Scene3〈千年ぶりの再会〉オリアンド
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「メルティナ様! ご無事ですか、メルティナ様! お願い……返事をして!」
迷宮の外では、ラキァが喉を裂かんばかりに叫んでいた。
衛士たちも剣を構えて迷宮に立ち向かうが、堅牢な壁は心を閉ざすかのように彼らを拒む。
ザンドリスにいるアルベリオスに、危急の報せは届いた頃合いだろう。しかし、戻ってくるのはいつになるか……メルティナの救出が急がれた。
半刻ほど経った頃、突如として地面が震え始めた。
水晶の迷宮が渇いた声で鳴き出すのに合わせ、いくつもの亀裂が走る。薄氷が剥がれるように、一部が欠けてからは早かった。
激しい音と、池の水を跳ね上げて、迷宮は一気に崩落した。
大小様々な水晶の欠片が山となり、皆の心に絶望を降り積もらせる。
メルティナを呼ぶラキァの声が、悲痛な叫びとなって蓮池に木霊した。
すると……
崩落の中心から、黒い影が身を起こした。
ラキァが安堵の息をつく間もなく、それはぬらりと立ち上がり、人々を見下ろした。
「あ、あれは……!」
どす黒い巨大なカエルのような生き物を見上げる横顔が、凍りつく。
「ベルネルが……」
「ベルネルが蘇ってしまった!!」
悪夢の再来に、恐怖を孕んだざわめきが駆け抜けた。
ベルネルは不気味に首を動かして、その様子に酔いしれていた。人々の恐怖は、彼にとって甘美なもの――じわじわと力が満ちていく。
ふと、陰気に濁った瞳が、一人の男に向けられた。
「醜い欲と、底なしの執念……。好ましい、旨そうだ」
ルーヴェントを見据え、ぺたり……と前足を踏み出す。
「な、なんだ……? やめろ……来るな……!」
後ずさるルーヴェントに、ベルネルの舌が絡みついた。
舌で締め上げられた体が痙攣する。雑巾でも絞るようにぎりぎりと捻られた体から、黒いものがベルネルの喉の奥へ滴り落ちていく。
白目を剥いて気絶したルーヴェントを放り捨てると、ベルネルはゲフッと汚い息を漏らした。
衛士たちは武器を握る手も震え、折れかけの心をどうにかして立っているのでやっとだ。
ベルネルは彼らを嘲笑うように、舌なめずりする。
「今度こそ、北の大地を戴く王となる。我を封じし不敬なる民どもよ――王の糧となる誇りを噛み締めながら、散るといい」
冷酷で卑しい声が降り注ぐ。
ラキァの頭上を深い闇が覆った。足が動かず、襲いくる絶望を、ただ見上げていることしかできない。開いたままの口からは、もう声も絞れなかった。
終わった――。
ラキァが死を覚悟した瞬間だった。
空が裂けたように、光を放った。
雷ではない。
陽光とも違う。純然たる、光の根源とも言える眩い何かが、輝いている。
天を割るように現れたそれは、闇を払う光で地上を照らした。
白銀の鱗と体毛が煌めく美しい生き物は、額に水晶の角を煌めかせ、降臨する。
その背には、一人の男がいた。
漆黒の髪に、金色の瞳を持つ、若き皇帝アルベリオスだ。
アルベリオスは変わり果てた蓮池と、復活してしまった災厄を前に、苦々しく唇を噛み締める。
次の瞬間には、込み上げる憎悪を押し込め、静かに息を吐いた。
「……ベルネル。この地を二度と穢させはしない。今こそ、千年の因縁に決着をつけよう」
その声音は、氷より鋭く、炎よりも熱いものを秘めている。
崩壊しかけた兵たちの心を、一瞬で立ち返らせた。
士気を高め、剣を構え直す衛士たちを、ベルネルは舐めるように見回した。少しの怯みも見せず、喉の奥を震わせる。
ぐちゅり、と粘性を帯びた音がして、口の端から黒く濁った液体が垂れた。
「来るぞ!」
アルベリオスの声に、重装兵が盾を掲げる。
一拍の間も置かずして、ベルネルの口から、球状の液体が弾丸のように吐き出された。
地面にべたりと音を立てて着弾した液体が、飛び散る。煙が上がり、地面が泡立ちながら溶けて、抉れていく。
酸だ――! 次々に声が上がった。
盾をも貫く無慈悲な雨に、再び統率が乱れ始める。
アルベリオスには覚えのある光景だった。
「魔力を練り上げよ! 防壁を築くのだ!」
魔法使いたちが一斉に詠唱を重ねる。
幾重にも展開された防壁が、腐食する液体を受け止めては、ジュウ……、ジュウ……と音を立てて耐えた。
防壁に守られながら、アルベリオスがベルネルの前へ踏み出した。
右手には剣、左手には魔力を込めて――一撃、二撃、ベルネルの体表を穿つ。
しかし、強靭な皮膚には、かすり傷もつかない。
「なまぬるい」
脆弱な人間を嘲り、化け物は口の端を持ち上げる。
「だが……その美しき肉体は、我が器にふさわしい」
次の瞬間、空気が歪んだ。
来る――アルベリオスは総毛立ちながらも、構えを解かずに迎え打つ姿勢を取った。
「アズ! 踏み込みすぎてはだめ!」
ラキァの声が空気を裂いた。
ベルネルの影が不自然に伸びて、アルベリオスの足元で蠢くのを、彼女は指差す。
囚われれば、肉体を奪われる。恐怖に足を竦ませるラキァの目に、アルベリオスの横顔は不思議なほど落ち着いて映った。
「……同じ手は食わない」
アルベリオスの声が、揺るがず響く。
「わたしには、メルンへの想いとナィナの加護がある!」
掲げた剣が陽の光を眩く弾き、ベルネルの双眸を刺した。
次に目を開いた時、その視界は白く染められていた――ナィナの巨躯が、ベルネルを地に縫い付けるように、覆い被さっていたのだ。
ベルネルの眼前で、ナィナの顎が開かれる。それはあまりに巨大すぎて、ベルネルも瞬時に口だとは思えなかった。まるで、空に生まれた裂け目のようだ。
上下に並んだ煌めく牙の奥は、闇だった。
ベルネルの好む、混沌を煮詰めた昏さはなく、光さえも飲み込み――すべてをただの「無」へと帰す、空洞が待ち構えている。
ナィナは大口を開けて、ベルネルを舌の上に押し込む。
「――ッ!」
その時になって初めて、ベルネルの声が震えた。……が、言葉になる前に途切れ、ナィナの口は無情に閉ざされる。
勝敗は一瞬の出来事だった。
ゴクッ――。
ナィナの喉元の毛並みが蠢く。
それだけだ。
食道を下るにつれ、ベルネルの断末魔は、低く、遠く、くぐもっていく。
それは消化であり、同時に浄化だった。
やがて、ベルネルの気配が完全に断たれると、ナィナは満足そうに前足を舐め、その足で頬をこするようにして顔を洗った。




