Scene5〈本当の愛を知った聖女は、もう死に戻らない〉前
「……ところで、アズ……じゃない……陛下。コイツ、どうしてやります?」
アルベリオスが、長い旅の話をメルティナに聞かせ終えたところで、ラキァが口を挟んだ。その手は汚いものを摘まむように、ルーヴェントの襟首を掴んでいる。
ルーヴェントには全く抵抗する様子がなく、されるがままだ。青い瞳は虚空を見つめ、もはやメルティナを見てはいない。魂が抜けてしまったかのようだ。
「ベルネルに邪念を食い尽くされた結果、残ったものが何もないとは……哀れだな。同行者とともに、わたしが直々にグランフィルドへ送り返そう」
「お待ちください、陛下。その前に、一度……あの者と話をさせてください」
アルベリオスの眉が顰められる。無理はない。メルティナの体はまだ、ルーヴェントの姿を目にしただけで、痛々しく震えている。
本当は今すぐ彼女の視界から消してやりたかったが、アルベリオスは堪えた。恐怖を押してまで選んだメルティナの意志を支えるように、震える体を抱き寄せた。
その温もりに勇気づけられ、メルティナは口を開く。
「わたくしの侍女、シーラはどこです?」
「……七番街……の、ロブドーという宿に……」
「娼館紛いの営業をしていると、疑いのある安宿か」
アルベリオスのため息は深い。
目立たない場所にあるはずだが、後ろ暗い者同士引き寄せられてしまうだとしたら、皮肉なものだ。
「早くに取り締まっておくべきだったな。しかし今は、侍女の救出が先だ。アルバ、隊を編成してロブドーへ急げ」
「は!」
アルバと呼ばれた、鎧に隊長格の印を付けた女が、衛士の一部を引き連れて走り去った。
「メルン。話はこれで十分ですか? もう休まれたほうがいい」
「待ってください……最後に」
メルティナは、アルベリオスの腕をそっと離し、自ら一歩を踏み出した。
顔はまだ強張っていたが、それでも背筋を伸ばして真っ直ぐにルーヴェントを見下ろす。
「ルーヴェント殿下。国にお戻りになられましたら、あなたに囚われているすべての女性を解放してください」
「はい……女神様の仰せのままに」
「そして、これだけは覚えていてください。あなたの犯した罪は、許されない――許しません」
「命に代えても償いますぅぅ……」
虚ろな瞳で、うわごとのようにルーヴェントが漏らす言葉に、メルティナは厳しい表情を崩さない。
「償えません。たとえ、あなたに相応の報いが訪れようと、傷が癒えることはないのです。さようなら、殿下。もうお会いすることはないでしょう」
ラキァが無言で、ルーヴェントを引き下がらせる。
縄を掛けられ、ナィナの巨影のそばへと移されたその姿を、メルティナは二度と振り返らなかった。
「……では、わたしはそろそろ行きます。ヴァルたちも心配だ」
アルベリオスがそう短く告げると、ナィナは返事の代わりに、長い尻尾でアルベリオスを背に抱え上げた。
次いで、爪の先で掴んだルーヴェントらを、まるで塵芥でも払うように投げ上げる。
「交渉は難航が予想されますが、必ず戻ります。待っていてください」
「くれぐれも、お気をつけて。ナィナ様も」
ナィナはいつもそうしていたように、メルティナの脇腹に、そっと鼻面を寄せる。白銀の毛並みが触れた刹那、あたたかな光がメルティナの胸に静かに満ちた。
そうしてアルベリオスとナィナは、光の速さで北の空を飛び立った。
※※※
しばらくの後、アルバ隊が戻ってきた。
隊列の中に、小柄な侍女の姿がある。シーラだ。
憔悴した様子はあれど怪我は見当たらず、呼びかけにもしっかり応じられている。
アルバの報告によると、ルーヴェントはシーラにも手を出すつもりでいたようだ。しかし、彼女が月のものの只中とわかるや、宿の一室に押し込めて寄り付かなくなったという。
シーラはメルティナのそばまで来ると、床に額を擦り付けた。
「申し訳ございませんでした……。わたしのせいで……」
「シーラ、どんなに恐ろしかったことか……。いいのよ。顔を上げて」
「合わせる顔がありません……。主人は誰だと問い詰められて、メルティナ様のお名前を明かしてしまいました。おつかいだってできず、わたしは侍女失格です……」
どうぞ首を刎ねてください――と、うなじを晒すシーラに、ラキァが縋り付く。
「あなたのせいじゃない! わたしも一緒に行けばよかったのに! ごめんね、シーラ……」
ついた傷はシーラ一人だけのものでなく、深く、広がっている。
メルティナはゆっくりと膝をつき、シーラの肩を抱いた。
「シーラ。お菓子作りは得意?」
