運命の赤い糸を切ったのに、なぜか公爵様が離してくれません
「君との婚約は解消だ」
王太子アルベルト殿下の声が、白亜の大広間に響き渡った。
シャンデリアの光が煌めく中、貴族たちが息を呑む気配。ざわめき。囁き。そして——憐れむような、あるいは嘲笑うような視線が、私の背中に突き刺さる。
「僕にはもう、運命の相手が見つかったから」
殿下の隣には、赤毛の令嬢が寄り添っている。翡翠の瞳を潤ませ、か弱そうに殿下の腕にしがみつく姿。セレナ・マーリン。社交界に彗星のごとく現れた、蠱惑的な美女。
「ごめんなさい、リーシャ様……私、殿下のお気持ちを知りながら、止められなくて……」
(……白々しい。その涙、何滴目ですの? 練習でもなさったのかしら)
私の目には、視える。
あの女から伸びる糸が。腐った海藻のようにどす黒く、禍々しく絡みついた『呪いの糸』が、殿下の心臓を締め上げているのを。
運命の相手、ですか。
その運命とやら、私には随分と腐臭がするのですけれど。
「リーシャ。何か言うことはないのかい? 五年も僕の婚約者だったというのに、随分と冷たいじゃないか」
殿下が眉をひそめる。きっと泣いて縋りつくか、怒り狂うとでも思っていたのだろう。
五年間、婚約者として尽くしてきた女が、捨てられる瞬間。貴族たちは最高の見世物を期待しているに違いない。
私は、静かに微笑んだ。
「ええ、存じておりました」
「……は?」
「あなた様との糸は、三年前に切れておりましたので」
私は左手を掲げ、薬指に嵌った婚約指輪をゆっくりと外した。
その瞬間——。
「なっ……!」
貴族たちがどよめいた。
私の指先から、無数の光が溢れ出す。赤、青、金、銀。人と人を結ぶ『縁の糸』が、七色の輝きを放ちながら虚空に浮かび上がる。
代々受け継いできた力。紡ぎ手の証。
王家が「保護」という名目で、十五年間も私を囲い込んできた理由。
「お返しいたします、殿下」
指輪を差し出すと、殿下は蒼白な顔で後ずさった。
「き、君……その力を、なぜ今まで隠して……!」
「隠していた? いいえ、殿下」
私は首を傾げて見せた。
「あなた様が見ようとしなかっただけですわ」
「紡ぎ手……! まさか、この女が——」
セレナの顔から、一瞬だけ仮面が剥がれた。憎悪と焦燥が入り混じった、醜悪な表情。
ああ、やはり。この女は知っていたのだ。私が何者か。
「『地味で取り柄のない婚約者』——そう仰っていたのは殿下ですもの。私はただ、その期待に応えていただけですわ」
微笑みを崩さないまま、私は深々とお辞儀をした。
「待て、リーシャ! その力があるなら話が違う! 僕たちの婚約は——」
「長らくお世話になりました」
殿下の言葉を遮り、踵を返す。
「どうぞ、運命の方とお幸せに」
ざわめく大広間。呆然と見送る殿下。勝ち誇ったように——いえ、微かに引きつった笑みを浮かべるセレナ。
(さようなら、腐った糸の王子様。あなたの運命とやらが、この国を滅ぼす呪いだと気づいた時——私はもう、どこにもいませんから)
大広間の扉に手をかけた、その時だった。
「待て」
低く、冷たい声。
振り返ると、壁際に佇む黒衣の男と目が合った。
漆黒の髪。氷のような銀灰色の瞳。北の極寒地を治めるという、噂の——。
「クロード公爵……!」
誰かが息を呑んだ。『北の氷獣』。『血塗られた公爵』。社交界で最も恐れられる男。
その男が、真っ直ぐに私を見ていた。
「……何か?」
「俺と君の間には」
公爵が一歩、踏み出す。
「切っても切れぬ糸がある」
——え?
