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運命の赤い糸を切ったのに、なぜか公爵様が離してくれません

作者: ゆうた
掲載日:2026/01/26

「君との婚約は解消だ」


王太子アルベルト殿下の声が、白亜の大広間に響き渡った。


シャンデリアの光が煌めく中、貴族たちが息を呑む気配。ざわめき。囁き。そして——憐れむような、あるいは嘲笑うような視線が、私の背中に突き刺さる。


「僕にはもう、運命の相手が見つかったから」


殿下の隣には、赤毛の令嬢が寄り添っている。翡翠の瞳を潤ませ、か弱そうに殿下の腕にしがみつく姿。セレナ・マーリン。社交界に彗星のごとく現れた、蠱惑的な美女。


「ごめんなさい、リーシャ様……私、殿下のお気持ちを知りながら、止められなくて……」


(……白々しい。その涙、何滴目ですの? 練習でもなさったのかしら)


私の目には、視える。


あの女から伸びる糸が。腐った海藻のようにどす黒く、禍々しく絡みついた『呪いの糸』が、殿下の心臓を締め上げているのを。


運命の相手、ですか。


その運命とやら、私には随分と腐臭がするのですけれど。


「リーシャ。何か言うことはないのかい? 五年も僕の婚約者だったというのに、随分と冷たいじゃないか」


殿下が眉をひそめる。きっと泣いて縋りつくか、怒り狂うとでも思っていたのだろう。


五年間、婚約者として尽くしてきた女が、捨てられる瞬間。貴族たちは最高の見世物を期待しているに違いない。


私は、静かに微笑んだ。


「ええ、存じておりました」


「……は?」


「あなた様との糸は、三年前に切れておりましたので」


私は左手を掲げ、薬指に嵌った婚約指輪をゆっくりと外した。


その瞬間——。


「なっ……!」


貴族たちがどよめいた。


私の指先から、無数の光が溢れ出す。赤、青、金、銀。人と人を結ぶ『縁の糸』が、七色の輝きを放ちながら虚空に浮かび上がる。


代々受け継いできた力。紡ぎ手の証。


王家が「保護」という名目で、十五年間も私を囲い込んできた理由。


「お返しいたします、殿下」


指輪を差し出すと、殿下は蒼白な顔で後ずさった。


「き、君……その力を、なぜ今まで隠して……!」


「隠していた? いいえ、殿下」


私は首を傾げて見せた。


「あなた様が見ようとしなかっただけですわ」


「紡ぎ手……! まさか、この女が——」


セレナの顔から、一瞬だけ仮面が剥がれた。憎悪と焦燥が入り混じった、醜悪な表情。


ああ、やはり。この女は知っていたのだ。私が何者か。


「『地味で取り柄のない婚約者』——そう仰っていたのは殿下ですもの。私はただ、その期待に応えていただけですわ」


微笑みを崩さないまま、私は深々とお辞儀をした。


「待て、リーシャ! その力があるなら話が違う! 僕たちの婚約は——」


「長らくお世話になりました」


殿下の言葉を遮り、踵を返す。


「どうぞ、運命の方とお幸せに」


ざわめく大広間。呆然と見送る殿下。勝ち誇ったように——いえ、微かに引きつった笑みを浮かべるセレナ。


(さようなら、腐った糸の王子様。あなたの運命とやらが、この国を滅ぼす呪いだと気づいた時——私はもう、どこにもいませんから)


大広間の扉に手をかけた、その時だった。


「待て」


低く、冷たい声。


振り返ると、壁際に佇む黒衣の男と目が合った。


漆黒の髪。氷のような銀灰色の瞳。北の極寒地を治めるという、噂の——。


「クロード公爵……!」


誰かが息を呑んだ。『北の氷獣』。『血塗られた公爵』。社交界で最も恐れられる男。


その男が、真っ直ぐに私を見ていた。


「……何か?」


「俺と君の間には」


公爵が一歩、踏み出す。


「切っても切れぬ糸がある」


——え?


