距離感
雷名家の屋敷は、夜でも静かだった。
門をくぐった瞬間、ルカは小さく息を吐く。
――来たことは、ある。
試験前、用件があって一度だけ。
ただ、そのときは応接室までだった。
今日は違う。
馬車が止まると、使用人たちが並んで頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
レインは短く返し、すぐに振り返った。
「降りろ」
「はい」
屋敷の中に入ると、記憶よりも奥行きがあることに気づく。
前に通らなかった廊下。
見覚えのない階段。
「……前に来た時より、奥まで行きますね」
「当然だ」
即答だった。
「今日は客ではない」
それだけで、意味は十分だった。
階段を上がり、静かな廊下を進む。
足音が吸い込まれる感覚は、以前と変わらない。
「ここだ」
示された部屋を見て、ルカは一瞬、言葉を失った。
応接室とは比べものにならない。
客室だが、明らかに長期滞在を想定している。
「……ここを?」
「今日から使え」
「……ありがとうございます」
用意されていた荷物の配置を見て、
すでに“決定事項”だったのだと悟る。
「隣が私の部屋だ」
さらっと付け足される。
「……前に来た時、ここまでは入ってませんでした」
「必要がなかった」
淡々とした返答。
「今はある」
それ以上の説明はなかった。
「夕食まで時間がある。風呂を使え」
「はい」
レインはそれだけ言って、廊下を戻っていく。
――知っている場所のはずなのに、
今日は全部、違って見えた。
夕食は、以前と同じ食堂だった。
ただし、席が違う。
距離が近い。
使用人たちは、前に来た客人だと知っているはずなのに、
扱いは明らかに変わっていた。
「学園はどうだった」
「……慣れるのに時間がかかりそうです」
「初日はそんなものだ」
それ以上は聞かれない。
“保護者”のようで、
でも完全にそれとも違う距離。
部屋に戻り、寝台に腰を下ろす。
――泊まったことは、ない。
応接室で待って、用件が済めば帰った。
それだけだった。
今日は、この部屋で眠る。
その事実を考えているうちに、
いつの間にか眠っていた。
控えめな音で、意識が浮上する。
「……ルカ」
聞き覚えのある声。
「……はい」
扉を開けると、そこに立っていたのはレインだった。
昼間よりも力の抜けた服装。
以前、来訪したときには見なかった姿。
「起こしたか」
「いえ……」
本当は起きたばかりだったが、否定する。
レインは一瞬、部屋の中を見回す。
「……前に来た時より、落ち着いている」
「前は、応接室だけでしたから」
「そうだな」
そのまま、帰る様子がない。
「何かありましたか?」
問いかけると、レインは少し間を置いた。
「……確認だ」
「確認?」
「ちゃんと眠れているか」
それだけの用件にしては、遅い。
「……はい」
レインは視線を少し下げた。
「髪」
「え?」
「前に来た時は、灯りが違った」
そう言って、指が伸びる。
――そっと、触れる。
確かめるように、ほんの一瞬。
ルカは身動きが取れなかった。
「……白いな」
「……はい」
「触ると、壊れそうだ」
「それも、よく言われます」
手が離れる。
だが、完全には距離が戻らない。
「何かあったら呼べ」
「夜中でも?」
「ああ」
迷いはなかった。
「ここは私の家だ」
「……はい」
「隣にいる」
それだけ言って、今度こそ扉の前を離れる。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
静かに扉が閉まる。
ルカは、しばらくその場に立っていた。
来たことのある屋敷。
知っているはずの人。
それなのに――
今日からは、全部が“近い”。
その距離に、まだ名前をつけられないまま、
ルカはもう一度、寝台に戻った。
朝の光が、厚手のカーテンの隙間から静かに差し込んでいた。
