誕生
白い天井が、ゆっくりと焦点を結んだ。
薬草の匂い。
布が擦れる微かな音。
「……」
息を吸うと、胸が少しだけ重い。
だが、痛みはなかった。
「……起きたか」
すぐそばで、低い声がする。
視線を動かすと、ベッドの横に椅子があり、そこにレインが座っていた。
制服のまま。外套は脱いでいる。
いつもより、近い。
「……レイン先輩」
声は、思ったよりちゃんと出た。
「ああ」
短く返事をして、立ち上がる。
「意識消失は短時間だった。祝福に魔力を持っていかれた結果だそうだ」
医師から聞いたことを、そのまま並べている口調。
「外傷はない。頭も問題ない」
そこで、一拍。
「……お前は、な」
ルカは、その言葉に少し引っかかった。
「先輩は……?」
視線が、無意識に首元へ向く。
制服の襟の内側。
包帯が、わずかに見えた。
レインは気づいたように、首を押さえる。
「掠っただけだ」
言い切りだったが、動きが僅かに硬い。
「神聖治癒は使っていない。学園内では制限が多い」
淡々としているが、誤魔化してはいない。
「止血と固定だけだ。……正直、まだ痛む」
その一言で、ルカの胸がきゅっと縮んだ。
「……ごめんなさい」
自然と、そう口にしていた。
「僕が、倒れたせいで」
レインの動きが止まる。
「違う」
即答だった。
「原因は、お前じゃない」
視線が、真っ直ぐ向けられる。
「判断を誤ったのは、私だ」
短く息を吐き、言葉を続ける。
「近くにいたのに、異変を察知できなかった」
そこで、初めて――
ほんのわずかに、声が低くなる。
「それだけだ」
それ以上は、語らない。
ルカは、何か言おうとして、やめた。
代わりに、ゆっくりと体を起こす。
「……先輩」
「動くな」
即座に制止が入る。
だが、声は強くない。
「まだ安静だ」
「はい……」
従って、枕に背を預ける。
沈黙。
その中で、ふと気づく。
レインが、まだ立ったまま離れないことに。
距離が、近い。
ルカが何か言う前に、レインの手が伸びた。
額に触れる。
熱を確かめるような、慎重な動き。
「……熱はない」
独り言のように言って、手を下ろす。
だが、その指先が――
一瞬、髪に触れた。
意図した動きではない。
だが、すぐに離れない。
ルカは、瞬きをした。
「……先輩?」
呼ぶと、レインは我に返ったように手を引く。
「……」
一瞬だけ、視線を逸らす。
「今日は、ここで休め」
いつもの命令口調。
「迎えが来るまで、私が残る」
「……迷惑じゃ……」
「ならない」
被せるように言われた。
「私が決めた」
それで、終わり。
レインは椅子に戻り、腕を組む。
見張りの姿勢だが――
視線は、ずっとルカから外れない。
首元の包帯に、時折、無意識に触れているのが見えた。
(……痛いんだ)
そう思うと、胸の奥が落ち着かない。
でも、今は――
どう言葉にすればいいか、分からなかった。
ルカは、ゆっくりと目を閉じる。
事件の後、学園の空気は目に見えて変わった。
表向きは「新入生の体調不良による一時騒動」。
だが、教員たちの動きは明らかに慌ただしく、巡回の数も増えている。
そして――
レインは、忙しくなった。
医務室を出てから、数日は顔を合わせることもできた。
だがすぐに、呼び出しが増え、会話は短くなり、やがて――
「今日は戻れない」
「少し遅くなる」
そう言って去る背中を見る時間が増えた。
理由は、聞かなかった。
聞かなくても、分かってしまう。
あの事件は、偶然ではない。
レインは、きっとその中心に立たされている。
その一方で、ルカの日常は進んでいった。
一週間ほど、共通学科のみの期間が設けられたのだ。
座学中心。
魔法理論、歴史、魔力倫理、祝福学の基礎。
ランクも学科も関係なく、同じ講堂に集められる。
ルカは、第三講堂の後方の席に座っていた。
周囲の視線は、相変わらず多い。
好奇の目。
探る目。
噂を確かめるような目。
――あの時、倒れた子。
