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Scene 1〈触れることさえままならない〉前


 空の青を映して悠々と揺蕩う水面に、ぷかりぷかりと、大小さまざまな蓮の葉が肩を並べている。

 そのどれもが透き通った色味をしていて、陽光に輝くさまは硝子細工がごとき眩さだ。


「初めて目にする花です。タルヴァニアにしか咲かない花でございますか?」


 アルベリオスは小さく笑い、メルティナを汀へと招いた。


「ここに来て、触れてみるといい」

「触れても、よろしいのですか? 枯れてはしまいませんか? このように繊細な姿をしているのに」


 彼の隣に腰を屈め、恐る恐る手を伸ばす。葉脈をそっとなぞってみると、ひやりと冷たく、植物にはない硬さが指先に触れた。

 はっとして隣を見上げる。


「これらすべて、水晶でできた花でございますか」


 見開かれたメルティナの瞳の中に、驚きと歓喜が揺れるのを見つけ、アルベリオスは満足そうに笑む。

 微かに吹き出したアルベリオスの息で、空気が柔らかく揺れた。


「水晶の神殿にいたというあなたには、見慣れたものだったろう?」

「いいえ、驚きました。このように意匠を凝らしたものを見るのは、初めてです。素敵な場所でございますね」


 メルティナは、辺りを見回す。堅固な城壁が囲む宮殿の内にいることを忘れてしまいそうな、ゆったりとした風が、水面を撫でた。


 突然の邂逅から一夜が明けた今日、メルティナはラキァの提案で城内を案内してもらっていた。

 タルヴァニアの王宮は、メルティナが想像していたよりも遥かに開かれて、光に溢れた場所であった。朝の謁見で、廷臣たちを前に「電撃結婚」を発表した時でさえ、返ってきたのは温かな拍手であった。

 裏があるようには思えず、噂との距離感に戸惑っているうちに、気がつけばアルベリオスも合流し、今はこうして美しい景観を二人で眺めている。

 少し離れたところに、側仕えたちの気配を感じ、メルティナはアルベリオスの意図を理解したつもりだ。


(仲睦まじい夫婦の姿を、まずは宮城内から広めていくつもりなのでしょう)


 それであれば、今日のところはもう目的は果たせたはずだ。多忙な彼をいつまでも引き留めては、たとえかりそめと言えど、賢明な妃のすることではない。

 臣下たちにも良い印象を抱いてもらうことが、アズについて探る近道となると、メルティナは考えていた。


「わたくしは、もう少しこちらを眺めてから、戻りたいと思います。ご政務の間を縫ってご案内くださり、ありがとうございました。午後もお励みください」


 見送るつもりで、淑やかに礼を取る。しかし、アルベリオスはいつまで経っても、メルティナの隣から動かなかった。

 それもそのはず。本日中にこなさねばならない政務には、すでに片がついている。最後の書類に目を通し終えるや、彼は椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がり、光のごとき俊足――いや、もはや転移魔法を使ってメルティナのもとへ駆けつけたのだ。


(メルンと、穏やかに過ごせる時を逃してはならない。わたしたちには、こんな時間こそ必要なんだ!)


 ただ一緒にいたいだけ。貴重な機会を逃したくはない。

 そんな簡単な言葉が、メルティナを前にするとアルベリオスは出なくなってしまう。胸は苦しく、舌はもつれた。

 情けない姿だけは見せてなるものか、と表情を引き締める。


「わたしが隣にいてはならないか?」

「いいえ、ですが……」

「……逃がすつもりはない」


 緊張のあまり、眉間に力が入ってしまった。

 するとメルティナは、相反して柔らかく微笑んだ。


「ではもう少しだけ。陛下が心安らかにいられるよう、こうしておりましょう」


 メルティナがわずかに心を開き、ともにいたいと望んでくれた――アルベリオスは澄ました顔を取り繕いながら、心で大いに舞い上がっていた。カエルなら、ぴょんぴょん飛び跳ねているところだ。