目を覚ますと、昨夜と同じ部屋。
――夢じゃない。
身支度を整えて食堂へ向かうと、すでにレインは席についていた。
読書でもしているかと思ったが、今日は何も持っていない。
「おはようございます」
「おはよう」
視線だけで返される。
席に着くと、使用人が手際よく朝食を並べていった。
温かいパンとスープ。
質素だが、整いすぎている。
しばらく、食器の音だけが続く。
――聞いていいのか、迷う。
それでも、ここに住めと言われた以上、
知らないままではいられなかった。
「……レイン」
名前を呼ぶと、フォークが止まる。
「何だ」
「ここ……その、他のご家族は……?」
言葉を選びながらの問いだった。
一瞬の沈黙。
レインは、答えを探すというより、
どこまで話すかを決めているようだった。
「父は、遠征が多い」
「……遠征」
「雷名家は、前線に出る家系だ。今は国境付近にいる」
事実だけを並べる口調。
「母は、もういない」
それ以上は言わなかった。
ルカは、思わずスプーンを握り直す。
「……すみません」
「謝る必要はない」
即座に返る。
「聞いたのは、お前だ」
責める響きはなかった。
「兄弟は?」
少しだけ、踏み込む。
「いない」
「……じゃあ、ここは」
「基本的に、私一人だ」
そこで、視線が向く。
「今は違うが」
さらっと付け足される。
ルカは、思わず瞬きをした。
「……使用人さんは、たくさんいますけど」
「彼らは“家族”ではない」
きっぱりと言い切る。
「信頼はしているが、線は引く」
その言葉は、どこか自分にも向けられているようで。
「……僕は」
口に出してから、続きが詰まる。
「お前は、線の内側だ」
迷いのない答えだった。
ルカは、スープを一口飲んでから、ぽつりと零す。
「……前に来た時、ここはすごく広いのに、静かだなって思ってました」
「静かな方がいい」
「でも……少し、寂しそうだなって」
レインの手が止まる。
「……そう見えたか」
「はい」
「なら、しばらくは賑やかになる」
淡々とした声。
「お前がいる」
それ以上は言わない。
けれど、その一言で、
この屋敷の朝の空気が、ほんの少し変わった気がした。
「学園には、私の馬車で行く」
「……一緒に?」
「ああ」
当然のように。
「雷名家の家人が、徒歩で通う理由はない」
「……目立ちませんか」
「今さらだ」
短く言い切る。
朝食が終わり、立ち上がる前に、レインが一言。
「無理はするな」
「はい」
「困ったら、言え」
「……はい」
二度目の返事は、少しだけ素直だった。
第三講堂の扉が閉まり、
神聖科・基礎講義の時間が始まった。
白を基調とした教室に、新入生たちが順に座っていく。
床には簡易的な魔法陣、壁には聖典と実習用具。
前方に立ったのは、一人の男だった。
「神聖魔法基礎を担当する、アレクだ」
簡素な法衣。
儀式用というより、実習向きの装い。
「今日から、お前たちは“神聖魔法を学ぶ者”になる」
視線が、教室全体を一巡する。
途中で、一瞬だけ後方に流れた。
「……見学者が一名いるが、授業の妨げにはならない」
それ以上は触れない。
新入生たちの視線が一斉に後ろへ向かい、
そしてすぐに戻る。
金ランクの上級生。
説明など不要だった。
ルカは、静かに前を向く。
「神聖魔法は、“願えば叶う力”ではない」
アレクは、黒板に簡単な魔法式を書いた。
「構造があり、制御があり、段階がある。
祝福と混同するな」
――祝福。
その言葉に、胸元の十字架が、わずかに重く感じられる。
「祝福とは、与えられるものだ。
お前たちが今学ぶのは、“自分で扱う力”だ」
授業は淡々と進む。
魔力循環、発動前段階、集中の持続。
ルカは、書き取りながら理解していった。
――分かる。
完全ではないが、頭に入ってくる。
実習に移る。
簡易陣の上に立ち、魔力を流すだけの課題だ。