私は目を瞠った。


視える。確かに、視える。


私と公爵の間に伸びる、見たことのない糸。


赤でも金でもない。黒銀に輝く、強靭な糸。


断ち切れない。断ち切らせない。まるで運命そのもののように、私たちを繋いでいる。


(……何ですの、この糸。こんなもの、見たことがない)


「その糸が何か、知りたくはないか?」


公爵の銀灰色の瞳が、微かに熱を帯びた。


(ちょっと待ってください。私、今まさに自由を手に入れたところなんですけど?)


内心の動揺を押し隠し、私は淑女の微笑みを浮かべた。


「申し訳ございません、公爵様。本日は少々疲れておりまして——」


「逃がさない」


「は?」


「十五年、探した」


公爵が、さらに一歩近づく。


「お前を——ずっと」


大広間が、再びどよめいた。


(神様、私が何をしたっていうんですか……!)



——こうして私、リーシャ・フィラトゥーラは。


婚約破棄されて自由になったはずなのに、なぜか北の氷獣に捕捉されることになったのだった。



◇ ◇ ◇



「お待ちください、公爵様」


私は大広間を早足で横切りながら、背後からの視線を振り切ろうとした。


無理だった。


「待てと言っている」


長い脚で悠々と追いついてきた黒衣の公爵が、私の退路を塞ぐように前に回り込む。


近い。近すぎる。


見上げれば、氷のような銀灰色の瞳。噂通りの無表情。しかし——その瞳の奥に、確かな熱があった。


(怖い。怖いんですけど。なんでこの人、こんなに必死なんですか?)


「公爵様。初対面の令嬢を追い回すのは、いささか礼儀に反するかと」


「初対面ではない」


「……は?」


「お前が八つの時、北の教会で会っている」


記憶を探る。八歳。一族が滅ぼされ、王家に引き取られた直後。確かに各地の教会を巡った覚えがある。


「覚えていないか」


公爵の眉が、僅かに寄せられた。


……あれ。もしかして、傷ついてます? あの『北の氷獣』が?


「申し訳ございません。当時は色々と混乱しておりまして……」


「いい」


公爵が一歩詰め寄る。私は一歩下がる。背中が壁に当たった。


「覚えていなくても構わない。糸が証明する」


「その糸の話なのですが」


私は努めて冷静に言った。


「私、今しがた婚約を破棄されたばかりでして。新しい縁談のお話でしたら、改めて——」


「縁談?」


公爵が首を傾げる。氷の彫像が動いたような、ぎこちない動作。


「違う。そういうことではない」


「では、何の話ですか?」


「お前の糸を、守りたい」


「…………」


(いや、意味がわからないんですけど)


「俺は『断ち手』の末裔だ」


公爵の言葉に、私は息を呑んだ。


断ち手。糸を断つ者。紡ぎ手と対になる、もう一つの血族。


「断ち手は……滅んだと」


「滅んでいない。隠れていただけだ」


公爵が右手を掲げる。すると、その指先に黒い光が宿った。


私の『糸視』が捉える。彼の周囲に満ちる、黒銀の力。


紡ぐのではなく、断つ力。しかしそれは破壊ではなく——不要な糸を断ち切り、真に必要な縁だけを残す力。


「紡ぎ手と断ち手が出会った時」


公爵の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。


「世界の糸を紡ぎ直せる——そう伝えられている」


「そんな伝承、聞いたことが……」


「お前の一族が、隠したからだ。王家に利用されぬよう」


心臓が、どくんと跳ねた。


「お前を見つけるのに十五年かかった。ようやく辿り着いた」


公爵が、私の手を取る。


大きくて、硬くて、剣だこのある手。氷の公爵と呼ばれるのに、その手は——ひどく、温かかった。


「だから」


低い声が、私の鼓膜を震わせる。


「俺のそばにいろ。お前の糸は、俺が守る」


「…………」


(えーと。これは。なんですか。口説かれてます? 脅されてます? それともスカウトですか??)


