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Scene 3〈またとない日々〉


「カエル様も、誰かに追われているのですか?」

「ええ。悪い魔法使いがいてね。罪をでっちあげられて、わたしの親も兄弟もみんな、死に追いやられてしまいました」

「なんて惨い……」


 雨に濡れた草を踏み分けながら、二人は並んで進む。話す声は低く微かだが、互いの胸の奥に届く温かみを帯びていた。


「わたしも捻り潰されるところでしたが、命からがら逃げ延びてきたのです」

「カエル様も……大変な思いをされていたのに、わたくしを救ってくださったのですか」

「だって放っておけないでしょう。しかし……その()()()()というのは何とも、おかしな感じだ」

「申し訳ございません、なんとお呼びいたしましょう。ああ、まずは……わたくしが名乗るべきですね。メルティナと申します。今は憚られる名ですので、幼名のメルンとお呼びください」

「メルンですね、承知しました。わたしは……訳あって本名を名乗るわけにはいきませんが、アズとお呼びください」

「アズ様――」


 呼び名を交わした瞬間、ふたりの間に確かな絆が芽生えた。夜の闇が少しやわらぎ、互いの存在が道を照らす灯火のように感じられる。

 元聖女メルンと青ガエルのアズ。二人は手を取り合って、幾日も歩いた。

 メルンの足が傷だらけになれば、アズは痛み止めの実を取ってきて、塗り薬を作ってくれる。

 太陽がかんかんに照って、アズの体を干からびさせてしまう時は、メルンが濡れた布でくるんで懐に匿った。


 休憩のため、足を止めた時のこと。

 アズはぴょんと先回りし、メルンの座る場所の落ち葉や小枝を、前足でせっせと払ってくれた。

 人間なら手巾を広げる場面だが、彼にできるのはこれだけ――。それでも真剣な様子で「どうぞ」と席を進める姿に、思わずメルンの口元もほころぶ。

 先の見えない逃亡の道ではあったが、メルンの不安は不思議と薄れていた。ずっと孤独な死に戻りを繰り返してきただけに、アズの存在が心の拠り所になるのに、そう時間はかからなかった。


 ***


「アズ様。今からわたくしは寝言を申します。お返事はいただかなくても構いません」


 さやかな月明かりの晩。岩場を渡る風が、遠くのフクロウの声を連れてくる。静かな夜だった。


「わたくしはあなたが、ただのカエルには思えません。昔、おとぎ話で読んだことがあります。悪い魔法使いに、カエルの姿へ変えられた人間のお話を。もしかして……アズ様もそのような魔法をかけられているのではありませんか」