周囲は慎重で、ぎこちない。
魔力が弾けたり、途中で途切れたりする。
ルカは一度、深く息を吸った。
流す。
整える。
押しつけない。
淡い光が、陣に灯る。
その瞬間――
光が、ほんの一拍だけ、柔らかく揺れた。
「……」
アレクが、わずかに眉を動かす。
「問題ない。続けろ」
それ以上、何も言わなかった。
だが。
背後の空気が、わずかに変わる。
振り返ると、レインがこちらを見ていた。
目を細め、何かを測るような視線。
――今のは。
祝福か、偶然か。
判断する材料は、まだない。
実習が終わる。
「初日としては十分だ」
アレクの声が響く。
「神聖魔法は、焦るほど壊れる。
今日はここまでだ」
授業が終わり、生徒たちがざわめき始める。
その中で、レインが自然にルカの隣へ来た。
「異常はないな」
「……はい」
「今の光」
一瞬、言葉が止まる。
「制御は安定していた」
評価とも、確認ともつかない声音。
「次だ」
短く告げて、歩き出す。
離れるつもりは、最初からない。
ルカは、小さく頷き、後を追った。
訓練が一段落し、教官の合図で小休止に入った。
剣を下ろし、水を飲む生徒たちの間を、レインは動かない。
ルカを見ていた。
「……今の動き」
低く言う。
「剣を振っているが、力の入り方が魔法寄りだ」
「え……?」
「無意識だが、指先で“操ろう”としている」
レインは少し考えるように視線を落とし――
「パペット魔法を、知っているか」
ルカは首を振る。
「名前だけ……です」
「自分の魔力を“糸”として使う操作系だ。
本来は神聖科より、補助・制御向き」
訓練場の端、誰も使っていない木製の簡易人形を指す。
「やってみるか」
「……え?」
「才能がなければ、何も起きない」
断定だった。
試すだけ。
失敗も、恥も、想定していない言い方。
ルカは一歩、人形の前に立つ。
深呼吸。
――操る、じゃない。
触れる、つながる。
意識を、指先に集める。
「……」
一瞬、何も起きない。
だが次の瞬間。
人形の腕が、ぴくりと動いた。
糸は見えない。
だが、確かに“引っかかった”。
訓練場が、ざわつく。
「……今の」
「新入生だよな?」
レインの目が、わずかに細くなる。
「やめろ」
即座に言った。
「今はそこまでだ」
ルカの手を、そっと下ろさせる。
「集中しすぎると、持っていかれる」
叱責ではない。
保護に近い声だった。
「……すみません」
「謝るな」
短く言い切る。
「適性がある。それだけだ」
人形を見る。
人形は、もう動かない。
糸が切れたように、静止している。
ルカは手を下ろし、戸惑いながらレインを見た。
「……本当に、やめてよかったんですか」
「いい」
即答だった。
「私が止めた」
それだけで、十分だと言わんばかりに。
教官の視線が一瞬こちらを向くが、レインは気にも留めない。
「パペット魔法は許可制だ」
淡々と告げる。
「だが、その許可は――私が出す」
周囲が静まる。
それがどれほど強い言葉か、全員が分かっていた。
「今日から、お前は私の管理下だ」
命令口調。
だが、逃げ道を塞ぐ言い方ではない。
「勝手に使うな。
使うなら、私の前でだけだ」
「……はい」
小さく答えると、レインは一歩近づく。
近すぎる距離。
「責任は私が持つ」
低い声。
「お前が壊れる前に、止める」
それは、監督の言葉ではなかった。
庇護だった。
訓練再開の号令がかかる。
レインはようやく一歩下がるが、視線は外さない。
「今は剣に戻れ」
「パペットは“切るため”じゃない」
「守るために使え」
その言葉は、命令でも教えでもなく、
――方向付けだった。
ルカは剣を握り直す。
不思議と、手の震えはもうなかった。
屋敷が眠りに落ちる頃、石造りの廊下には人の気配がなくなる。
ルカは自室の机で、簡単な復習をしていた。
昼に習った魔法陣を、指でなぞるだけの作業だ。