混乱する私の視界の端で、大広間の貴族たちがざわついているのが見える。先ほどまで私を嘲笑っていた者たちが、今は顔を青くしている。


当然だ。『北の氷獣』が、『王宮の壁花』を追いかけ回しているのだから。


「公爵様」


私は精一杯、淑女らしい微笑みを浮かべた。


「ご提案は光栄ですわ。ですが、私には少し考える時間が必要です」


「……いつまでだ」


「そうですね、三日ほど——」


「長い。一日だ」


「は?」


「いや、半日でいい。明日の朝、迎えに行く」


(交渉になってない! この人、本当に公爵ですか? 交渉術とか学ばなかったんですか??)


「お待ちください。私にも準備というものが——」


「必要なものは全て用意する」


「え」


「服も、部屋も、使用人も。何もかも」


公爵は真顔で言い切った。


「お前は、来ればいい」


……なんだこの人。


怖い。怖いけど。


——なぜだろう。嫌ではない、と思ってしまった。


五年間、殿下に尽くしても一度も向けられなかった熱。私を必要としてくれる眼差し。私の糸を、守りたいと言ってくれる人。


初めてだった。


「……せめて、三日だけ」


「二日」


「それでも短いのですが」


「二日後の朝、迎えに行く。——それ以上は待てない」


公爵の声が、僅かに震えた気がした。


「お前がいないと、糸が軋む」


「…………」


ああ、もう。


この人、不器用すぎませんか。


「……わかりました」


私は溜息とともに頷いた。


「二日後。お待ちしておりますわ、公爵様」


瞬間——。


公爵の耳が、微かに赤くなったのを、私は見逃さなかった。



「姫様ぁ! お待ちくださいませ!」


大広間を出た私を追いかけてきたのは、栗色の髪の青年だった。


「あなたは……?」


「ニコル・ハーヴェストと申します! クロード様の側近でして!」


人懐っこい笑顔で深々とお辞儀をする青年。そばかすが愛嬌を添えている。


「いやぁ、驚きました。旦那様があんなに喋るの、初めて見ましたよ」


「……あれで、普段より喋っているのですか?」


「ええ! 普段は『ああ』『いや』『そうか』の三語で生活してますから!」


(それはそれで心配になりますね……)


「姫様、旦那様は不器用なだけなんです。怖く見えるかもしれませんが、大切なものは命懸けで守る御方で」


ニコルが真剣な表情で続ける。


「旦那様、十五年間ずっと探してたんですよ。『黒銀の糸』で結ばれた相手を。姫様のことを」


「……十五年」


「はい。諦めずに、ずっと」


胸の奥が、じんわりと温かくなる。


知らない。この感情が何なのか、わからない。


でも——悪くない、と思った。


「ニコル様」


「はいっ」


「公爵様に、お伝えいただけますか?」


私は、本当の笑みを浮かべた。


外面用の、取り繕った微笑みではなく。


「——楽しみにしております、と」


ニコルの顔が、ぱあっと輝いた。


「かしこまりました! 必ずお伝えします! 姫様ぁ!」


走り去っていくニコルの背中を見送りながら、私は自分の指先を見つめた。


婚約指輪のなくなった薬指。そこから伸びる、黒銀の糸。


公爵の元へと続く、切れない運命。


(……どうなることやら)