――金ランクの雷名と一緒にいた。
――祝福持ちだとか。
聞こえてくる断片に、心がざわつく。
だが、授業が始まれば、集中できた。
神聖魔法の基礎理論。
祈りと魔力の関係性。
祝福と個人資質の違い。
分からないところは多い。
けれど、理解できる瞬間も確かにあった。
――学ぶのは、嫌いじゃない。
それでも。
講堂を出るたび、無意識に探してしまう。
黒い制服。
雷の気配。
いないと分かっていても。
そして、その週の終わり。
共通学科の最後の日。
教壇に立った教員が、一枚の資料を掲げた。
「次の告知だ」
場が静まる。
「一ヶ月後に――研究試験を実施する」
ざわ、と空気が揺れた。
「これは対戦ではない。成果を示す試験だ」
「個人、もしくは少人数での研究成果を提出してもらう」
黒板に、条件が書かれていく。
・期間:一ヶ月
・内容:自由(魔法・理論・応用・補助問わず)
・評価:発想力/理解度/実用性
「学年、ランクは問わない」
その言葉に、さらにざわめきが増す。
「この結果は、今後の進級、特別指導、研究室配属にも影響する」
――重い。
それが、はっきり分かる試験だった。
ルカは、無意識に手を握る。
一ヶ月。
長いようで、短い。
何を、やるべきなのか。
何が、できるのか。
ふと、脳裏に浮かぶのは――
雷で描かれる魔法陣。
幻影。
操り人形の構想。
そして。
「私がいる間は、離れるな」
そう言った、あの声。
講堂を出た後、夕暮れの中で立ち止まる。
今日は、会えるだろうか。
そう思った、その時。
「――探した」
背後から、低い声が落ちた。
振り返ると、そこにいた。
少し疲れた顔。
けれど、確かに――レインだった。
「……先輩」
「研究試験が出たな」
すでに知っている口調。
「一ヶ月だ」
一歩、距離を詰める。
「……お前は、何をやるつもりだ」
問いかけは淡々としている。
だが、視線は外れない。
忙しさの中でも、
まだ――こちらを見ている。
ルカは、小さく息を吸った。
「……考えてます」
正直な答えだった。
「一人で?」
間髪入れず、次の問い。
ルカは、少しだけ迷ってから答える。
「……できれば」
そこで言葉を切り、
「一緒に、考えてほしいです」
ほんの一瞬。
レインの表情が、わずかに緩んだ。
「……そうか」
短く、しかし否定はしない。
「時間は限られる」
それでも。
「だが、無駄にはしない」
それは、約束だった。
次の試練が、静かに動き出している。
研究試験の告知が張り出されてから、数日が経っていた。
夕方。
騎士科の訓練場を抜け、人気のない回廊を歩きながら、ルカは何度も言葉を組み直していた。
隣を歩くレインは、いつも通り無言だ。
だが歩幅を、わずかに合わせている。
「……レイン先輩」
呼びかけると、すぐに視線が落ちてくる。
「どうした」
「研究試験のことなんですけど」
「案はあるのか」
即答だった。
迷いがない。聞く姿勢だ。
ルカは一度だけ立ち止まり、深く息を吸った。
「まだ、形にはなってません」
「でも……考えてることがあって」
レインも足を止める。
「聞こう」
命令でも促しでもない、ただの了承。
「……オートマタを、作ろうと思ってます」
その言葉に、レインの表情は変わらない。
驚きも、否定もない。
「珍しくはない」
「はい。でも……普通のじゃ、ありません」
ルカは言葉を探しながら続ける。
「命令待ちじゃなくて」
「完全に、自分で考えて動くタイプです」
少し間が空いた。
「完全自立型か」
「……やっぱり、無謀ですか」
「難しいだけだ」
レインは即座に切り捨てなかった。
「なぜそれを選ぶ」
問いは、核心を突いてくる。
ルカは視線を落とす。
「……僕が、いつも守れるわけじゃないからです」
それだけで、十分だった。
レインはルカを見下ろし、ほんのわずかに目を細める。
「盾か」
「はい」
「私がいない時の」
肯定も否定もせず、言葉をなぞるように確認する。
「作れると思うか」