――今日は、もう終わり。
そう思った瞬間だった。
控えめなノックが、扉を叩く。
「……起きているか」
聞き慣れた声。
ルカは椅子を引いて立ち上がり、扉を開けた。
「起きてます。レイン先輩」
廊下に立っていたのは、私服姿のレインだった。
昼の制服とは違い、肩の力が抜けた格好――だが、目だけは冴えている。
「少し、付き合え」
それだけ言って、踵を返す。
断る余地のない言い方だった。
「……はい」
ルカは外套を羽織り、後を追う。
向かったのは、中庭だった。
昼間は訓練や移動で何度も通る場所。
けれど今は、灯りも少なく、風の音だけが残っている。
「ここで?」
「騒ぐな。音は結界で遮る」
レインはそう言って、片手で簡単な術式を描いた。
空気が一段、静かになる。
「今夜は、魔力量の確認だ」
私的な時間。
授業でも訓練でもない。
――完全に、個人的な訓練。
「パペット魔法、試してみろ」
唐突だった。
「……いいんですか」
「私が許可している」
それで終わりだった。
ルカは小さく息を吸い、集中する。
直接攻撃はできない。
だから、糸を引くように。
魔力を、形にする。
足元に描いた簡素な魔法陣が、淡く光る。
次の瞬間、影が揺れた。
人の形をした、薄い幻影が一体、立ち上がる。
完全な人形にはほど遠い。
動きもぎこちない。
だが――
「……上出来だ」
レインの声が、わずかに低くなる。
幻影が一歩、前に出る。
ルカの意思に引かれて、剣を振る仕草をする。
刃はない。
ただの動きだ。
「制御が甘い。だが、切れていない」
レインは近づき、ルカの背後に立つ。
近い。
昼ならありえない距離。
「魔力を流す速度を落とせ」
耳元で、低く指示が落ちる。
ルカは言われた通り、力を抑えた。
幻影の動きが、少し安定する。
「……できました」
「ああ」
短く答えたあと、レインはなぜか動かなかった。
すぐ後ろ。
守る位置。
無意識だ。
「……先輩?」
「……」
一瞬の沈黙。
レインはようやく一歩引き、視線を逸らした。
「今日はここまでだ」
「もう?」
「十分だ」
言い切りだった。
結界が解かれ、夜の空気が戻る。
「……あの」
「何だ」
「夜でも、来るんですね」
少しだけ、冗談めかして言う。
レインは、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
「……必要だと思った」
それだけ。
理由になっていない理由。
「早く休め。明日もある」
「はい」
背を向けて歩き出すレインを、ルカは見送った。
――屋敷に住んでいる。
――毎日、顔を合わせている。
それなのに。
夜の中庭で、二人きりで立った時間だけが、
やけに胸に残った。
レインのほうもまた、廊下に戻ってから、歩調が戻らなかったことを、自覚していなかった。
眠りに落ちた、その瞬間だった。
突風が叩きつけるように吹き荒れ、視界は黒い砂嵐に呑まれた。
上も下も分からない。世界が削られている。
その嵐の奥で、声だけが割り込んでくる。
「……私は、祝福を与えた神とは別の者だ」
一拍も置かれない。
「明日――学園に、近づかないほうがいいだろう」
そこで、風が裂けた。
砂が視界を埋め尽くし、声も、気配も、強引に引き剥がされる。
次の瞬間、ルカは息を詰まらせて目を覚ました。
夜の屋敷。
静寂。
目を覚ましてから、ルカはほとんど眠れていなかった。
夢のはずなのに、風の音だけが耳に残っている。
黒い砂。視界を覆う嵐。短すぎる忠告。
――学園に、近づかないほうがいい。
理由はない。
意味も分からない。
ただ、その言葉だけが胸の奥に引っかかって、離れない。
(……夢、だよね)
そう思おうとするほど、意識が冴える。
寝台の上で何度も寝返りを打ち、結局、天井を見つめたまま時間が過ぎていった。
一人でいるのが、少しだけきつい。