溜息をつきながらも、私の心は——十五年ぶりに、少しだけ軽くなっていた。



◇ ◇ ◇



その夜——。


与えられた離れの部屋で荷造りをしていると、手首の銀糸の刺繍が淡く光り始めた。


「……これは」


見覚えのある光。幼い頃、一族がまだ生きていた頃に見た、紡ぎ手の証。


刺繍から、光の糸が立ち昇る。


それは人の形を取り——。


「久しいですね、我が子よ」


透けるほど儚い姿。淡い光を纏った、私に瓜二つの女性。


「ローレライ……様……?」


「曽祖母、で構いませんよ。リーシャ」


穏やかな微笑み。銀糸で織られた古代の衣。全てを見通すかのような、星のように輝く双眸。


「あなたは、一族が滅ぼされた時に——」


「ええ。魂の一部を、この刺繍に封じました。あなたを見守るために」


曽祖母の幻影が、私の頬に手を伸ばす。触れることはできない。けれど、温もりだけは伝わってくる。


「力が目覚め始めていますね。婚約破棄が、引き金になったようです」


「力……?」


「『紡ぎ直し』の力です。切れた糸を繋ぎ、呪われた糸を浄化できる——紡ぎ手の中でも、選ばれた者だけが持つ力」


私は目を見開いた。


「そんな力、聞いたことが……」


「王家には隠していましたから。知られれば、あなたは道具として使い潰されていたでしょう」


曽祖母の目が、僅かに陰る。


「けれど今夜、あなたに伝えねばなりません。あの女のこと——セレナ・マーリンのことを」


「あの女、の」


「ええ。彼女が持つ『偽糸』の呪術。そして——彼女の本当の目的を」


曽祖母が手を翳すと、虚空に糸の光景が浮かび上がった。


王城。王太子の寝室。セレナが、笑っている。


『愚かな王子様。あなたの『運命』は、私が作ったものよ』


彼女の指先から伸びる、どす黒い糸。それが王太子の心臓を締め上げ、傀儡のように操っている。


『この国の糸を、全て腐らせてあげる。紡ぎ手がいなくなった今、誰も止められないもの』


「——っ!」


私は息を呑んだ。


「彼女は異国の呪術師の末裔。王国を内部から崩壊させるため、送り込まれた刺客です」


「そんな……殿下は……」


「既に深く操られています。あのまま放置すれば、国中の縁の糸が腐り果て——王国は滅びるでしょう」


曽祖母の言葉が、重く響く。


「止められるのは、あなただけです。リーシャ」


「私、が……?」


「『紡ぎ直し』の力で、呪われた糸を浄化できる。けれど一人では足りない」


曽祖母が、私の手首の刺繍を見つめた。


「断ち手の力が必要です。不要な糸を断ち、紡ぎ直すべき糸だけを残す——その役目を担える者が」


「……クロード公爵」


「ええ。あなたと彼が結ばれた時——世界の糸を紡ぎ直せる」


黒銀の糸。公爵と私を繋ぐ、切れない運命。


それは偶然ではなく、必然だったのだ。


「曽祖母様」


私は、決意を込めて顔を上げた。


「私に、できるでしょうか」


「できます」


曽祖母が、穏やかに微笑んだ。


「あなたは『選ばれる側』から、『選ぶ側』になる時が来たのです。自分の糸を、自分で紡ぐ時が」


光が、少しずつ薄れていく。


「信じなさい、リーシャ。あなた自身と——あなたを選んでくれた者を」


「お待ちください、曽祖母様——!」


「また、会えますよ。あなたの力が、完全に目覚めた時に」


最後の微笑みを残し、ローレライの姿は消えた。



残されたのは、淡く光る銀糸の刺繍だけ。


私は、自分の手のひらを見つめた。


紡ぎ直しの力。呪いを浄化する力。


ずっと、『取り柄のない地味な女』として生きてきた。


力を隠し、本当の自分を殺し、王家の道具として——。


でも、もう違う。


「私の糸は」


声に出して、言ってみる。


「私が選んだ方にしか、繋ぎません」


窓の外、北の空に星が瞬いている。


あの方角に、彼がいる。


十五年間、私を探し続けた人。私の糸を、守ると言ってくれた人。


二日後——。


私は、自分の意志で、あの人の元へ行く。


『選ばれる側』ではなく、『選ぶ側』として。


(……楽しみにしていますわ、公爵様)


内心で呟いて、私は荷造りを再開した。


今度こそ、本当の笑みを浮かべながら。



◇ ◇ ◇



約束の朝は、騒がしく始まった。


「リーシャ様! 大変です!」


使用人が血相を変えて飛び込んできたのは、夜明け前のことだった。


「……何事ですか」


「北の公爵様が……公爵様が……!」


「はい」


「門の前に、軍を率いて来ておられます……!」


「…………」


(軍???)