私は目を瞠った。
視える。確かに、視える。
私と公爵の間に伸びる、見たことのない糸。
赤でも金でもない。黒銀に輝く、強靭な糸。
断ち切れない。断ち切らせない。まるで運命そのもののように、私たちを繋いでいる。
(……何ですの、この糸。こんなもの、見たことがない)
「その糸が何か、知りたくはないか?」
公爵の銀灰色の瞳が、微かに熱を帯びた。
(ちょっと待ってください。私、今まさに自由を手に入れたところなんですけど?)
内心の動揺を押し隠し、私は淑女の微笑みを浮かべた。
「申し訳ございません、公爵様。本日は少々疲れておりまして——」
「逃がさない」
「は?」
「十五年、探した」
公爵が、さらに一歩近づく。
「お前を——ずっと」
大広間が、再びどよめいた。
(神様、私が何をしたっていうんですか……!)
◇
——こうして私、リーシャ・フィラトゥーラは。
婚約破棄されて自由になったはずなのに、なぜか北の氷獣に捕捉されることになったのだった。
◇ ◇ ◇
「お待ちください、公爵様」
私は大広間を早足で横切りながら、背後からの視線を振り切ろうとした。
無理だった。
「待てと言っている」
長い脚で悠々と追いついてきた黒衣の公爵が、私の退路を塞ぐように前に回り込む。
近い。近すぎる。
見上げれば、氷のような銀灰色の瞳。噂通りの無表情。しかし——その瞳の奥に、確かな熱があった。
(怖い。怖いんですけど。なんでこの人、こんなに必死なんですか?)
「公爵様。初対面の令嬢を追い回すのは、いささか礼儀に反するかと」
「初対面ではない」
「……は?」
「お前が八つの時、北の教会で会っている」
記憶を探る。八歳。一族が滅ぼされ、王家に引き取られた直後。確かに各地の教会を巡った覚えがある。
「覚えていないか」
公爵の眉が、僅かに寄せられた。
……あれ。もしかして、傷ついてます? あの『北の氷獣』が?
「申し訳ございません。当時は色々と混乱しておりまして……」
「いい」
公爵が一歩詰め寄る。私は一歩下がる。背中が壁に当たった。
「覚えていなくても構わない。糸が証明する」
「その糸の話なのですが」
私は努めて冷静に言った。
「私、今しがた婚約を破棄されたばかりでして。新しい縁談のお話でしたら、改めて——」
「縁談?」
公爵が首を傾げる。氷の彫像が動いたような、ぎこちない動作。
「違う。そういうことではない」
「では、何の話ですか?」
「お前の糸を、守りたい」
「…………」
(いや、意味がわからないんですけど)
「俺は『断ち手』の末裔だ」
公爵の言葉に、私は息を呑んだ。
断ち手。糸を断つ者。紡ぎ手と対になる、もう一つの血族。
「断ち手は……滅んだと」
「滅んでいない。隠れていただけだ」
公爵が右手を掲げる。すると、その指先に黒い光が宿った。
私の『糸視』が捉える。彼の周囲に満ちる、黒銀の力。
紡ぐのではなく、断つ力。しかしそれは破壊ではなく——不要な糸を断ち切り、真に必要な縁だけを残す力。
「紡ぎ手と断ち手が出会った時」
公爵の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「世界の糸を紡ぎ直せる——そう伝えられている」
「そんな伝承、聞いたことが……」
「お前の一族が、隠したからだ。王家に利用されぬよう」
心臓が、どくんと跳ねた。
「お前を見つけるのに十五年かかった。ようやく辿り着いた」
公爵が、私の手を取る。
大きくて、硬くて、剣だこのある手。氷の公爵と呼ばれるのに、その手は——ひどく、温かかった。
「だから」
低い声が、私の鼓膜を震わせる。
「俺のそばにいろ。お前の糸は、俺が守る」
「…………」
(えーと。これは。なんですか。口説かれてます? 脅されてます? それともスカウトですか??)
