっと私を見る。
「どうぞ」
私はエドガーの父へ視線を向けた。
彼は散った手紙と息子の顔を見比べ、吐き捨てるように言った。
「評価に値しない」
エドガーの肩がびくりと揺れる。
「家名を背負う資格なし。人としても、跡取りとしても論外だ。人の真心を面白がる男に、家を継ぐ値打ちはない」
「父上、俺は――」
「黙れ」
ぴしゃりと言い切られ、エドガーは口を閉ざした。
私は今度は商会の重役へ向き直る。
「では、次をお願いいたします」
重役は机の上の赤字を一瞥し、冷ややかに言った。
「通商に必要なのは知性と信頼です。申し訳ないが、そのどちらも見受けられません」
エドガーの顔色がさらに変わる。
「知性はD。信義は零。品位は評価以前の問題です。私情のために婚約者を利用し、その留守に親友と密会するような方を、商いの場へ立たせる気はありません」
「待ってください……! それは違う、これは一時の、その、軽率な――」
「軽率で済むと思っている、その認識がもう致命的です」
重役は顔色ひとつ変えなかった。
その言葉が終わるより早く、サマンサが縋るように口を開く。
「わ、わたくしは……」
けれど私は、次に縁談相手側の夫人へ目を向けた。
「奥様も、お願いいたします」
夫人はサマンサを頭の先から爪先まで眺めた。
何ひとつ値打ちを認めない視線だった。
「結構です」
短い一言。
サマンサの顔が真っ白になる。
「親しい方の真心を笑いものにし、その婚約者と逢瀬を重ね、贈り物を宿代に換え、それを悪びれもしないお嬢さんを、家へ迎える気はございません」
「そんな……」
「淑女として不可。心根も不可。家の内へ入れる理由が一つも見当たりません」
サマンサの膝がわずかに折れる。
けれど、誰も支えない。
サマンサの叔父が低く言った。
「私は、お前が浅はかだとは思っていた。だが、ここまで卑しいとは思わなかった」
サマンサがびくりと肩を震わせる。
「親友の立場に甘え、信頼に寄りかかり、その心を踏みにじって愉しむ。お前が欲しかったのは愛情ではない。あの娘から奪えたという実感と、あの娘より上に立てた気分だけだろう」
叔父は冷えた目で姪を見た。
「感謝するより、奪えたと思いたかった。だから友であるふりをして、少しずつ取り上げたつもりになっていた」
サマンサの顔が引きつる。
「そんな人間を、私は家の娘として人前に出せない。淑女以前に、人として恥だ」
「おじさま……」
「その呼び方をするな」
短く切られ、サマンサは息を呑んだ。
そして、父が静かに口を開く。
「……最低だ」
その一言には、怒鳴り声より深い軽蔑があった。
父の視線が、エドガーとサマンサのあいだをゆっくり往復する。
「婚約を裏切ったことだけを言っているのではない。人の真心を読んで笑い、採点し、苦しみを知りながら餌にする。信じている相手の人生を、自分たちの都合で削って愉しむ」
部屋がしんと静まり返る。
「こんな人間を、私は娘の人生のそばに置けない」
私は手の中の手紙へ視線を落とした。
「皆様のご評価は、なかなか厳しいようですわね」
エドガーもサマンサも、もう私を見るしかなかった。
助けを求めるような、信じられないというような、みじめな目だった。
私はそんな二人に、ふわりと微笑んだ。
「けれど、私はお二人に満点を差し上げたいと思いますの」
沈黙。
「……え」
サマンサの唇が震える。
「A+、花丸」
私は机の上の赤インクを見たまま言った。
「お二人の本質が、たいへん分かりやすく、過不足なく表れておりましたもの」
エドガーの顔が歪む。
サマンサは、ひっと小さく息を呑んだ。
「婚約者の留守に親友と逢瀬を重ね、私の手紙を採点し、私の真心を宿代にし、私の未来を所有物のように口になさって――」
私はゆっくり顔を上げた。
「しかも、見つかったあとでなお、甘い声と涙で誤魔化せると思っていらした」
誰も動けなかった。
「ここまで見事に卑しさを揃えてくださるなんて、満点としか申し上げようがありませんわ」
ほんの少し首を傾ける。
「私を下働きだの、奴隷と大して変わらないだのとおっしゃって、そのうえ見つかったあとでなお、甘い声と涙で押し切れると思っていらした。そこまで含めて、実に分かりやすうございました」
エドガーの顔から血の気が引く。
「花丸ひとつでは足りないくらいに」
そう言って、私は手紙を静かに机へ置いた。
サマンサが堪えきれずに一歩踏み出す。
「リディア、お願い、違うの……!」