慌てて窓から外を覗くと——。


本当に、いた。


黒衣の軍服を纏ったクロード公爵。その背後に、整然と並ぶ北方騎士団。


旗には、ノクティス家の紋章。


(いや、待って。迎えに来るって言いましたけど、この規模は聞いてないんですけど!?)


「リーシャ・フィラトゥーラ」


公爵の声が、夜明けの空気を震わせた。


「約束通り、迎えに来た」


「……あの、公爵様」


私は窓から身を乗り出した。


「お一人でよかったのでは……?」


「断られた時のために、交渉材料を持ってきた」


「交渉材料って、軍なんですか……?」


「違うのか?」


真顔で首を傾げる公爵。


その後ろで、ニコルが申し訳なさそうな顔をしていた。


『すみません姫様、止めたんですけど……』と口パクで伝えてくる。


(この人、本当に社交術を学ばなかったんですね……!!)


「お、お待ちください! 今すぐ参りますので!」


私は大急ぎで身支度を整え、荷物を持って離れを飛び出した。



門前で待っていた公爵は、私の姿を見るなり——。


「……よく似合っている」


「は?」


「その、服」


私は思わず自分の服を見下ろした。地味な旅装だ。華美な装飾もない、ありふれた令嬢の服。


「……お世辞ですか?」


「言わない。俺は」


公爵の耳が、また赤くなっている。


(……もしかして、褒めてくれてるんですか? この人なりに?)


「さあ、行くぞ」


公爵が手を差し出す。


「俺の領地へ。——お前の、新しい居場所へ」


その時だった。


「待ちなさい!!」


背後から、聞き覚えのある声。


振り返ると——蒼白な顔の王太子が、セレナを伴って駆けてきた。


「リーシャ! 行っては駄目だ!」


「……殿下?」


「君の力が必要なんだ! この国には、君が——」


「おや」


私は首を傾げて見せた。


「二日前、婚約を破棄なさったのはどなたでしたかしら?」


「それは……あれは……」


「『地味で取り柄のない女』——そう仰っていたのも、殿下ですわよね?」


王太子の顔が、さらに蒼白になる。


「君の力があれば、この国は——」


「ええ、存じておりますわ」


私は微笑んだ。


外面用の、取り繕った笑みではなく。本音を隠した、冷たい微笑み。


「ですが、私の糸は——」


公爵の手を取る。


大きくて、温かい手。


「私が選んだ方にしか、繋ぎません」


「リーシャ……!」


「さようなら、殿下。どうぞ、『運命の方』とお幸せに」


王太子が何か叫んでいる。セレナが憎々しげにこちらを睨んでいる。


でも、もう振り返らない。


「行こう」


公爵が、私の手を握り返した。


「——ああ」


北へ向かう馬車の中、私は窓の外を眺めた。


遠ざかっていく王城。十五年間、私を縛り続けた檻。


その糸が、ゆっくりとほどけていくのが視える。


「……公爵様」


「クロードでいい」


「では、クロード様」


私は、向かいに座る公爵を見上げた。


「一つ、お願いがあります」


「何だ」


「私に、紡ぎ手の力の使い方を——呪いを浄化する方法を、教えてください」


公爵が目を瞠る。


「あの女……セレナの呪いを、放っておけません。このままでは、国が……」


「——知っていたのか」


「はい。彼女の糸は、最初から視えていましたから」


公爵が、ふっと笑った。


初めて見る表情。氷の仮面が溶けた、柔らかな笑み。


「やはり、お前だ」


「……?」


「俺が探していたのは、お前だ。リーシャ」


公爵の大きな手が、私の頭をそっと撫でた。


「教える。全てを。——だから、俺のそばにいろ」


「……はい」


頬が熱い。


心臓がうるさい。


この感情が何なのか、まだわからない。


でも——。


(悪くない、と思ってしまうのは……なぜでしょうね)