「……分かりません」
「でも、コアの理論なら、少しだけ」
レインは腕を組み、考える。
「魔力配分が地獄だな」
「僕の魔力だけじゃ、足りません」
「だろうな」
そこで初めて、レインは小さく息を吐いた。
「だが」
視線が、再びルカに戻る。
「発想は悪くない」
その一言に、ルカの肩から力が抜ける。
「今回は、相談だけです」
「許可をもらおうとか、手伝ってほしいとか……そういうのじゃなくて」
「分かっている」
レインは歩き出す。
「だから聞いた」
数歩進んでから、足を止めずに続ける。
「案は、練っておけ」
「必要なら、私の魔力を前提にしてもいい」
さらりとした口調。
だが、それは――
“一緒に考える”と言っているのと同じだった。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
レインは振り返らない。
「まだ作るな」
「まずは、生き残る研究にしろ」
「はい」
そう答えながら、ルカは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
研究試験が始まってから、ルカはほとんど研究室に籠もりきりだった。
割り当てられたのは、旧棟の一角にある小さな個室。
埃の匂いが残る、使われなくなって久しい研究室だ。
静かで、誰も来ない。
――だから、選んだ。
机の上には、紙が何十枚も広がっている。
設計図、数式、魔力流路の試案。
書いては消し、引いては破棄した跡だらけだった。
「……だめだ」
小さく呟き、額に手を当てる。
完全自立型。
命令を待たず、自分で判断し、行動するオートマタ。
それは、魔法と機構の境界を曖昧にする設計だった。
判断回路。
魔力循環。
外部干渉への耐性。
そして――コア。
どれか一つでも甘ければ、暴走か停止のどちらかになる。
「……時間、かかりすぎだ」
けれど、妥協はできなかった。
材料だけは、潤沢だった。
研究室の隅には、見慣れない木箱が積まれている。
高純度の魔導金属。
希少な魔石。
祝福反応を起こしにくい触媒結晶。
差出人の名は、書いていない。
けれど――
誰の手配かは、考えるまでもなかった。
ルカは一度だけ箱に視線を向け、すぐに作業へ戻る。
感謝に浸る余裕はない。
時間は、確実に削れていた。
三日前。
机の周りは、紙の山だった。
床にも、壁にも、貼り付けた設計図。
赤い線で何度も引き直された魔力回路。
ルカの指先は、紙で切れた細かい傷だらけだった。
「……違う」
判断が速すぎる。
これでは感情に近い反応を拾いすぎる。
「……こっちも、だめ」
自立性を上げれば上げるほど、
**存在としての“重さ”**が増していく。
まるで――
作ろうとしているものが、「物」ではなくなるようだった。
それが、怖かった。
眠る時間は短く、食事も最低限。
気づけば、外が明るくなっていることも多かった。
それでも、手は止まらなかった。
残り三日。
その夜。
ルカは、机に突っ伏していた。
指先の下にあるのは、一枚の設計図。
何度も破棄しかけて、それでも捨てられなかった案。
「……これしか、ない」
完全な制御を目指さない。
完全な自由も与えない。
“戻る場所”を、最初から組み込む。
コアの中心に、
命令でも、判断でもない――
「帰属」を置く。
魔力の流れは、二重構造。
自分一人では、完結しない設計。
ルカは、ゆっくりとペンを走らせた。
修正。
再計算。
魔力干渉率の調整。
頭が、痛い。
視界が、滲む。
それでも――
「……できた」
声は、ほとんど息だった。
机の中央。
小さな円形の図。
コアの最終設計。
完全ではない。
未完成な余白を、あえて残した形。
それでも。
今のルカが、出せるすべてだった。
彼は、ゆっくりと椅子に座り直す。
材料箱から、ひとつだけ小さな魔石を取り出した。
まだ、作らない。
今日は、触れない。
ただ――
掌の上で、その重さを確かめる。