 岩陰で不寝番をしていたアズは、メルンの肩までやってきて、考え込むように目を細めた。そういった仕草の一つ一つが人間らしく、メルンの確信は深まる。


「もし、そうなら……わたくしでお力になれることはございませんか。これでも、元聖女でございますから、呪いに対抗する光気(こうき)は備えております」

「メルン」

「アズ様に助けていただいたご恩をお返ししたいんです」


 ケロケロ……と喉を震わせ、アズが微笑んだ。


「とても大きな寝言だ。ありがとう、メルン。お気持ちだけで十分です」

「アズ様……。それでは、やはりあなたは……」

「ええ、人間です。だけどその……」


 そこから先の言葉を探すように、アズは口をもごもごと動かす。沈黙が夜に溶け、遠くのフクロウの声だけがやけに響いた。


「わたしにかかった魔法を解くには、愛するひとの、く……」

「く?」


 メルンが清らかな瞳で覗き込むと、アズはますます居心地悪そうに身をすくめた。


「く、くちづけが必要なんですっ……ああ、こんなことを打ち明けるだなんて、恥ずかしい」

「まぁ……それでは、わたくしではお役に立てませんわね」


 メルンの答えがあまりにも淡々としていたので、アズはしゅんと肩を落とした。


「そうでしょう? いくらお優しいあなたでも、わたしのようなカエルにくちづけなど、できるわけがありません」

「いいえ、そうではなく……。愛するひとと仰るのなら、わたくしはアズ様の魔法を解く相手として、ふさわしくないと言っているのです」

「そんなことはありません!」


 アズはぴょこぴょこと飛び跳ねて、抗議する。


「わたしは、メルンにこの上なく惹かれている。あなたからくちづけをいただけたなら、きっとこの呪いは解けると確信して……はっ!」


 勢いで告白してしまったことに気付いて、アズはいたたまれなくなり、今度はぎゅうっと体を縮こめた。青い体が赤くなり、ぽっぽと湯気が立ってもおかしくない照れようだ。

 肩で縮こまる青ガエルの愛らしいこと。メルン……メルティナはこれまでにない温かさを胸に覚えた。

 くちづけに見ていた夢や憧れは、ルーヴェントに砕かれた。だがもし、アズとこの先もずっと一緒にいられたなら、もう一度……夢を見直せるかもしれない。そんな希望が湧いてくるようだった。