混乱する私の視界の端で、大広間の貴族たちがざわついているのが見える。先ほどまで私を嘲笑っていた者たちが、今は顔を青くしている。
当然だ。『北の氷獣』が、『王宮の壁花』を追いかけ回しているのだから。
「公爵様」
私は精一杯、淑女らしい微笑みを浮かべた。
「ご提案は光栄ですわ。ですが、私には少し考える時間が必要です」
「……いつまでだ」
「そうですね、三日ほど——」
「長い。一日だ」
「は?」
「いや、半日でいい。明日の朝、迎えに行く」
(交渉になってない! この人、本当に公爵ですか? 交渉術とか学ばなかったんですか??)
「お待ちください。私にも準備というものが——」
「必要なものは全て用意する」
「え」
「服も、部屋も、使用人も。何もかも」
公爵は真顔で言い切った。
「お前は、来ればいい」
……なんだこの人。
怖い。怖いけど。
——なぜだろう。嫌ではない、と思ってしまった。
五年間、殿下に尽くしても一度も向けられなかった熱。私を必要としてくれる眼差し。私の糸を、守りたいと言ってくれる人。
初めてだった。
「……せめて、三日だけ」
「二日」
「それでも短いのですが」
「二日後の朝、迎えに行く。——それ以上は待てない」
公爵の声が、僅かに震えた気がした。
「お前がいないと、糸が軋む」
「…………」
ああ、もう。
この人、不器用すぎませんか。
「……わかりました」
私は溜息とともに頷いた。
「二日後。お待ちしておりますわ、公爵様」
瞬間——。
公爵の耳が、微かに赤くなったのを、私は見逃さなかった。
◇
「姫様ぁ! お待ちくださいませ!」
大広間を出た私を追いかけてきたのは、栗色の髪の青年だった。
「あなたは……?」
「ニコル・ハーヴェストと申します! クロード様の側近でして!」
人懐っこい笑顔で深々とお辞儀をする青年。そばかすが愛嬌を添えている。
「いやぁ、驚きました。旦那様があんなに喋るの、初めて見ましたよ」
「……あれで、普段より喋っているのですか?」
「ええ! 普段は『ああ』『いや』『そうか』の三語で生活してますから!」
(それはそれで心配になりますね……)
「姫様、旦那様は不器用なだけなんです。怖く見えるかもしれませんが、大切なものは命懸けで守る御方で」
ニコルが真剣な表情で続ける。
「旦那様、十五年間ずっと探してたんですよ。『黒銀の糸』で結ばれた相手を。姫様のことを」
「……十五年」
「はい。諦めずに、ずっと」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
知らない。この感情が何なのか、わからない。
でも——悪くない、と思った。
「ニコル様」
「はいっ」
「公爵様に、お伝えいただけますか?」
私は、本当の笑みを浮かべた。
外面用の、取り繕った微笑みではなく。
「——楽しみにしております、と」
ニコルの顔が、ぱあっと輝いた。
「かしこまりました! 必ずお伝えします! 姫様ぁ!」
走り去っていくニコルの背中を見送りながら、私は自分の指先を見つめた。
婚約指輪のなくなった薬指。そこから伸びる、黒銀の糸。
公爵の元へと続く、切れない運命。
(……どうなることやら)
溜息をつきながらも、私の心は——十五年ぶりに、少しだけ軽くなっていた。
◇ ◇ ◇
その夜——。
与えられた離れの部屋で荷造りをしていると、手首の銀糸の刺繍が淡く光り始めた。
「……これは」
見覚えのある光。幼い頃、一族がまだ生きていた頃に見た、紡ぎ手の証。
刺繍から、光の糸が立ち昇る。
それは人の形を取り——。
「久しいですね、我が子よ」
透けるほど儚い姿。淡い光を纏った、私に瓜二つの女性。
「ローレライ……様……?」
「曽祖母、で構いませんよ。リーシャ」
