引き攣った頬
厳重なドア前に立つスーツ姿の男性は、目にも止まらぬ早さでキーパッドを打った。
数字の並びが、勝手に脳裏に刻みつけられていく。
暗証番号は “50706872” 。
視線を逸らしても、数字は残る。
そのときすでに、夜に忍び込む算段が頭の中で完成していた。
その瞬間、ズキンと頭が痛んだ。
白い光が弾け、どこかでサイレンが鳴る。
やればいいんでしょ、やれば。
金属音のような鈍い痛みは、私を闇の中に引きずり込んでいった。
鼓動に合わせて痛みが、深く鋭くなっている。
──夜が来て、周囲は静かになった。
足がわずかにすくむ。
その感覚は回数を重ねるうちに、徐々に小さくなっていた。
それが少しだけ怖かった。
私はキーパッドを淡々と打つ。
すると、軽快な電子音とともに厳重なドアが開いた。
中に入ると、警備員がドアの奥へ消えていくのが見える。
タイミングは完璧。
警備室のドアは交代の時だけ開く。
監視の目と、開閉音。
その二つが同時に途切れる瞬間に、私は身体を紛れ込ませた。
もっとも、私の姿はカメラに残っている。
見返されることはないけれど。
薄明かりの電灯が廊下を照らし、ひび割れた床のタイルに影を作っていた。
その影はどこか、無意味なグラフのように見えた。
消毒液と、どこか甘ったるい匂いが鼻に残る。
赤いランプが光る防犯カメラは、ジーっと途切れない電流音を廊下の奥まで伸ばしていた。
私はその死角を縫うように歩く。
赤い光が瞬くたび、鼓動がわずかに揺れた。
私は目的の部屋に入る。
周囲をぐるりと見回し、机の上に手を伸ばす。
湿った指跡の残る紙束。
冷たい紙の端が、指先に張りついた。
それを視界に捉え、私はすぐに外へ出た。
何も盗っていない。
何も壊していない。
不法侵入ではあるけれど。
悪者じゃない、と心のどこかが囁く。
それでも心臓の底が、鈍く痛んだ。
記録する。それが私の仕事だ。
何があったか。
どんな順番で。
どんな形で。
これは犯罪だと分かっている。
それでも私は、正義の輪郭を知りたかった。
私が見たものは消えない。
目を閉じれば、鮮明になる。
その代わり、頭の奥で金属が軋むような痛みが走る。
あの日から続いている痛み。
この施設に、その正体がある。
そう思いたかっただけかもしれない。
まぶたの裏に焼きついた悪意は、今も私を赦さない。
死亡者数が三桁から二桁に直された書類。
同じ筆跡で塗りつぶされた日付。
都合よく角度を変えた統計グラフ。
数字はいつも、静かだ。
そして、よく喋る。
「……戻りました」
殺風景な事務所に、冷たい空気が落ちる。
私は自分の席に座り、報告書を書き出す。
机の位置、壁の汚れ、紙の折れ目。
目を閉じれば、すぐに再現できる。
私は息を、ひとつ吐いた。
──机の上には紙束。
地域調査と書かれたアンケート用紙。
住所、電話番号。
赤いペンで記された数字。
70
50
68
82
……年齢。
その瞬間、頭の中のイメージから消毒薬の匂いがした。
高齢者ばかりの記録。
ページの端に、小さな丸印。
いくつかには、「契約済」の文字。
地域ごとに分けられ、
どの束も似た傾向を示している。
表向きは、個人情報の収集。
それ以上でも、それ以下でもないように見える。
はぁ、とため息をつく。
情報売買なら、興味はない。
黒だと判断して提出すれば終わり。
それなのに、心がそっと囁いた。
「……これでは証拠として、弱いか」
私はペンを握る。
数字を少しだけ動かせばいい。
丸印に文字を増やせばいい。
それで誰も言い逃れできない形になる。
……改竄したい。
その衝動が静かに浮かぶ。
ペン先が、用紙に触れた。
パンっと頬を叩く。
笑っている自分が、いちばん信用ならなかった。
私はもう一度、報告書の数字を見る。
70。
50。
68。
82。
指で順に数字を追った。
──喉の奥が、ひどく乾いた。
”50 70 68 72”
見覚えのある並び。
最初に見た、あのドア。
数字は、最初からそこにあった。
偶然はいつも、帳尻が合いすぎる。
アンケート、年齢、契約済。
それらが頭の中の風景と重なっていく気がした。
それとも。
……私は、数に入っているのか。
キーパッドを盗み見た記憶を頭の中に映し出す。
──その中に、数字は、存在していなかった。
ふと、報告書の下部に印字された管理番号が目に入る。
50706872
私の頬は、引き攣った。
痛みは、ようやく意味を持った。
管理番号の下に、私はすでに署名済みだった。