伸ばされた手を見て、昔、その手を握り返した日のことを思い出した。
あのとき私は、この手を信じていた。
「違わないわ」
穏やかに言い切る。
「お二人の言葉は、最初から最後まで、皆様のお耳にきちんと届いておりますもの」
「……リディア」
エドガーが唇を噛む。
「あなたは、私に愛されるのはお好きだったのでしょうね」
エドガーの肩がびくりと揺れた。
「けれど、私を尊重する気は一度もなかった」
そのままサマンサへ視線を移す。
「あなたは、愛されたかったのではないわ。私から奪えた、という実感が欲しかっただけ」
サマンサの目から、とうとう涙がこぼれた。
けれどもう、その涙に意味はない。
「あなたは、私に助けられたことに、ずっと劣等感を抱いていたのでしょうね。感謝するより、奪えたと思いたかった。だから親友の顔をして、少しずつ私のものを取っていった」
図星だった。
それは、誰の目にも分かった。
私は指輪を外し、机の上へ置いた。
「本日をもって、婚約は破棄いたします」
澄んだ音が響く。
「そしてサマンサ。あなたとも、これで終わりです」
父が低く言う。
「異議はない」
それで、すべて終わった。
◇
その後のことは、私が何かしたわけではない――少なくとも、そう見えた。
誰かの茶会へ出向いて、二人の醜聞を嬉々として語ったわけではない。
泣き喚きながら訴え回ったわけでもない。
ただ、必要な相手に必要なことだけを伝え、あとは口を閉ざした。
けれど、それからしばらくして、二人のまわりから静かに人がいなくなり始めた。
最初は、ささやかな変化だった。
いつもなら当然のように届いていた茶会の招待が、サマンサには来なくなった。
以前なら必ず声のかかった集まりで、エドガーの名だけが外されるようになった。
商会の若手が集まる席でも、彼が近づくと会話が一瞬だけ止まる。
誰も露骨には避けない。けれど、誰も心からは迎え入れなかった。
やがて、二人の耳にも断片だけが届くようになった。
婚約者へ送られた手紙。
赤い花丸。
宿の支払いに消えた贈り物。
親友の声を真似て笑っていたこと。
婚約者の留守に逢瀬を重ねていたこと。
甘い言葉で縛り、役に立つうちは手放さないと笑っていたこと。
そして、婚約者を下働きだの奴隷と変わらないだのと扱っていたこと。
知っている者しか知りようのないことばかりだった。
なのに、誰が最初に口にしたのかは分からない。
ただ、言い逃れに必要な余白だけが、きれいに潰されていた。
社交界は、不実そのものより、品のなさを嫌う。
だから二人は、浮気をした男女としてだけではなく、人の真心を面白がり、恩を踏みにじり、それを遊びにできる人間として、静かに嫌われていった。
エドガーに進んでいた通商補佐の話は、表向きは「時期尚早」という理由で見送られた。
けれど、その場にいた誰もが知っていた。
あれは先送りではない。拒絶だった。
信義は零。
品位は評価以前。
その言葉は、思った以上に長く残った。
やがて伯爵家では、次男の方が前へ出るようになった。
エドガーの父が、もはや跡取りとして見ていないことは、誰の目にも分かった。
婚約破棄に伴う賠償も、父がきっちり片をつけた。
後になってその額を聞かされ、私は思わず目を見開いた。
――さすが、お父様だと思った。
サマンサに進んでいた縁談も、理由をはっきり告げられないまま立ち消えた。
けれど、その家の夫人が一度だけ漏らしたという。
――家の中へ入れたら、空気が腐る。
それが広まるのに、時間はかからなかった。
叔父もまた、サマンサを親しい席へ同席させなくなった。
怒鳴るより先に、見限られたのだと、誰の目にも分かった。
そしてありがたいことに、私の方には別の話が来た。
留学で学んだことを見込まれて、父のもとで商会とのやり取りを手伝ってほしいと言われたのだ。
王都では思いのほかそれが評判になった。
隣国の言葉を読めること。
契約の癖を見抜けること。
曖昧な文言に曖昧なまま頷かないこと。
それらは、思っていた以上に価値があった。
あの二年で得た力だけは、誰にも奪えなかった。
◇
それからしばらくして、二人がそろって王都の屋敷を訪ねてきた。
取次を受けたとき、私は少しだけ考えた。
この期に及んで、まだ何を求めて来たのだろう、と。
追い返すこともできた。
けれど最後に一度だけ、この目で見ておこうと思った。
どこまで落ちてもなお、赦されると思っている人間の顔を。
応接室へ入ると、エドガーは痩せていた。