穏やかな微笑み。銀糸で織られた古代の衣。全てを見通すかのような、星のように輝く双眸。
「あなたは、一族が滅ぼされた時に——」
「ええ。魂の一部を、この刺繍に封じました。あなたを見守るために」
曽祖母の幻影が、私の頬に手を伸ばす。触れることはできない。けれど、温もりだけは伝わってくる。
「力が目覚め始めていますね。婚約破棄が、引き金になったようです」
「力……?」
「『紡ぎ直し』の力です。切れた糸を繋ぎ、呪われた糸を浄化できる——紡ぎ手の中でも、選ばれた者だけが持つ力」
私は目を見開いた。
「そんな力、聞いたことが……」
「王家には隠していましたから。知られれば、あなたは道具として使い潰されていたでしょう」
曽祖母の目が、僅かに陰る。
「けれど今夜、あなたに伝えねばなりません。あの女のこと——セレナ・マーリンのことを」
「あの女、の」
「ええ。彼女が持つ『偽糸』の呪術。そして——彼女の本当の目的を」
曽祖母が手を翳すと、虚空に糸の光景が浮かび上がった。
王城。王太子の寝室。セレナが、笑っている。
『愚かな王子様。あなたの『運命』は、私が作ったものよ』
彼女の指先から伸びる、どす黒い糸。それが王太子の心臓を締め上げ、傀儡のように操っている。
『この国の糸を、全て腐らせてあげる。紡ぎ手がいなくなった今、誰も止められないもの』
「——っ!」
私は息を呑んだ。
「彼女は異国の呪術師の末裔。王国を内部から崩壊させるため、送り込まれた刺客です」
「そんな……殿下は……」
「既に深く操られています。あのまま放置すれば、国中の縁の糸が腐り果て——王国は滅びるでしょう」
曽祖母の言葉が、重く響く。
「止められるのは、あなただけです。リーシャ」
「私、が……?」
「『紡ぎ直し』の力で、呪われた糸を浄化できる。けれど一人では足りない」
曽祖母が、私の手首の刺繍を見つめた。
「断ち手の力が必要です。不要な糸を断ち、紡ぎ直すべき糸だけを残す——その役目を担える者が」
「……クロード公爵」
「ええ。あなたと彼が結ばれた時——世界の糸を紡ぎ直せる」
黒銀の糸。公爵と私を繋ぐ、切れない運命。
それは偶然ではなく、必然だったのだ。
「曽祖母様」
私は、決意を込めて顔を上げた。
「私に、できるでしょうか」
「できます」
曽祖母が、穏やかに微笑んだ。
「あなたは『選ばれる側』から、『選ぶ側』になる時が来たのです。自分の糸を、自分で紡ぐ時が」
光が、少しずつ薄れていく。
「信じなさい、リーシャ。あなた自身と——あなたを選んでくれた者を」
「お待ちください、曽祖母様——!」
「また、会えますよ。あなたの力が、完全に目覚めた時に」
最後の微笑みを残し、ローレライの姿は消えた。
◇
残されたのは、淡く光る銀糸の刺繍だけ。
私は、自分の手のひらを見つめた。
紡ぎ直しの力。呪いを浄化する力。
ずっと、『取り柄のない地味な女』として生きてきた。
力を隠し、本当の自分を殺し、王家の道具として——。
でも、もう違う。
「私の糸は」
声に出して、言ってみる。
「私が選んだ方にしか、繋ぎません」
窓の外、北の空に星が瞬いている。
あの方角に、彼がいる。
十五年間、私を探し続けた人。私の糸を、守ると言ってくれた人。
二日後——。
私は、自分の意志で、あの人の元へ行く。
『選ばれる側』ではなく、『選ぶ側』として。
(……楽しみにしていますわ、公爵様)
内心で呟いて、私は荷造りを再開した。
今度こそ、本当の笑みを浮かべながら。
◇ ◇ ◇
約束の朝は、騒がしく始まった。
「リーシャ様! 大変です!」
使用人が血相を変えて飛び込んできたのは、夜明け前のことだった。
「……何事ですか」
「北の公爵様が……公爵様が……!」
「はい」
「門の前に、軍を率いて来ておられます……!」
「…………」
(軍???)