相談するほどじゃない。
説明できることもない。
でも――このまま朝まで起きているのも、嫌だった。
ルカは静かに起き上がり、廊下へ出た。
足音を殺し、覚えのある扉の前で立ち止まる。
ノックしようか迷った、その瞬間。
「……起きているな」
扉の向こうから、落ち着いた声がした。
開いた扉の前に立っていたのは、レインだった。
寝間着姿だが、表情は普段と大差ない。
ルカの顔を見るなり、ほんの一瞬だけ眉が動く。
「悪夢か」
断定だった。
「……え?」
「目がそう言っている」
どこか楽しそうですらある声音。
「すみません……起こすつもりは……」
「いい」
被せるように言って、レインは体をずらす。
「入れ。眠れないんだろう」
半ば当然のように言われ、ルカは言葉を失ったまま部屋に入った。
灯りは最低限。
整えられた空間は、相変わらず無駄がない。
ルカは立ったまま、どうしていいか分からずにいる。
「で」
レインが椅子に腰を下ろし、腕を組む。
「どんな悪夢だ」
「……覚えてないです」
嘘ではない。
内容より、不安だけが残っている。
「ふむ」
レインは納得したように頷く。
「よくある」
そして、少しだけ口角を上げた。
「怖くなって、誰かの所に来た」
言い方が、妙に軽い。
「……そんな感じ、です」
認めると、レインは一瞬だけ満足そうな顔をした。
「素直だな」
そう言ってから、視線で寝台の端を示す。
「座れ」
言われるまま腰を下ろすと、距離が近い。
思ったより近くて、少し緊張する。
レインは立ち上がり、ルカの前に立つと――迷いなく頭に手を置いた。
ぽん、と軽く。
撫でるというより、雑な確認。
「……っ」
「やはりな」
レインは、どこか愉快そうに言った。
「完全に怯えている」
「そんなに……」
「そんなにだ」
断言。
「安心しろ。ここは安全だ」
低く、落ち着いた声。
「悪夢くらいで、何か起きたりはしない」
そのまま、手を離そうとして――
ふと、服を掴まれていることに気づく。
ルカが、無意識にレインの袖を握っていた。
「……」
一瞬、ルカが慌てて手を離そうとするより早く。
「そのままでいい」
レインは、あっさり言った。
そして、軽く息を吐く。
「まったく……」
呆れたようでいて、声は柔らかい。
「怖がって来るところまで含めて、今日は随分かわいいな」
「……!」
思わず顔が熱くなる。
レインはその反応を見て、さらに機嫌がよくなったらしい。
「離す気はない」
当然のように言い切る。
「眠くなるまで、ここにいろ」
命令口調だが、どこか余裕がある。
ルカは小さく頷き、レインの近くに身を寄せた。
胸の奥の不安は消えていない。
夢の意味も、分からないままだ。
けれど今は――
「悪夢で怖がっているだけ」だと思われている、この距離が、少しだけ楽だった。
そしてレインは、
後輩の弱いところを見られたことに、内心かなり満足していた。
学園の正門を越えた、その瞬間だった。
視界が、わずかに歪む。
「……?」
違和感を言葉にする前に、頭の奥を内側から押し広げられる感覚が走った。
立っていられない。
音が遠ざかり、世界が傾く。
「ルカ――!」
レインの声が、確かに聞こえた。
けれど、応えようとした意識は、次の瞬間――深く引きずり込まれた。
暗闇。
だが、完全な無ではない。
風が吹き荒れている。
黒い砂が舞い、視界を奪う嵐の中。
ここは、夢とも精神ともつかない場所だった。
その中心に、光がある。
「あら……」
聞き覚えのある、柔らかい声。
「もう耐えられなくなった?」
女神だった。
祝福を授けた、あの存在。
彼女は微笑みながら、当然のようにそこにいる。
「でも安心して。これは想定内よ」
光が強まる。
ルカは、自分の輪郭が溶け始めているのを感じた。
体ではない。
“存在”そのものが、上書きされかけている。
「……っ」
抵抗しようとしても、動かない。