「え……?」
戸惑うシーラに、メルティナは微笑みかける。
「あなたの帰りを、お茶を用意して待っていたの。あとは焼き菓子があれば、いいのだけれど」
「チットテッタの味に、及ぶはずがありません……」
「いいのですよ。あなたがお菓子を持って帰ってきてくれるなら、それで」
「……心を込めて、お作りいたしますっ……」
誰の胸にも、消えない痛みと影は残る。
それでも人は、残された力で日常へ帰る道を探し続ける。そこに、取り合える手があることは、立ち上がろうとする者にとって、大きな救いとなるに違いない。
その後、ザンドリスとの調停が成り、アルベリオスとヴァルら使節団がタルヴァニアに帰国したのは、すっかり雪が降り込めてからだった。
◇ ◇ ◇
「きん……と冴えた空気を吸うと、ああ帰ってきたなぁ! って気がするよ」
帰城した時は鼻の頭を赤くして、歯を打ち鳴らしていたヴァルだが、暖炉の前に立つなり凍っていた口が溶け出したようだ。
報せを受けてから、自室に火を入れて待っていた甲斐がある――メルティナの口許も思わず綻んだ。
ヴァルはザンドリスでの顛末を、アルベリオスに先んじて語る。
「リオネッタ王女が、力を貸してくれたんです。マルケスとルーヴェントの、裏取引の証拠まで見つけ出してくれてね」
ヴァルが嬉々と語るザンドリスの変化の兆しに、メルティナは耳を疑うばかりだった。
「おかげで、メルティナ様を保護した正当性を主張できました。そればかりでなく、マルケスの権威を抑えられたことで、厳冬対策の支援も滞りなく進められました。もうマルケスは、アズに頭が上がりませんよ。よかったね、メルティナ様」
「そして、ルーヴェントですが。グランフィルド王家は、廃嫡を決めたそうです。今後は、修道院に送られると聞きました」
メルティナは静かに頷く。
「それから、聖獣ナィナは――」
役目を終えた水晶宮と黒曜宮は取り壊し、新しくナィナの座所が築かれるという。それぞれの宮に仕えた聖女や見習い、女官たちのほとんどは、新しい座所での務めを望んだそうだ。そうでない者は、故郷へ帰るという。
「ナィナにも、タルヴァニアへ戻らないかと誘ったものの、神獣なりにザンドリスへの愛着もあるらしく――。昼は座所でゆったりと過ごし、夜は破邪の光となって、夜空を駆け回るのだそうです」
「ふふ。陛下はすっかり、ナィナ様とお心を通わせられたのですね」
「あなたに会いにくるとも仰っていましたよ」
「まぁ、それは楽しみです」
ラキァの淹れた茶を飲み、シーラが焼いた菓子をつまみながら、三人は語らった。
降り積もる雪は外の音を包み込み、暖炉の薪が爆ぜる音と笑い声とを、和やかに響かせる。
ザンドリスでの出来事に始まり、旅の途中の些細な失敗談や、ヴァルの大袈裟な武勇伝まで、話題は尽きることがなかった。
いつの間にか茶は二度も差し替えられ、菓子皿も空になっている。部屋には微睡みたくなる暖かさと、穏やかな静けさが満ちていた。
「さて、と……。長旅で疲れたし、僕はそろそろお暇しましょうかね。お二人は、どうぞごゆっくり。まだまだ夜は長いでしょう?」
ヴァルの軽口に、アルベリオスは飲んでいた茶を吹き出した。すかさず、ラキァが布巾を手に駆け寄る。
口調は軽くも、所作だけは武人らしいきびきびさで、ヴァルは退室した。布巾を片しにラキァの気配も遠ざかると、アルベリオスはどこかそわそわし始めた。
「では、わたしもそろそろ――」
「どちらへ? まだ、お休みにならないのですか?」
メルティナの柔らかで気遣わしげな声を、アルベリオスは拒めない。立ち上がりかけていた姿勢のまま、ぎこちなく目を逸らす。
「いえ、その……ずっと離れていて、やっと二人きりになれたのは嬉しいのですが……。反面、歯止めもきかなそうで」
慈しむと言った口で、本音を漏らす情けなさに、アルベリオスは自分に落胆した。メルティナは、その肩にそっと触れ、頬を染める。
「わたくしは……お言いつけの通り、寝所を暖めて、お待ちしておりました」
「あっ、あれは――! 本気で言ったのではなく、そのほうが男らしいかと思って……ああ、もうっ……!」
たまらず、メルティナは小さく吹き出した。
ふいに暖炉の火がぱちりと爆ぜて、一拍の静けさが部屋に落ちる。視線を交わせば、もう言葉はいらなかった。
断罪の場から救い出してくれた時と同じように、軽々と抱き上げられる。あの時の不安や恐怖は、メルティナにはもうなかった。
アルベリオスの肩にそっと腕を回し、温もりに包まれながら、くちづけを受け入れた。