慌てて窓から外を覗くと——。
本当に、いた。
黒衣の軍服を纏ったクロード公爵。その背後に、整然と並ぶ北方騎士団。
旗には、ノクティス家の紋章。
(いや、待って。迎えに来るって言いましたけど、この規模は聞いてないんですけど!?)
「リーシャ・フィラトゥーラ」
公爵の声が、夜明けの空気を震わせた。
「約束通り、迎えに来た」
「……あの、公爵様」
私は窓から身を乗り出した。
「お一人でよかったのでは……?」
「断られた時のために、交渉材料を持ってきた」
「交渉材料って、軍なんですか……?」
「違うのか?」
真顔で首を傾げる公爵。
その後ろで、ニコルが申し訳なさそうな顔をしていた。
『すみません姫様、止めたんですけど……』と口パクで伝えてくる。
(この人、本当に社交術を学ばなかったんですね……!!)
「お、お待ちください! 今すぐ参りますので!」
私は大急ぎで身支度を整え、荷物を持って離れを飛び出した。
◇
門前で待っていた公爵は、私の姿を見るなり——。
「……よく似合っている」
「は?」
「その、服」
私は思わず自分の服を見下ろした。地味な旅装だ。華美な装飾もない、ありふれた令嬢の服。
「……お世辞ですか?」
「言わない。俺は」
公爵の耳が、また赤くなっている。
(……もしかして、褒めてくれてるんですか? この人なりに?)
「さあ、行くぞ」
公爵が手を差し出す。
「俺の領地へ。——お前の、新しい居場所へ」
その時だった。
「待ちなさい!!」
背後から、聞き覚えのある声。
振り返ると——蒼白な顔の王太子が、セレナを伴って駆けてきた。
「リーシャ! 行っては駄目だ!」
「……殿下?」
「君の力が必要なんだ! この国には、君が——」
「おや」
私は首を傾げて見せた。
「二日前、婚約を破棄なさったのはどなたでしたかしら?」
「それは……あれは……」
「『地味で取り柄のない女』——そう仰っていたのも、殿下ですわよね?」
王太子の顔が、さらに蒼白になる。
「君の力があれば、この国は——」
「ええ、存じておりますわ」
私は微笑んだ。
外面用の、取り繕った笑みではなく。本音を隠した、冷たい微笑み。
「ですが、私の糸は——」
公爵の手を取る。
大きくて、温かい手。
「私が選んだ方にしか、繋ぎません」
「リーシャ……!」
「さようなら、殿下。どうぞ、『運命の方』とお幸せに」
王太子が何か叫んでいる。セレナが憎々しげにこちらを睨んでいる。
でも、もう振り返らない。
「行こう」
公爵が、私の手を握り返した。
「——ああ」
北へ向かう馬車の中、私は窓の外を眺めた。
遠ざかっていく王城。十五年間、私を縛り続けた檻。
その糸が、ゆっくりとほどけていくのが視える。
「……公爵様」
「クロードでいい」
「では、クロード様」
私は、向かいに座る公爵を見上げた。
「一つ、お願いがあります」
「何だ」
「私に、紡ぎ手の力の使い方を——呪いを浄化する方法を、教えてください」
公爵が目を瞠る。
「あの女……セレナの呪いを、放っておけません。このままでは、国が……」
「——知っていたのか」
「はい。彼女の糸は、最初から視えていましたから」
公爵が、ふっと笑った。
初めて見る表情。氷の仮面が溶けた、柔らかな笑み。
「やはり、お前だ」
「……?」
「俺が探していたのは、お前だ。リーシャ」
公爵の大きな手が、私の頭をそっと撫でた。
「教える。全てを。——だから、俺のそばにいろ」
「……はい」
頬が熱い。
心臓がうるさい。
この感情が何なのか、まだわからない。
でも——。
(悪くない、と思ってしまうのは……なぜでしょうね)
窓の外、北の空が青く広がっている。