だが――
完全には、沈まない。
何かが、内側で踏みとどまっていた。
「……おかしいわね」
女神が、わずかに眉をひそめる。
「祝福は完全に馴染んでいるはずなのに」
そのとき。
嵐の向こうから、低く、乾いた声が割り込んだ。
「――だから忠告した」
黒い砂嵐が一瞬、裂ける。
そこに立っていたのは、夜に現れた“もう一柱”の神。
光ではない。
翼も、冠もない。
ただ、堕ちた星のような存在感。
「時間がなかった」
その神は淡々と告げる。
「だから、ほんの少しだけ“楔”を打った」
ルカの内側で、何かがきしむ音がした。
祝福の流れの中に、異物が混じっている。
女神の力を拒絶するのではない。
“降り切れなくする力”。
「完全な抵抗じゃない」
堕天寄りの神は、女神を見据える。
「だが、今は――降りられない」
女神の微笑みが、はっきりと消えた。
「……あなた、余計なことを」
「余計でなければ、意味がない」
一瞬、空気が張り詰める。
女神は小さく息を吐き、肩をすくめた。
「なるほど。だから気絶で済んでいるのね」
視線が、ルカに戻る。
「いいわ。今回は引く」
だが、その声には楽しさが残っていた。
「でも、覚えておいて」
指先が、空間に触れる。
「その祝福は、もうあなたの中にある」
嵐が、再び激しくなる。
「楔が抜ける瞬間は――必ず来るわ」
女神の姿が、光とともに遠ざかる。
残されたのは、黒い砂嵐と、もう一柱の神。
「……助かった、のか」
声にならない問い。
堕天寄りの神は、短く答えた。
「猶予をやっただけだ」
そして、初めてルカを見る。
「明日、学園に近づくなと言っただろう」
風が、さらに強くなる。
「だが……間に合わなかったな」
その姿も、嵐に溶ける。
意識が、完全に落ちている。
レインは即座に魔力を流し込んだ。
外傷なし。毒反応なし。
だが――
「……内側から、だな」
祝福が、異常な密度で活性化している。
いや、呼び水にされている。
そのとき。
背後の空気が、わずかに欠けた。
音も、魔力の波もない。
それでも、経験が告げる。
――来る。
レインは一歩、前に出た。
ルカを庇う位置。
次の瞬間。
視界の端で、何かが“現れた”。
いや、正確には――
透明だったものが、刃だけを露わにした。
「……っ」
ナイフが、首元へ。
結界が自動展開する。
だが、完全ではなかった。
乾いた音。
熱が走る。
掠っただけだ。
それでも、指先で触れると、わずかな湿りが残る。
同時。
「――雷よ」
声は低く、短い。
雷撃。
視認より早く、雷が奔る。
不可視の一点に、一直線。
制圧用。殺さない出力。
空気が裂け、何かが弾き飛ばされる感触。
だが、ひとつではない。
気配が、複数、散る。
「……教信者か」
女神の“保険”。
魔力探知をすり抜ける透明化。
異様なまでに洗練された動き。
レインは舌打ちし、首元へ手を当てる。
「――治癒」
淡い光。
傷は即座に塞がり、痛みも消える。
だが、視線は離さない。
次の雷は、広域。
雷圧が空間を叩き、
透明だった輪郭を強制的に歪ませる。
学生服姿の人影が、一瞬だけ浮かび上がった。
手に、祈りの刻印が刻まれた刃。
「……今は引く、か」
判断は早い。
気配が霧のように散り、
侵入者たちは距離を取った。
レインは追撃しない。
今は、それどころではない。
腕の中のルカを見る。
静かだ。
だが、祝福の奥で――何かがせめぎ合っている。
女神の圧。
それを、内側から押し留める、別の力。
「……別口が、割り込んだな」
昨夜の気配が、脳裏をよぎる。
忠告。
猶予。
それがなければ――今、この場で終わっていた。
レインはルカを抱き直した。
庇うのではない。
離さないために。
「……すまない」
誰に向けた言葉か、自分でもわからない。
遅れた。
ほんの一瞬だが、それでも。
腕に力がこもる。




