Scene 3〈優しく触れられると痛い〉
手を繋いだ日から、一夜一夜と――言葉を交わすように、二人は温もりを分かち合った。
夜着が滑り落ちた肩口に、そっと唇が触れる。肌の奥へと染みる熱に痺れて、メルティナの首筋は強張った。
金の瞳が、ちらりと見上げてくる。視線は鋭いが、そこにメルティナを咎める意志はない。痛みはないか、不快でないか――つぶさに顔色を窺う様子だ。
瞳を静かに伏せる……それが、メルティナが彼に返す言葉となる。決意に揺るぎのないことを確かめると、アルベリオスも迷いを胸に押し込めた。
逃げ場を塞ぐようにメルティナの背に手を回し、もう一度、唇を肌に滑らせる。引き絞った魔光石のほのかな灯りが、寝台の足元に二人の影を重ね、ゆらりと踊らせた。
***
夜半の空に星々が瞬く間、メルティナはアルベリオスから、これまで知らなかったものをいくつも与えられた。
ルーヴェントに囚われて、幾夜もその身をすり減らしてきたが、体調を慮る言葉だとか、髪の艶やかさを愛でる手つきだとか――そういったものを何一つ、メルティナは知らない。
少しでも怯えを滲ませたら、アルベリオスがそれ以上触れてこなくなるわけも、不興を買ったからだとメルティナは思い込んでいた。それらがすべて彼の気遣いと受け止められるまでは、実に七晩を要した。
一方的に欲を貪り、理性が焼き切れるような快楽で支配しようとするルーヴェントとはまるで違う。
ルーヴェントには触れられるのも、声を涸らした吐息を耳に吹き込まれるのも、嫌で嫌でたまらなかった。享楽に溺れる彼自体が、おぞましい化け物に思えたほどだ。
それが今はどうだ。
アルベリオスから与えられる温もりは、愛をもって触れ合っているかのような錯覚を引き起こした。これはルーヴェントを退けるための、かりそめの愛の形でしかないのに、だ。
何より、アルベリオスはアズの仇――。
甘やかに体が痺れる度に、メルティナは自分が醜いものに成り変わっていくようで怖かった。
腿の裏から付け根のほうへ滑るアルベリオスの手が、ふいに頬に触れた。指先が、睫毛を掬うように目尻を撫でる。爪の先を、小さな雫が濡らしていた。いつの間にか、涙がこぼれていたのだ。
「今宵はここまでに」
アルベリオスは寝具と夜着を引き寄せ、ほんのりと熱を帯びたメルティナの肌を包み込む。押し殺した嗚咽が、やがて寝息へと変わるまで、そうして腕を解かなかった。
夜明けを待たずに、二人の夜は静かに閉じられた――。
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「元気ないねぇ、メルティナ様」
ヴァルの視線は、執務室の窓辺から内庭を見下ろす。花々が咲き乱れる散策路を、ちょうどメルティナが歩いているところだった。
ゆったりとした歩みに蝶がついていくかのように、白い衣の裾が翻る。時折り、侍女たちに微笑みかける姿は、天に住まう女神さながらに神々しい。しかし、目許には悲しげな影を深く落とし、儚げでもあった。
「そりゃあ、見知らぬ王子には粘着されて、好きでもない男と夫婦でいなきゃ逃げきれない極限状態だもん。気も滅入るでしょう」
定期的にメルティナの様子を伝えに来ているラキァの大きなため息で、目の前にあった鼈甲の調度品が白く曇った。ここは彼女の持ち場ではないが、すかさず布で拭き上げてしまうのは、もはや職業病だ。
いつもの癖で、もう一度はあっと息を吐く。すると、ヴァルが肘で小突いてきた。
「ちょっとは歯に上着でも着せてやってよ、ラキァ。アズが泣いちゃってるって」
「いいんだ、ヴァル……事実だ。うっ、うぅ……事実だからつらい……」
「ほらほら、泣くのは僕の胸にしなって。大事な書類が濡れちゃうよ」
気安く頭を撫でてみせるも、消沈したアルベリオスからは何の手応えもない。冗談すら空振りに終わり、部屋の空気が重たく沈んだ。
その重さを誤魔化すように、ヴァルは肩をすくめて口を開く。
「しかしさぁ、メルティナ様も見かけによらず肝が据わってるよな。腹に詰め物するんじゃダメかねぇ」
「それくらいで諦めそうにない相手で、捕まったらどうなるか知っているからでしょ。わたしだって、あんなのだって知ってしまったら、一夜だってごめんよ」
「うーん、それもそうか。同性の僕でも見惚れるような、あの綺麗な顔からは想像がつかない、えげつないご趣味をお持ちだもんな」
ぶるっと震える肩をヴァルはさすった。ルーヴェントの放埒を、初めて目の当たりにした時を思い出す。
メルティナを城に迎えるにあたり、アルベリオスは二人に、証人の確保を命じた。
死に戻ったアルベリオスが知るルーヴェントの非道な人格を、城内に周知する必要があったからだ。皆の意志が一本に結ばれていなければ、強引に連れ去られたメルティナを哀れに思い、逃がす者が出てくるだろうと危惧してのことだ。
ヴァルたちは、証人となる被害女性を探し出すため、しばらくグランフィルドに潜伏していた。ルーヴェントの足取りを追う中で、ある寂れた娼館に辿り着く。王族が逗留するには、いささか格が低い店であったが、ルーヴェントは客足が遠いほど使い捨てが利くと言って、楼主に金を握らせ好き放題していたのである。