窓の外、北の空が青く広がっている。


新しい物語が、始まろうとしていた。



◇ ◇ ◇



それから、三ヶ月後——。


王国は、混乱の渦中にあった。


『王太子の婚約者が、国を滅ぼす呪いの持ち主だった』


その噂は瞬く間に広がり、貴族たちは蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。


「リーシャ様! お願いです! この国を救えるのは、あなただけなのです!」


「どうか、どうかお力を……!」


北の公爵邸には、連日のように嘆願者が押し寄せていた。


かつて私を『王宮の壁花』と嘲笑った貴婦人たち。『地味で取り柄のない女』と陰口を叩いた令嬢たち。


彼女たちが今、涙を流して跪いている。


「私に何を求めているのですか?」


私は応接室の椅子に腰掛け、冷静に問いかけた。


「殿下との縁の糸を、紡ぎ直していただきたいのです! セレナの呪いを浄化し、王国を——」


「それは、王家のご依頼でしょうか?」


「は、はい……王太子殿下自らが……」


「ふふ」


私は微笑んだ。


「おかしいですわね。三ヶ月前、殿下は私を『地味で取り柄のない女』と仰っていたはずですが」


「そ、それは……」


「『運命の相手が見つかった』と、大広間で高らかに宣言されていましたわよね?」


貴婦人たちの顔が、蒼白に変わる。


「私が国を去る時、止めてくださった方は——何人いらっしゃいましたか?」


沈黙。


「私を嘲笑い、見下し、王家の道具として扱っていた方々が」


私は立ち上がった。


「今更、掌を返して頭を下げる。——滑稽ですわね」


「リーシャ様……!」


「お引き取りください」


私が手を振ると、使用人たちが貴婦人たちを連れ出していく。


泣き喚く声。恨み言。呪詛のような言葉。


でも、もう届かない。


「……冷たいな」


背後から、低い声。


振り返ると、クロードが壁に寄りかかって腕を組んでいた。


「聞いていらしたんですか」


「最初から」


「……盗み聞きは感心しませんわ」


「違う。見張っていた」


「同じことでは……」


「違う」


真顔で否定される。


(この人、本当に不器用ですね……)