新しい物語が、始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
それから、三ヶ月後——。
王国は、混乱の渦中にあった。
『王太子の婚約者が、国を滅ぼす呪いの持ち主だった』
その噂は瞬く間に広がり、貴族たちは蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
「リーシャ様! お願いです! この国を救えるのは、あなただけなのです!」
「どうか、どうかお力を……!」
北の公爵邸には、連日のように嘆願者が押し寄せていた。
かつて私を『王宮の壁花』と嘲笑った貴婦人たち。『地味で取り柄のない女』と陰口を叩いた令嬢たち。
彼女たちが今、涙を流して跪いている。
「私に何を求めているのですか?」
私は応接室の椅子に腰掛け、冷静に問いかけた。
「殿下との縁の糸を、紡ぎ直していただきたいのです! セレナの呪いを浄化し、王国を——」
「それは、王家のご依頼でしょうか?」
「は、はい……王太子殿下自らが……」
「ふふ」
私は微笑んだ。
「おかしいですわね。三ヶ月前、殿下は私を『地味で取り柄のない女』と仰っていたはずですが」
「そ、それは……」
「『運命の相手が見つかった』と、大広間で高らかに宣言されていましたわよね?」
貴婦人たちの顔が、蒼白に変わる。
「私が国を去る時、止めてくださった方は——何人いらっしゃいましたか?」
沈黙。
「私を嘲笑い、見下し、王家の道具として扱っていた方々が」
私は立ち上がった。
「今更、掌を返して頭を下げる。——滑稽ですわね」
「リーシャ様……!」
「お引き取りください」
私が手を振ると、使用人たちが貴婦人たちを連れ出していく。
泣き喚く声。恨み言。呪詛のような言葉。
でも、もう届かない。
「……冷たいな」
背後から、低い声。
振り返ると、クロードが壁に寄りかかって腕を組んでいた。
「聞いていらしたんですか」
「最初から」
「……盗み聞きは感心しませんわ」
「違う。見張っていた」
「同じことでは……」
「違う」
真顔で否定される。
(この人、本当に不器用ですね……)
三ヶ月の間に、クロードの性格はよく分かっていた。
口下手で、表情に乏しく、言葉が足りない。
でも——行動では、誰よりも私を守ってくれる。
「クロード様」
「ああ」
「私、本当に……このままでいいのでしょうか」
「何がだ」
「国が滅びようとしているのに、力を貸さないことが……」
クロードが、私の前に立った。
大きな手が、私の頬に触れる。
「リーシャ」
「……はい」
「お前は、選んでいい」
銀灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「力を貸すも貸さないも、お前が決めろ。誰かに強制されるな」
「でも——」
「お前の糸は、お前のものだ。王家のものでも、国のものでもない」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
「……クロード様」
「俺は、お前が選んだ道を守る。それだけだ」
涙が、溢れそうになった。
「ありがとう、ございます……」
「礼はいらない」
クロードの腕が、そっと私を抱きしめる。
硬くて、大きくて、温かい腕。
「お前がいればいい。——俺は、それだけでいい」
◇
その夜——。
私は、決意を固めた。
「クロード様」
「ああ」
「私、やはり……あの呪いを、止めたいと思います」
クロードが目を瞠る。
「国のためではありません。王家のためでもありません」
私は、自分の手首の刺繍を見つめた。
「あの呪いを放置すれば、無関係な人々まで巻き込まれます。私を慕ってくれたニコル様の家族も。私に優しくしてくれた使用人たちも」