 だが残念ながら、彼の恋心はメルティナに全く届いていなかった。その時、メルティナが考えていたのはこうだ。


(わたくしが逃げるのではないかと、お疑いのようですね。ここはこれ以上、意見せずにおきましょう)


 離れて様子をうかがっていたラキァは、前途多難な予感に、深いため息を否めなかった。



 ***


 水晶の蓮池を散策していると、広々とした水場の奥に、白い石でできた四阿が見えてきた。アルベリオスはそこまでメルティナを誘うが、橋や舟は見当たらない。

 どこか回り道をしていくのかと、メルティナがきょろきょろしていると、アルベリオスがまたからかうように笑った。


「葉の上を歩いていくのだ」

「まぁ……ご冗談が上手ですのね」


 メルティナは指先で、透き通った葉っぱをつつく。水晶の蓮葉は、水底が覗けるほど透き通っていて、それほど厚みがあるようには思えない。

 乗ったら壊れて沈んでしまうに違いないと、メルティナは足を踏み出す気になれなかった。


 その様子を、アルベリオスは興味深く見つめる。

 雨に濡れた闇の中で、底なし沼と知らずに飛び石を渡ろうとする姿は、凛々しく危うげで目が離せなかった。今のメルティナはそれとは違うが、やはり目を逸らせない。

 アルベリオスは覚られないように咳払いすると、手を差し伸べた。


「……怖いのならば、手を貸してやろう」

「え?」

「それすら恐ろしいと言うのなら、抱えて連れていってもいいが……」


 勇気づけるつもりで伸ばした手だが、一番勇気を振り絞っているのは、アルベリオス本人だった。

 手を取ってはほしいが、取られたら震えているのがメルティナに伝わってしまう。ぐっと脇を締めて、息も止めて平静を装っていた。

 メルティナの手が、躊躇いながら伸ばされる。

 やがてそっと触れたのは、アルベリオスの手をしなやかに魅せている、落ち着いた刺繍の施された袖口であった。


「失礼いたします……」


 指先でつまむように、遠慮して袖を握る。


(これなら、お体に障ることはないかしら……)


 昨晩、不機嫌そうに寝室から出て行ったアルベリオスを、ラキァは「メルティナの光気に当てられた」のだと説いた。メルティナの不安を煽らぬよう、ラキァが気遣ってくれたのだとは承知しているが、万が一を思っての対策だ。

 そっと見上げて様子を窺うと、アルベリオスは唇を震わせ、そっぽを向いてしまう。やはり険しい顔をしていて、息を詰めて痛みに耐えている様子だ。


(やはり……わたくしの光気が障るのでしょうか)


 メルティナが心配する一方で、アルベリオスは幸せな動悸を抑えるのに必死である。紅潮した頬を汗が伝った。


(なんと慎ましやかで愛らしい手なのだ……。それに、そんなふうに見つめないでくれ。抱きしめたくなる!)


 金の瞳が、ちらりとラキァに投げられる。

 助けを求める視線を受け止めた幼馴染は、指をあれこれ組み替えて、声を発さずに激励した。


『わかりますよ。メルティナ様は可愛い。だけど今は堪える時よ、アズ! せっかく雰囲気はばっちりなんだから、落ち着いて! 一歩ずつよ!』


 こくりと頷くとともに、アルベリオスは咳払いする。震えそうな声を低く調えて息を吐くと、不敵な笑い声に聞こえなくもない。


「……控えめだな。まぁ、いい。わたしに続け」

「よろしくお願いいたします」


 水晶の蓮葉は二人で乗ってもびくともしなかったが、透き通る水面にメルティナはほんの少し足をすくませた。

 袖を掴む手に、無意識に力が入る。きゅっ……と引かれる袖に、またもアルベリオスは()()()()()()()、喉の奥で甘いため息を押し殺した。



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