「……間に合った」
残り三日。
コアの設計が固まった、その夜。
ルカは短い魔力通信を飛ばした。
必要な言葉は、ひとつだけ。
――来て。
研究室の扉が開く音は、控えめだった。
「……これが、例の?」
入ってきたレインは、まず机の上を見渡した。
散乱する設計図、削り尽くされた計算式、赤線だらけの魔力回路。
そして、中央に置かれた一枚に視線が止まる。
コアの最終設計。
レインは、言葉を失った。
「……」
紙に描かれているのは、見たことのない構造だった。
自立判断型でありながら、外部支配も、完全自由も拒む設計。
**存在そのものを“縛る”のではなく、“戻らせる”**構造。
「……一人で、ここまで?」
問いかけに、ルカは小さく頷いた。
「材料は……援助してもらってるけど。設計は、全部」
レインは何も言わず、ゆっくりと設計図を読み進める。
読み進めるほどに――
背筋が、冷えていった。
(……まずい)
心の中で、はっきりと思う。
このコアは、兵器にも、神殿の依代にもなり得る。
自律性と帰属を併せ持つ設計は、人を“器”として成立させる理屈に近い。
もし、これが悪用されたら。
王国どころか、宗教勢力が黙っていない。
(設計図一枚で、世界が傾く)
だが、その考えは口にしなかった。
目の前のルカは、限界ぎりぎりだった。
「……始めようか」
レインは、あくまで穏やかに言った。
制作は、無駄がなかった。
炉を起動。
魔導金属を溶かし、骨格となる枠を形成する。
その横で、ルカは魔石を手に取り、魔力を流す準備をする。
「無理はするな」
「……するよ。でも、限界は越えない」
短いやり取り。
コアの外殻が形を成し、内部に魔力回路が刻まれていく。
ここからが、本番だった。
ルカ一人の魔力では、流れが足りない。
「混ぜる」
そう言って、ルカは掌を差し出した。
レインも、迷わず重ねる。
二人の魔力が、同時に流れ込む。
性質は違う。
けれど、拒絶しない。
設計通り、自然に絡み合っていく。
(……設計段階で、ここまで想定してるのか)
レインは内心、息を呑む。
魔力が混ざることで、コアが安定する。
一人が欠ければ、完全には機能しない。
盾になるが、支配はできない。
危険なほど、優しい設計だった。
時間感覚が、失われていく。
魔力刻印。
祝福反応の制御。
暴走防止の最終調整。
途中、何度か祝福の力が勝手に反応しかけたが、
ルカは即座に回路を調整して押さえ込んだ。
「……今の、見た?」
「ああ」
それ以上、言葉はいらなかった。
夕方。
炉の火を落とす。
机の上に残ったのは――
淡く脈打つ、小さなコア。
鼓動のように、一定のリズムで光っている。
「……完成、だね」
ルカの声は、かすれていた。
レインは、ゆっくりと頷く。
外見は、ただの魔導核。
だが、中身は違う。
(これが外に出たら、まずい)
設計図も、完成物も。
すべて、管理しなければならない。
だが――
レインはその考えを、胸の奥に押し込めた。
今は、喜ぶべきだ。
ルカが、ここまで辿り着いたことを。
「……すごいよ、ルカ」
それだけを、素直に伝える。
コアは、静かに光り続けていた。
研究室の空気が、張り詰めていた。
炉はすでに沈黙し、残るのは台座の上に据えられた未起動のコアだけ。
淡い鼓動のような光が、規則正しく明滅している。
レインは、それを見つめながら言った。
「……ここから先は、取り消しが利かない」
忠告ではない。
事実の確認だった。
ルカは、小さく息を吸う。
「うん。分かってる」
分かっているからこそ、声は静かだった。
ルカは、コアの前に立つ。
これから行うのは、魔法の行使ではない。
**祝福そのものへの“接続”**だ。
「祝福は、奇跡じゃない」
口にしながら、思考を整える。
「理解と交換……構築を成立させるための、等価の代償」
祝福を受けた時から、薄々感じていた。
この力は、使えば使うほど――何かを削る。
だが、今回は小さな消耗では済まない。