三ヶ月の間に、クロードの性格はよく分かっていた。


口下手で、表情に乏しく、言葉が足りない。


でも——行動では、誰よりも私を守ってくれる。


「クロード様」


「ああ」


「私、本当に……このままでいいのでしょうか」


「何がだ」


「国が滅びようとしているのに、力を貸さないことが……」


クロードが、私の前に立った。


大きな手が、私の頬に触れる。


「リーシャ」


「……はい」


「お前は、選んでいい」


銀灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。


「力を貸すも貸さないも、お前が決めろ。誰かに強制されるな」


「でも——」


「お前の糸は、お前のものだ。王家のものでも、国のものでもない」


その言葉に、胸の奥が熱くなる。


「……クロード様」


「俺は、お前が選んだ道を守る。それだけだ」


涙が、溢れそうになった。


「ありがとう、ございます……」


「礼はいらない」


クロードの腕が、そっと私を抱きしめる。


硬くて、大きくて、温かい腕。


「お前がいればいい。——俺は、それだけでいい」



その夜——。


私は、決意を固めた。


「クロード様」


「ああ」


「私、やはり……あの呪いを、止めたいと思います」


クロードが目を瞠る。


「国のためではありません。王家のためでもありません」


私は、自分の手首の刺繍を見つめた。


「あの呪いを放置すれば、無関係な人々まで巻き込まれます。私を慕ってくれたニコル様の家族も。私に優しくしてくれた使用人たちも」


「……そうか」


「だから、私は——私の意志で、呪いを止めます」


顔を上げて、クロードを見つめる。


「力を、貸していただけますか?」


「……愚問だな」


クロードが、私の手を取った。


「最初から、そのつもりだ」


黒銀の糸が、私たちの間で輝く。


紡ぎ手と、断ち手。


二つの力が、一つになる時——。


「行こう、リーシャ」


「はい、クロード様」


窓の外、王都の方角に不吉な光が見える。


セレナの呪いが、いよいよ暴走し始めたのだ。


——これが、最後の戦いになる。



◇ ◇ ◇



王城の大広間は、地獄絵図と化していた。


「あはははは! 見なさい、この国の糸が腐っていく様を!」


セレナが高笑いを上げる中、貴族たちは床に倒れ伏している。


彼らの身体から伸びる縁の糸が、次々と黒く腐敗していく。家族との絆。友人との絆。愛する人との絆。全てが、呪いに侵されていく。


「やめろ……やめてくれ、セレナ……!」


王太子アルベルトが、膝をついて懇願していた。


その姿は、三ヶ月前の傲慢な王子の面影もない。


「あら、今更?」


セレナが嘲笑う。


「あなたが『運命の相手』だと信じてくれたおかげで、ここまで来れたのよ? 感謝してほしいくらいだわ」


「僕は……僕は……」


「愚かな王子様。あなたの『運命』は、私が作ったものよ」


セレナの指先から、どす黒い糸が伸びる。


それが王太子の心臓を締め上げ——。


「そこまでだ」


低く、冷たい声が響いた。


大広間の扉が開き、黒衣の男が姿を現す。


「クロード……!」


王太子が息を呑んだ。


「北の公爵……なぜ、ここに……」


「貴様を助けに来たわけではない」


クロードが一歩、踏み出す。


その手には、黒銀の光が宿っている。


「——この女の呪いを、断ちに来た」


「あら」


セレナが目を細めた。


「『断ち手』の末裔。噂は聞いているわ」


「なら、話が早い」


「でも残念。あなた一人では、私の呪いは断てないわよ? 紡ぎ手がいなければ——」


「いる」


静かな声が、大広間に響いた。


クロードの背後から、一人の女性が姿を現す。


亜麻色の髪。灰青色の瞳。


かつて『王宮の壁花』と呼ばれた女。


「リーシャ……!」


王太子が、愕然とした表情で名を呼んだ。


「久しぶりですわね、殿下」


私は微笑んだ。


「三ヶ月前、婚約を破棄してくださった時以来でしょうか」


「リーシャ、頼む……! この呪いを……!」


「ええ」


私は頷いた。


「止めて差し上げますわ。——ただし」


目を開く。


『糸視』が、世界を捉える。


大広間に満ちる無数の糸。腐敗した糸。絡み合った糸。そして——セレナから伸びる、禍々しい呪いの糸。


「私の力は、私が選んだ方にしか使いません」


「な、何を……」


「殿下のためではありませんわ」


私は、クロードの隣に立った。


「この国の罪なき人々のため。私を慕ってくれた人々のため。そして——」


クロードを見上げる。


「私を選んでくれた人のために」


クロードの口元が、微かに緩んだ。


「行くぞ」


「はい」