「……そうか」
「だから、私は——私の意志で、呪いを止めます」
顔を上げて、クロードを見つめる。
「力を、貸していただけますか?」
「……愚問だな」
クロードが、私の手を取った。
「最初から、そのつもりだ」
黒銀の糸が、私たちの間で輝く。
紡ぎ手と、断ち手。
二つの力が、一つになる時——。
「行こう、リーシャ」
「はい、クロード様」
窓の外、王都の方角に不吉な光が見える。
セレナの呪いが、いよいよ暴走し始めたのだ。
——これが、最後の戦いになる。
◇ ◇ ◇
王城の大広間は、地獄絵図と化していた。
「あはははは! 見なさい、この国の糸が腐っていく様を!」
セレナが高笑いを上げる中、貴族たちは床に倒れ伏している。
彼らの身体から伸びる縁の糸が、次々と黒く腐敗していく。家族との絆。友人との絆。愛する人との絆。全てが、呪いに侵されていく。
「やめろ……やめてくれ、セレナ……!」
王太子アルベルトが、膝をついて懇願していた。
その姿は、三ヶ月前の傲慢な王子の面影もない。
「あら、今更?」
セレナが嘲笑う。
「あなたが『運命の相手』だと信じてくれたおかげで、ここまで来れたのよ? 感謝してほしいくらいだわ」
「僕は……僕は……」
「愚かな王子様。あなたの『運命』は、私が作ったものよ」
セレナの指先から、どす黒い糸が伸びる。
それが王太子の心臓を締め上げ——。
「そこまでだ」
低く、冷たい声が響いた。
大広間の扉が開き、黒衣の男が姿を現す。
「クロード……!」
王太子が息を呑んだ。
「北の公爵……なぜ、ここに……」
「貴様を助けに来たわけではない」
クロードが一歩、踏み出す。
その手には、黒銀の光が宿っている。
「——この女の呪いを、断ちに来た」
「あら」
セレナが目を細めた。
「『断ち手』の末裔。噂は聞いているわ」
「なら、話が早い」
「でも残念。あなた一人では、私の呪いは断てないわよ? 紡ぎ手がいなければ——」
「いる」
静かな声が、大広間に響いた。
クロードの背後から、一人の女性が姿を現す。
亜麻色の髪。灰青色の瞳。
かつて『王宮の壁花』と呼ばれた女。
「リーシャ……!」
王太子が、愕然とした表情で名を呼んだ。
「久しぶりですわね、殿下」
私は微笑んだ。
「三ヶ月前、婚約を破棄してくださった時以来でしょうか」
「リーシャ、頼む……! この呪いを……!」
「ええ」
私は頷いた。
「止めて差し上げますわ。——ただし」
目を開く。
『糸視』が、世界を捉える。
大広間に満ちる無数の糸。腐敗した糸。絡み合った糸。そして——セレナから伸びる、禍々しい呪いの糸。
「私の力は、私が選んだ方にしか使いません」
「な、何を……」
「殿下のためではありませんわ」
私は、クロードの隣に立った。
「この国の罪なき人々のため。私を慕ってくれた人々のため。そして——」
クロードを見上げる。
「私を選んでくれた人のために」
クロードの口元が、微かに緩んだ。
「行くぞ」
「はい」
二人の手が、重なる。
黒銀の糸が、眩い光を放った。
◇
「『断ち手』と『紡ぎ手』が手を組むだと……!?」
セレナが初めて、動揺を見せた。
「そんなこと、あり得ない……! あなたたちは、対になる存在……! 相容れないはず……!」
「相容れない?」
クロードが、私の手を握り締めた。
「俺たちを繋ぐ糸は、切っても切れん。——それが答えだ」
「断ち手は、不要な糸を断つ」
私が続ける。
「紡ぎ手は、真に必要な糸を紡ぐ」
二人の手が、光を放つ。
「二つの力が重なった時——」
「世界の糸を、紡ぎ直せる!」
眩い光が、大広間を包んだ。
セレナの呪いの糸が、次々と断たれていく。