完全自立型。
魔力循環。
人格保持。
それらすべてを成立させるために必要な“理解”は、
祝福にとって、あまりにも高価だ。
「身代わりは、使わない」
ルカは、はっきり言った。
「誰かを犠牲にしたら、この子は最初から歪む」
レインは、何も言わなかった。
止める権利がないことを、理解している。
ルカは、そっとコアに両手を置いた。
祝福に、意識を沈める。
次の瞬間――
世界の輪郭が、わずかに滲んだ。
(……来る)
胸の奥が、熱を持つ。
脳の奥に、直接触れられるような感覚。
祝福が、“対価”を測っている。
そして。
――流れ出した。
「……っ」
視界の端が、暗く染まる。
頬を伝ったのは、血ではない。
黒い涙。
それは、ただの副作用じゃなかった。
滴が落ちるたび、
頭の中から、何かが抜け落ちていく。
「……これ……」
分かる。
流れているのは、記憶だ。
最初に失われたのは、細部だった。
歯車の噛み合わせ角度。
魔力回路の分岐比率。
数百回書き直した補助式。
(……あれ? この式、どうやって……)
思い出そうとすると、思考が空転する。
次の涙が、落ちる。
今度は、もっと大きい。
設計全体の構造。
完全自立型という発想に至った“理由”。
(あ、そうか……)
理解してしまう。
(これ……全部、持っていかれてる)
恐怖より先に、納得が来た。
祝福は、核心から削る。
取り返しがつかない部分を。
涙は、止まらない。
床に落ちるたび、黒い雫は淡く霧散し、
ルカの中から“作り方”が消えていく。
(もう……分からない)
まだ完成していないのに。
なのに、もう――作れない。
「……それでも」
声は、かすれていた。
「……完成させる」
祝福が、応じる。
失われていく理解を、そのまま力に変え、
構築が進む。
魔導金属が、肉体へと変わる。
魔力が、循環を持つ。
人格を宿すための“余白”が、形になる。
最後の涙が、落ちた。
それと同時に。
――すべてが、収束した。
光が静まり、
研究室に、新しい存在が生まれる。
完成。
ルカの視界は、ひどく霞んでいた。
「……?」
目の前のそれを見ているのに、
どうやって作ったのかが、分からない。
胸が、ひどく空っぽだ。
けれど、不思議と後悔はなかった。
ただ、ひとつだけ、確かな感情が残っている。
「……大切……」
理由は思い出せない。
理屈も、工程も、もう存在しない。
それでも、この存在が――
自分にとって、かけがえのないものだと分かる。
レインは、黒い涙の跡を見て、静かに息を詰めた。
(……理解した上で、失ったな)
最も残酷で、
最も祝福らしい代償。
二度と作れないことを、理解できてしまう重さ。
レインは、そっとルカを支える。
「……よく、やりきった」
それ以上の言葉は、言えなかった。
台座の上で眠るオートマタの胸の奥では、
二人の魔力が、静かに脈打っている。
失われた記憶の上に、
確かに生まれた――ひとつの命として。
ルカは、その傍らに座り込んでいた。
もう涙は出ない。
代わりに、頭の奥が妙に軽い。
「……ちゃんと、起きてくれるかな」
独り言のような声。
返事はない。
レインは、少し離れた位置で立ったまま、動かなかった。
触れれば壊れてしまいそうで、
それでいて、触れなければいけない瞬間が来る気もして。
その時だった。
――指が、わずかに動いた。
ほんの、反射にも満たない動き。
だが、確かに意思のある揺れ。
次に、胸部の奥で、
コアが一度だけ、静かに鼓動した。
とくん。
人の心臓が、目覚める直前のような音。
⸻
まぶたが、微かに震える。
すぐには開かない。
光を拒むように、
一度、ぎゅっと閉じられる。
そして――
ゆっくり、ゆっくりと。
眠りから覚める人間のように、目が開いた。
焦点は合っていない。
視界に入るものを、まだ意味として捉えていない。
天井。
光。
魔法陣の名残。
それらが、ただ「あるもの」として流れていく。