二人の手が、重なる。


黒銀の糸が、眩い光を放った。



「『断ち手』と『紡ぎ手』が手を組むだと……!?」


セレナが初めて、動揺を見せた。


「そんなこと、あり得ない……! あなたたちは、対になる存在……! 相容れないはず……!」


「相容れない?」


クロードが、私の手を握り締めた。


「俺たちを繋ぐ糸は、切っても切れん。——それが答えだ」


「断ち手は、不要な糸を断つ」


私が続ける。


「紡ぎ手は、真に必要な糸を紡ぐ」


二人の手が、光を放つ。


「二つの力が重なった時——」


「世界の糸を、紡ぎ直せる!」


眩い光が、大広間を包んだ。


セレナの呪いの糸が、次々と断たれていく。


腐敗した糸が浄化され、新しい糸として紡ぎ直されていく。


「嘘……そんな……!」


セレナが悲鳴を上げた。


「私の呪いが……私の力が……!」


彼女の身体が、光に包まれる。


偽りの美貌が剥がれ落ち、本来の——醜悪な呪術師の姿が露わになる。


「覚えておきなさい……! これで終わりだと思うな……!」


断末魔の叫びとともに、セレナの姿が消えた。



「終わった……のか……?」


王太子が、呆然と呟いた。


周囲の貴族たちが、次々と意識を取り戻している。


彼らの糸は、清らかな光を取り戻していた。


「リーシャ……」


王太子が、私に向かって膝をついた。


そして——。


額を床につけた。


「すまなかった……! 僕が愚かだった……! どうか、どうか許してくれ……!」


土下座。


三ヶ月前、私を『地味で取り柄のない女』と呼んだ男が。


『運命の相手が見つかった』と、私を捨てた男が。


今、私の足元で泣いて詫びている。


「……殿下」


私は静かに言った。


「顔を上げてください」


「リーシャ……!」


王太子が、縋るような目で私を見上げた。


「許してくれるのか……!? もう一度、僕と——」


「許します」


王太子の顔が、希望に輝いた。


「——ただし」


私は、クロードの腕に寄り添った。


「あなたの元に戻る気は、微塵もございません」


「な……」


「私の糸は、既に繋がっているのです」


クロードを見上げる。


「——この方と」


クロードの腕が、私の肩を抱き寄せた。


「貴様らが切り捨てたものの価値も分からぬ愚か者に」


氷のような銀灰色の瞳が、王太子を見下ろす。


「紡いでやる糸などない」


王太子の顔が、絶望に染まった。


「そういうことですわ、殿下」


私は微笑んだ。


本当の笑みを。


「さようなら。どうぞ、お元気で」



大広間を出た私たちを、朝日が迎えた。


「……終わったな」


クロードが、静かに言った。


「ええ」


私は頷いた。


「これから、どうする」


「そうですね……」


私は、自分とクロードを繋ぐ黒銀の糸を見つめた。


「まずは、北に帰りましょう」


「ああ」


「それから——」


私は、クロードの手を取った。


「ゆっくり、考えましょう。私たちの、これからを」


クロードの瞳が、微かに揺れた。


「……俺と、一緒にいてくれるのか」


「当然ですわ」


私は笑った。


「あなたが私を選んでくれたように——私も、あなたを選んだのですから」


クロードの耳が、また赤くなった。


「……そうか」


「はい」


「……そうか」


「二回言わなくても聞こえていますわ、クロード様」


「……うるさい」


ぼそりと呟いて、クロードは私の手を握り締めた。


大きくて、温かい手。


(——ああ)


この感情の名前を、ようやく知った気がする。



私、リーシャ・フィラトゥーラは。


婚約破棄から始まり、呪いを浄化し、王子に土下座させた。


そして今、不器用な公爵様と手を繋いで、北への帰路についている。


(神様、ありがとうございます)


あの日、婚約を破棄されて本当によかった。


そう心から思えるようになったのは、きっと——この人に出会えたから。


「リーシャ」


「はい?」


「……好きだ」


「っ……!」


「ずっと、言いたかった」


不意打ちだった。


顔が熱い。心臓がうるさい。


「……私もです」


「……そうか」


「はい」


ぎこちない沈黙。でも、不快じゃない。


「……帰ったら」


「はい」


「式を挙げよう」


「……はい」


繋いだ手に、力がこもる。


黒銀の糸が、朝日を受けて輝いていた。


——これが、私たちの物語の始まり。


『運命の赤い糸を切ったのに、なぜか公爵様が離してくれません』


その答えは、もう分かっている。


離さないのは——お互い様だから。

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