サマンサは泣き腫らしていた。
それでも二人の目の奥には、まだ残っていた。
私なら最後には手を差し伸べてくれるかもしれない、という甘えが。
「リディア……頼む。悪かった」
エドガーの声は掠れていた。
「気の迷いだったんだ。あのときは寂しくて、何もかも間違えた。今になって分かった。俺に必要だったのは、お前だけだった」
その告白に、サマンサがびくりと肩を震わせる。
だがすぐに涙を浮かべて一歩進み出た。
「わたくしもよ、リディア。あなたはずっと、私の大切な友人だったわ。お願い、こんな終わり方……」
私は二人を見た。
エドガーは最後まで、自分を一番だと思ってくれる女を手元へ戻したいだけ。
サマンサは最後まで、自分を信じたままの親友がまだ残っていると思っているだけ。
だから、私はふわりと微笑んだ。
昔と少しも変わらない、穏やかな微笑みだった。
信じた相手を疑わず、安心した顔で何でも差し出していた頃の、あの顔。
サマンサが少し癖になると笑い、エドガーが少し優しくしてやれば何倍にもなって返ってくると受け取っていた、あの顔だった。
その笑みを見た瞬間、二人の顔に安堵が差した。
エドガーの肩が、わずかに落ちる。
サマンサの唇も、泣き笑いのように緩む。
ああ、まだ間に合う。
まだ捨てられていない。
また、あの頃のように信じてくれる。
そう思ったのだろう。
「もう、どなたにも信じてはいただけないのですね」
二人が息を止める。
けれど、その声はあまりにやわらかかった。
責める響きではなかった。
だからこそ、二人はまだ縋るように私を見た。
ほんの少しだけ間を置いて、私は続けた。
「でも、そんなお二人を、私は信じていますわ」
その言葉に、二人の顔に浅ましい希望が浮かんだ。
だからこそ、次の言葉は容赦なく落ちた。
「お二人が、この先も何ひとつ変われないことを」
沈黙。
私はそこで初めて、二人をまっすぐ見た。
もう怒りではなかった。
悲しみでもなかった。
ただ、うっかり触れれば穢れが移りそうなものを見るみたいに、冷えた目で見ていた。
「今までずいぶんお世話になりましたもの」
ふわりと微笑んだまま言う。
「再び這い上がれないように。そして、二度と私のような者を生まないように、最後まできちんとお手伝いいたしますわ」
エドガーの顔から血の気が引いた。
サマンサの唇が、かすかに震える。
「……リディア」
エドガーがようやく絞り出す。
「そんな、そこまで――」
「ご安心くださいませ」
私はやわらかく言った。
「奈落の底まで、きちんとお見送りいたしますわ。そこから先へ出られぬよう、蓋もしておきますもの」
その一言で、二人の顔に浮かんでいたわずかな希望が、きれいに消えた。
私は一礼し、静かに背を向けた。
背後でしばらく沈黙が落ちる。
だが、それも長くは続かなかった。
「……あなたが余計なことを言うからよ!」
最初に弾けたのは、サマンサの声だった。
「“俺に必要だったのは、お前だけ”ですって? 今さら何のつもりよ。こうなったから慌ててリディアに縋ろうとしているだけでしょう!」
「お前が泣きついたからだろうが!」
エドガーの怒鳴り声が返る。
「最初にあいつの手紙へ赤を入れだしたのは誰だ! 声まで真似して、いちばん面白がっていたのはお前だろう!」
「でも笑ってたのは誰よ!」
サマンサの声が甲高くなる。
「A+だの花丸だの、いちばん楽しそうに言っていたくせに! 私一人でやったみたいに言わないで!」
「お前が始めたんだろうが、このアバズレ!」
何かがぶつかる鈍い音。
「私のせい!? リディアがやらせてくれないからって、私のところへ来たのは誰よ! あの子には善人ぶった顔をして、裏では飢えた犬みたいだったくせに!」
「黙れ!」
「――リディアの婚約者じゃなかったら、誰があんたなんか相手にするもんですか! 中身は空っぽのくせに、家名と顔だけで偉そうに!」
一瞬だけ向こうが静かになった。
けれど、すぐにまた怒鳴り声が弾ける。
「お前だって、親友の顔をしていれば何でも奪えると思っていたくせに! 下劣で悪趣味なんだよ!」
「そうよ! それの何が悪いの!」
サマンサが叫ぶ。
「あの子は最初から何でも持っていたじゃない! 家も、評判も、真面目にしていれば褒められる立場も! 私は少しくらい取ったってよかったのよ!」
「だからって俺まで巻き込むな!」
「巻き込んだのはあなたでしょう! 餌だの奴隷だの言いだしたのはどっちよ!」
