序章
柔らかな風が吹き始めて、ようやく青々とした草の臭いが混じり始めた。
「マナの源泉」が癒え始めたおかげで、世界にはわずかながら生命の気配が戻りつつある。
だが、一度凍てついた人の心が解けるには、まだ長い時間が必要だった。
旅の吟遊詩人が立ち寄ったのは、ふきすさぶ風の中にしがみつくようにしてできた小さな集落だった。
広場の中央で、人々が何かを取り囲み、軽薄な憎悪をぶつけている。その中心にいたのは、痩せこけた一人の少年だった。
その腕には、古い火傷のような奇妙な痣があった。人々は、自分たちの暮らしが良くならないのを、その「呪いの印」のせいだと信じ込んでいた。
「化け物!」「お前がいるから、この土地は呪われたままなんだ!」「出ていけ!」
恐怖は、常に分かりやすいはけ口を求める。それは、この再生しかけの世界でも変わらない、人間の悲しい性だった。
少年はただ唇を固く結び、飛んでくる罵声に、黙って耐えていた。
その時、どこからか、弦を弾く音がした。
ポロン……。
荒んだ人の心には、あまりにも不似合いな、素朴な優しい音色。
人々は驚いて振り返る。
そこに立っていたのは、一人の旅の吟遊詩人だった。年季の入った旅装に身を包み、背中にはガラクタを寄せ集めて作ったような、奇妙な楽器を背負っている。
「……あんた、何者だ」
集落の男が、警戒を露わに尋ねる。
詩人は問いには答えず、ただ静かに、しいたげる者と、しいたげられる者の両方を見つめた。
「アンタたちは、『英雄』って言葉を信じるかい?」
唐突な問いかけに、人々は鼻で笑う。
「英雄なんてもんがいたら、世界はこうなっちゃいねえよ」
その答えに、詩人は静かにうなずいた。
「そうだな。俺が知ってる男も、英雄なんかじゃなかった。それどころか、アンタたちがその子に向ける目と、そっくり同じ目で見られていた男さ」
詩人の視線が、うつむく少年に注がれる。
「そいつは、世界中の人間から『化け物』と呼ばれ、石を投げられ、いみ嫌われていた。そいつ自身、自分が何者なのかも分からず、ただ途方もない罪悪感だけを抱えて、この荒野をさまよっていたんだ」
「だがね、そいつにはたった一人だけ、物好きな相棒がいた。そいつもまた、世界から見捨てられた、しがない音楽家だったらしい」
詩人の指が、ゆっくりと弦の上を滑る。その仕草には、遠い過去を懐かしむような、優しい響きがあった。
「その音楽家は、あまりにも臆病で、あまりにも孤独だったその男に、たった一つ、名前をくれてやったそうだ。世界で一番強くて、世界で一番か弱い、その男にぴったりの名前をな」
彼の声は、まるで秘密の宝物の在り処を教えるように、少しだけ誇らしげだった。
「その名を――『リトルモンスター』」
初めて聞くその名に、人々は怪訝な顔をする。少年だけが、なぜかその奇妙な響きに、顔を上げた。
「これは、ただの救済の物語なんかじゃねえ」
吟遊詩人は、集まった全ての人々に語りかける。
「これは、まだ誰も知らない、名もなき男の物語だ。一人の臆病な男が、自分自身を救うために、必死に足掻いた旅の記録。そして、アンタたちと同じように、どうしようもなく臆病だったそいつの相棒が見届けた、始まりの歌なのさ」
詩人はそう言うと、優しく弦を爪弾き始めた。
それは、鎮魂歌にも似ていた。かつて、孤独だった相棒の魂を導いたように。そして今、目の前にいる、新たな孤独な魂に寄り添うように。
「さて、どこから話したもんかね……」
「そう、始まりは確か、全てが錆びついてひび割れた、がれきの街だった。彼が、腹を空かせた一匹の魔獣と出会った、あの日のことから……」
素朴な優しい音色がまた響く。
その音色は、分断された人々の心を、もう一度繋ぎ合わせようとする、祈りのような旋律だった。