数秒。
十秒。
――視線が、止まった。
ルカを見ている。
理由は分からない。
けれど、そこが「安心できる場所」だと、本能が判断した。
唇が、わずかに動く。
声を出す前の、ためらい。
「……」
一度、息を吸うような仕草。
そして、小さく。
「……ママ?」
問いかけだった。
呼び名というより、
そうであってほしい存在への確認。
ルカは、息を止めたまま頷く。
「……うん」
たったそれだけ。
でも、それで十分だった。
その声を聞いた瞬間、
オートマタ――いや、少女の表情が、ほんの少し緩む。
次に、視線がゆっくりと動く。
もう一人の存在へ。
大きくて、
静かで、
でも確かにそこにいる人。
数秒、じっと見つめてから。
「……パパ?」
今度は、少しだけ自信がある。
レインは、しばらく答えなかった。
喉が、うまく動かなかった。
だから、短く。
「……ああ」
それだけでいいと思った。
少女は、また目を閉じる。
完全に眠るわけではない。
ただ、起き上がるにはまだ早いというように。
人が、
「起きたけど、もう少しだけ目を閉じる」
あの感覚。
「……ねむい」
小さく、そう呟いて。
レインとルカの魔力が、
ごく自然に彼女を包み込む。
守られていると、理解したのだ。
少女が再び静かな眠りに落ち、
研究室に張りつめていた気配が、ようやくほどけた頃だった。
レインは、長く息を吐く。
「……起きたな」
確認というより、実感を確かめる声。
「うん……起きたね」
ルカも、同じように小さく答える。
膝の上で握っていた手を、そっとほどいた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
ただ、眠る少女を見ていた。
その沈黙を、ふと、ルカが破る。
「……ねえ」
「なんだ」
「普通さ」
一拍置いてから、少しだけ照れたように。
「パパとママ、逆だよね」
言い切りじゃない。
確認みたいな言い方。
一瞬の間。
レインは目を瞬かせてから、視線を逸らした。
「……そうか?」
「うん。一般的には」
ルカは小さく笑う。
「僕がパパで、レインがママって言われるほうが、たぶん……」
そこまで言って、言葉を濁す。
「……自然、かなって」
レインは、ほんの一瞬考えるような顔をしてから。
「そうかもしれないな」
淡々とした口調。
だが、その直後――
「だが」
少しだけ、声が柔らいだ。
「最初に呼ばれたなら、それでいい」
ルカは驚いて、顔を上げる。
「いいの?」
「ああ」
レインは、眠る少女に視線を戻す。
「呼び名は、役割じゃない」
「……」
「安心した相手を、そう呼んだ。それだけだ」
言い終えてから、ふっと口元が緩む。
「それに」
一拍。
「逆だと思うなら、訂正すればいい」
「どうやって?」
「時間をかけてだ」
その言葉に、ルカは吹き出した。
「なにそれ」
「理屈だ」
「レインらしい」
くすくすと笑うルカにつられて、
レインも、ほんの僅かに笑う。
ほんとうに、ほんの一瞬。
「……まあ」
レインは咳払いをして、いつもの表情に戻る。
「どちらでも構わない」
「え」
「守るのは、私だ」
即答だった。
ルカは一瞬きょとんとしてから、また笑う。
「じゃあ、やっぱりパパだ」
「そうなるな」
二人は顔を見合わせる。
声を立てるほどではない、
けれど確かに共有された笑い。
研究室の中央で眠る少女は、
その空気を感じ取ったのか、わずかに寝返りを打った。
「……ふたりとも、いる……」
寝言のような声。
それを聞いて、ルカは思わず口を押さえ、
レインは視線を逸らしたまま言う。
「……起こすな」
「起こしてないよ」
「声を出すな」
「出してない」
小声で言い合いながら、
二人は同時に少女の方を見る。
そこには、確かに――
守るべき存在がいた。
役割がどうであれ。
呼び名がどうであれ。
「……家族、だね」
ルカが、ぽつりと言う。
レインは否定しなかった。
「ああ」