「お前が親友ぶって何でも運んでくるからだろうが! 悩みも手紙も好みも、勝手に並べて、人のせいにするな!」
「散々、私も、あの子の気持ちも使っておいて、何よ!」
サマンサが吐き捨てる。
「自分だって同じでしょう! 私もリディアも、あんたにとっては、気分よくさせてくれる女でしかなかったくせに!」
「リディアを、お前みたいな女と一緒にするな!」
エドガーの怒鳴り声は、半分以上むきになったものだった。
「リディアは、お前と違って俺をちゃんと立てた! お前みたいに、奪って壊して面白がるだけの女じゃなかった!」
「何それ」
サマンサの声が、ひどく冷たくなる。
「結局あんた、リディアそのものが好きだったんじゃないのよ。あの子に好かれて、信じられて、尽くされる自分が好きだっただけでしょう!」
「お前みたいな下衆と一緒にするな!」
「もう一緒なのよ! 今さら上等ぶらないで! 人の真心を食いつぶして気分よくなってたくせに!」
息を荒げたまま、サマンサがなおも吐き捨てる。
「それに私だって、あの子を手放したくなかったのよ! ずっと私だけを信じて、安心した顔で何でも話してくるあの子のままでいてほしかったの! あんたなんかに渡して、壊されて、それで終わりなんて冗談じゃないわ!」
向こうがまた静まった。
その沈黙は、ただ言い返せなかったというより、互いに触れられたくない本音を突きつけ合ったあとの、濁った間に近かった。
もう、そこに愛も友情もなかった。
残っていたのは、保身と責任転嫁と、醜く歪んだ執着だけだった。
最後に一度だけ視界の端へ入った二人は、道端で雨水と泥にまみれ、形を崩したものに少し似ていた。
怒りすら湧かない。
ただ、うっかり踏んで靴を汚したくない――それだけのものを見る目で、私は二人を見た。
もう二度と、自分の言葉を採点させないために。
もう二度と、自分の真心を宿代にさせないために。
◇
季節は巡った。
私は机に向かっていた。
並んでいるのは恋文ではなく、商会との往復書簡と、隣国の契約書の写しと、いくつもの品目表だ。
留学で身につけた言葉。
読み方。
値の見方。
曖昧な言葉を曖昧なまま受け取らない目。
人の目の奥にある打算や、甘い言葉に紛れた卑しさを見落とさない目。
あの二年が私の中に残したものは、傷だけではなかった。
「お嬢様、こちらの返事ですが」
父のもとで働く古参の事務方が書類を差し出す。
私は受け取り、数字を追い、相手の文面の癖を読み、静かに頷いた。
「この一文、一見こちらに都合がよいように見えますが、実際には条件を曖昧にして、あとから相手に有利な解釈ができる形ですね。ここは言い回しを変えましょう。曖昧なまま受ける必要はありません」
「お見事です」
そう言われて、私は少しだけ笑った。
以前のように照れて終わるのではなく、そのまま次の書類へ手を伸ばした。
あの宿に置いてきたものは、もう置いてきたままでいい。
あのときの私は、見抜けなかった。
けれど、見抜けなかったからといって、踏みにじられていい理由にはならない。
信じたことが間違いだったわけではない。
ただ、信じた相手がひどく質の悪い人間だった。
それだけのことだ。
そして今の私は、もう曖昧な言葉を曖昧なまま受け取らない。
「来月の茶会ですが、商会の奥方がぜひと」
「ええ、伺います」
顔を上げると、窓の外には、よく晴れた王都の空が広がっていた。
ここに戻ってきた日の私は、壊れて終わるところだった。
けれど終わらなかった。
泣いて、吐いて、それでも立ち上がった。
隣国で覚えた言葉が、今は商談の場で役に立つ。
契約書の読み方が、父の仕事を助ける。
社交の席でも、前よりはっきりと人の目を見て話せる。
あの二年で得たものは、誰にも奪えなかった。
最後まで私の中に残ったものは、ちゃんと価値のあるものだった。
机の上には、新しい便箋がある。
今度は誰かに縋るためではなく、自分の意思で返事を書くための紙だ。
私は羽根ペンを取り、迷いなく最初の一行を書いた。
窓から入る風はやわらかく、紙の端をかすかに揺らした。
私はその白さを見つめ、ほんの少しだけ目を細める。
もう、私は前だけを見る。
ベルフォールに置いてきたものは、振り返らない。
胸に抱いて眠った偽物の言葉も、もういらない。
私の手元には、自分で得た知識がある。
自分で積み上げた力がある。
そして、自分で選ぶ未来がある。
私は静かに微笑み、次の一行を書き足した。