王子が淫蕩に浸った暁には、店の裏には帰りの馬と棺桶が届けられる――そんな光景をヴァルたちは見てきた。
そしてある晩、彼らはついに行動に出る。女たちを連れ出し、代わりに死体に偽装した肉塊を置くと、店に火を点けた。楼主の不始末――そう思わせる工作をして、証人をごっそりタルヴァニアへと連れ帰ったのだった。
「初めは半信半疑だったみんなも、女の子たちの憔悴しきった姿と……、ルーヴェントの名前を耳にした時の怯えた様子を見て、信じてくれたのよね」
「ルーヴェント王子は天使の皮を被った悪魔――そんなふうに言った子もいたっけ」
「あの子たち……自分と同じような目に遭って欲しくないって。そう言って、メルティナ様に精一杯尽くしてくれてるわ」
ラキァは指先で窓の向こうを示す。花を愛でるメルティナの後ろに控えた侍女の数名は、グランフィルドから連れ出してきた娘たちだ。
教養が身についていた者は侍女となり、そうでない者も下女などとなって、今はメルティナの身の回りを支えていた。
「みんな、タルヴァニアに来たばかりの頃より、表情に柔らかさが出てきたわ。体に残った傷は癒えても、心の疵は完全には塞がらないものだから……このまま、良いほうへ向かってくれるといいわね」
ラキァの言に頷いて窓の外を眺めるヴァルは、ふと首を傾げる。
「……王子の放埒は、グランフィルドが国ぐるみで目を瞑り、深い闇の中に隠されていた。僕たちが火つけまでしてようやく明るみに出せた話だ」
「どうした、ヴァル」
「それじゃあメルティナ様はどうやって、その事実に辿り着いたんだろう?」
メルティナと、娼館から連れてきた娘たちの表情は、どこか似ているとヴァルは思ったのだが、口には出さなかった。
ヴァルの呟きを受けてラキァも、ううんと頭をひねる。
「聖女様は、それなりのお立場なのだから、独自の情報網でもあるのかしらね」
「それともお告げ? 占いとか?」
「そもそも、わたしたちって、メルティナ様のことをよく知らないのよね。逆に言えば、メルティナ様もわたしたちをよく知らない」
「……信用がないということだな」
「あ、またラキァがアズを泣かせた」
情報源を聞き出すのはおろか、一向に縮まらないメルティナとの距離に、アルベリオスの絶望は深い。すると、重苦しい空気を振り払うように、ヴァルがぽんと手を打った。
「そうだ、いいこと思いついたよ。メルティナ様を城下に連れ出してみないかい?」
唐突な提案に、ラキァは細い目を瞬かせる。
「一旦みんな立場も捨てて、ただの市民になってさ。ぱあーっと遊んで、親睦を深めるんだよ。もちろん、僕も護衛についていくよ」
「何よ、それ。結局はヴァルが出かけたいだけなんじゃないの」
「そうだけどね。でも、友の恋路を応援したい気持ちは本物さ! な? いいだろ、アズ?」
***
「あの……これから、どちらへ?」
外出すると告げられ、朝から身支度を調えられていたメルティナだが、鏡に映る姿に困惑の表情を浮かべる。
ラキァと揃いの白い綿ブラウスに、紺色のスカートという素朴な出立ちは、メルティナにとって身近でない装いだ。五つで水晶宮に出仕した時から、絹の衣服やドレスが常で、町の娘たちがするような動きやすい格好とは縁遠かった。
髪も簡単に編んで垂らしただけ。鏡の中のメルティナは、普通の町娘にしか見えなかった。
見慣れない自分の姿に、微かな高揚を覚える。一方で、この格好でどこを訪問するのか、疑念が深まった。
尋ねても、ラキァはにこにこするばかり。気付けば城門前に立っていた。
「あ、来た来た。おーい、ラキァ」
長躯の青年が、ひらひらと手を振っている。
メルティナも、彼がアルベリオスと一緒にいる姿を見かけたことがある。その時は高位の剣士然とした様子だったが、佩刀こそしているものの今日は軽装だ。
「おはようございます、メルティナ様。本日護衛を務めます、ヴァルパルロです。ご一緒できて、光栄です。ヴァルって呼んでくださいね」
「おはよう、ございます。よろしくお願いいたしします……」
人懐こい笑顔も手伝って、小姓か冒険者のような気さくな印象の彼に、メルティナもすっかり空気に呑まれてしまう。
「いやいや、いいね。最高だよ、ラキァ! お揃い服の女の子、可愛い」
ヴァルは二人の姿を、四方に回って眺める。その身のこなしといったら風のようで、メルティナは目が追いつかない。
「ほらほら、陛下も近くでご覧よ」
ヴァルが振り返る先に、アルベリオスが立っていた。やはりこちらも軽装で、普段の覇気が薄れ、どこにでもいる若者に見える。メルティナより三つ年上というが、それすらひっくり返ってしまったような、若々しい装いだ。
メルティナが珍しいものを見る目で、まじまじと見ていると、彼はふいと視線を逸らした。衛兵に開門を命じると、さっさと歩き出してしまう。
「……どこから見ても同じだ。さあ、もう行こう」
「あのっ、お待ちください、陛下。本日は一体どのようなご用向きで……」
追い縋るメルティナのスカートが、膝の下で揺れる。細いふくらはぎが朝日の下に眩く、アルベリオスは今日も光気に当てられて言葉を失くすのだった。