腐敗した糸が浄化され、新しい糸として紡ぎ直されていく。
「嘘……そんな……!」
セレナが悲鳴を上げた。
「私の呪いが……私の力が……!」
彼女の身体が、光に包まれる。
偽りの美貌が剥がれ落ち、本来の——醜悪な呪術師の姿が露わになる。
「覚えておきなさい……! これで終わりだと思うな……!」
断末魔の叫びとともに、セレナの姿が消えた。
◇
「終わった……のか……?」
王太子が、呆然と呟いた。
周囲の貴族たちが、次々と意識を取り戻している。
彼らの糸は、清らかな光を取り戻していた。
「リーシャ……」
王太子が、私に向かって膝をついた。
そして——。
額を床につけた。
「すまなかった……! 僕が愚かだった……! どうか、どうか許してくれ……!」
土下座。
三ヶ月前、私を『地味で取り柄のない女』と呼んだ男が。
『運命の相手が見つかった』と、私を捨てた男が。
今、私の足元で泣いて詫びている。
「……殿下」
私は静かに言った。
「顔を上げてください」
「リーシャ……!」
王太子が、縋るような目で私を見上げた。
「許してくれるのか……!? もう一度、僕と——」
「許します」
王太子の顔が、希望に輝いた。
「——ただし」
私は、クロードの腕に寄り添った。
「あなたの元に戻る気は、微塵もございません」
「な……」
「私の糸は、既に繋がっているのです」
クロードを見上げる。
「——この方と」
クロードの腕が、私の肩を抱き寄せた。
「貴様らが切り捨てたものの価値も分からぬ愚か者に」
氷のような銀灰色の瞳が、王太子を見下ろす。
「紡いでやる糸などない」
王太子の顔が、絶望に染まった。
「そういうことですわ、殿下」
私は微笑んだ。
本当の笑みを。
「さようなら。どうぞ、お元気で」
◇
大広間を出た私たちを、朝日が迎えた。
「……終わったな」
クロードが、静かに言った。
「ええ」
私は頷いた。
「これから、どうする」
「そうですね……」
私は、自分とクロードを繋ぐ黒銀の糸を見つめた。
「まずは、北に帰りましょう」
「ああ」
「それから——」
私は、クロードの手を取った。
「ゆっくり、考えましょう。私たちの、これからを」
クロードの瞳が、微かに揺れた。
「……俺と、一緒にいてくれるのか」
「当然ですわ」
私は笑った。
「あなたが私を選んでくれたように——私も、あなたを選んだのですから」
クロードの耳が、また赤くなった。
「……そうか」
「はい」
「……そうか」
「二回言わなくても聞こえていますわ、クロード様」
「……うるさい」
ぼそりと呟いて、クロードは私の手を握り締めた。
大きくて、温かい手。
(——ああ)
この感情の名前を、ようやく知った気がする。
◇
私、リーシャ・フィラトゥーラは。
婚約破棄から始まり、呪いを浄化し、王子に土下座させた。
そして今、不器用な公爵様と手を繋いで、北への帰路についている。
(神様、ありがとうございます)
あの日、婚約を破棄されて本当によかった。
そう心から思えるようになったのは、きっと——この人に出会えたから。
「リーシャ」
「はい?」
「……好きだ」
「っ……!」
「ずっと、言いたかった」
不意打ちだった。
顔が熱い。心臓がうるさい。
「……私もです」
「……そうか」
「はい」
ぎこちない沈黙。でも、不快じゃない。
「……帰ったら」
「はい」
「式を挙げよう」
「……はい」
繋いだ手に、力がこもる。
黒銀の糸が、朝日を受けて輝いていた。
——これが、私たちの物語の始まり。
『運命の赤い糸を切ったのに、なぜか公爵様が離してくれません』
その答えは、もう分かっている。
離さないのは——お互い様だから。