「わたくしで、本当によろしいのでしたら……」


 差し出された手のひらで、アズは跪くようにしてメルンをまっすぐ見つめる。


「あなたが……メルンがいいのです! 生涯をかけて、あなたを守り、慈しみ、愛すると誓います!」

「……では、アズ様。目を、閉じてください」

「はっ、はい! よろしくっ、お願いします……!」


 今度は気をつけをするように、アズは硬直してしまった。

 そっと手を引き寄せて、メルンも瞳を閉じる。次に目を開けた時、そこにどんな人物がいるのだろう――淡い夢を見ながら、唇を寄せた。


 その時。



「ようやく見つけた」



 若い男の、冷たい声が響いた。同時に、風を切る音が耳を掠める。

 はっとして目を開くより早く、胸に鋭い痛みが走ってメルンは声を上げた。胸に手をやると、指の間をぬるりとした血がこぼれ落ちる。

 月明かりに照らされ、襲撃者の手にした剣が眩く光る。あの切先がメルンの胸を掠めたのだ。


「アズ様……。アズ様、ご無事ですか」


 手の中を見ると、青ガエルはすでに事切れていた。さっきまで、あんなに人間らしい身振り手振りで動いていたのに、無惨に両断された死骸が横たわるだけだ。


「いや……いやです、アズ様。嘘だと言ってください!」


 亡骸を胸に抱く。斬られた傷も痛んだが、胸のもっと深いところが、抉られたかのように痛い。


 ジャリ……小石を踏み締め、カエルを斬った男が目の前に迫る。

 メルンと変わらない年頃の青年だ。ザンドリスではあまり見かけない黒髪の奥で、金色の瞳が月光を弾く。


「娘――貴様、ナィナの加護を受けているな」


 視線と声に、一片の温かみもない。

 メルンの手からアズの亡骸を奪うと、青年は手の中に炎を生み出した。真っ青な炎に曝されて、カエルは骨も残さず、この世から消えてしまった。


「わたしを葬るため、古の獣に縋ろうとしたのか? 涙ぐましい努力だ。そして――無駄な足掻きだったな」


 この青年が、アズを狙っていた魔法使いだったのだとメルンが理解した刹那、青い炎に身を包まれた。


「ああっ」

「貴様に恨みはないが、後顧の憂いは断っておくとしよう」


 炎に巻かれ……風の音も、フクロウの声も消えた。熱気で空気が揺らぎ、青年の輪郭が溶けるように滲む。

 呼吸をしようとしても、肺に入るのは熱い鉄を溶かしたような息だけだった。痛みも感じなくなる熱さの中、青年の声だけが冷たく耳に残った――。


……

……


 溶けた視界が暗転し、薄れた意識を引き上げられる。

 爪先を飾る白薔薇のコサージュが、真っ先に目に映った。


「水晶宮の聖女メルティナよ。聖女の務めを欠き、神獣ナィナを蔑ろにし、その身を患わせた罪は重い――」


 マルケスの、でっぷりとした腹が揺れる。そして続くは十一度目となる、あの言葉。


「聖女の位を剥奪し、辺境への追放を命ずる――!」


 メルティナは短い息を吐き、胸を押さえつけた。もう痛みはなかったが、恐ろしい体験に体の震えが止まらない。


「あぁ……そんなっ……」


 その場にくずおれ涙する聖女を、哀れに思った女官たちがそっと支える。誰の目にも、突然の断罪に心を打ち砕かれて泣いているように見えた。

 だがメルティナはこの時、今までとは違う絶望を味わっていた。アズがいない。それだけで、本当に一人ぼっちになってしまったような、強い喪失感が心を苛んだ。


 しかし、時はメルティナを放っておいてはくれない。

 マルケスのことだ。このまま泣き続けていても、出立を遅らせることはないだろう。着の身着のまま、〈追放〉用の馬車に押し込まれるだけだ。


 メルティナは涙を拭い、颯爽と水晶宮へ向かう。

 神獣は変わらず、「くるる」と喉を鳴らして彼女を出迎えた。いつものようにメルティナをそばへ引き寄せると、しきりに匂いを嗅ぐ。心なしか、普段よりも念入りに頭をこすりつけるように感じられた。

 よほど気に入る匂いがしたのか、ナィナはメルティナの手をぺろりと舐めた。そこにはもうアズはいないのに、くすぐったそうにケロケロ……と鳴く声が聞こえて、メルティナは胸を締め付けられる。


「この数日、とても幸せな夢を見ていたのです……。ナィナ様を古の獣と呼ぶ、黒き魔法使いに夢から醒めさせられるまで」


 ナィナが低く唸る。軽々しく獣と口にしたことを謝りながら、メルティナは喉元を優しく撫でた。


「また同じ夢を見ることはできるでしょうか。わたくしを守ってくださったあの方を、わたくしの手でお救いすることはできないのでしょうか」


 くるる……と喉を鳴らし、ナィナは鱗と体毛に覆われた長い尻尾で、メルティナを抱きしめた。

 大丈夫、行ってこい――そう告げるような瞳に、背中を押され、水晶宮をあとにする。

 もう一度、アズと出会えたなら……。いつもなら憂鬱なはずの馬車の道のりに、今夜は少しだけ期待を持って立ち向かえた。


 しかしその晩、雨が降ることはなく、メルティナはルーヴェントに連れられ、グランフィルドへと到ったのだった。



 ***



 十一度目の生で、アズに会うことは叶わなかった。代わりに耳にしたのは、北方大陸の大国を治める若き皇帝の噂だ。

 ザンドリスやグランフィルドとは海を隔てて、遥か遠くに存在する北方大陸は、数百年前まで魔族が跋扈していた地と伝えられている。帝国の血筋には今もなお、魔の片鱗を宿す者がいるのでは……とまことしやかに囁かれ、恐れられてきた。

 その地に君臨する若き皇帝は、黒き髪に金の瞳を持ち、帝位継承の椅子に名を連ねる面々を残らず手にかけて玉座に収まった――と専らの噂だった。


(あの魔法使いだ――わたくしとアズ様を襲った、あの男……)


 冷たい金の眼差しと声が、胸を貫いた。

 震える体をシーツでくるみ、目を閉じてアズの無事を祈る。ルーヴェントの纏う沈香の香りが染みつき、息が詰まった。

 アズとの出会いは本当に夢だったのではないか。そう思えるような、出口のない夜の中で――それでも、祈らずにはいられなかった……。


 十二度目の生も、アズは現れなかった。

 だがメルティナは希望を捨てず、青ガエルとの再会を夢見て、日々を紡いだ。

 言葉と態度を甘くも辛くも使い分け、ルーヴェントを操ることに成功すると、やがて心と裏腹に、グランフィルドの王妃の座に収まった。そしてメルティナはついに、悲願であったマルケスとルーヴェントの告発を叶える。

 以後、天寿を全うするまで、穏やかな時を過ごしたが、青いカエルにだけは出会えなかった。


「アズ様……」


 息を引き取る間際、皺だらけの指先で窓硝子を濡らす雨粒をなぞる。そこに青い影が飛びついてくるのを夢見ながら、そっと瞼を閉じた――。



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