Scene2〈千年ぶりの再会〉エラリセ
魔力の暴走は、彼女の体力を容赦なく奪った。
逃げ惑うメルティナの足は、次第に痛みも冷たさも感じられなくなっていく。
水晶の地面に踏み出す一歩が、泥濘にはまるように重たく感じられた。
よろけたメルティナの体を、蔦の絡んだ白い柱が支えた。ふと辺りを見ると、等間隔でいくつも似たようなものが並んでいる。
どこかで見た景色だ、とメルティナは曇った意識の端で思った。
振り返れば、崩れ落ちた四阿の影が水晶の壁に飲まれる様子が、遠くに見えた。
「ここは……」
胸に冷たいものが走る。
いつかアルベリオスから、決して足を踏み入れてはならないと、強く告げられた禁域――タルヴァニアを蝕む魔物、ベルネルが封じられた場所へ続く道だ。
そう気付いた瞬間、さっきまでとは別の恐ろしさがメルティナを襲った。
急いで踵を返そうとした、その時だ。
ぐちゅり――と。
粘っこい何かが絡みつく感触が、足首を締め付けた。
「……え?」
視線を落とすと、ぬらぬらした長い舌が足首に巻きついていた。その舌の持ち主は、柱の陰からずるりと姿を現す。
目を背けたくなるほど醜い、巨大なヒキガエルだ。
膨れ上がった腹に、潰れた顔貌、どす黒く、生臭い皮膚――。
醜悪さもさることながら、臭気をもって漂う禍々しさが、メルティナの胃の腑を強張らせる。
ヒキガエルの化け物が、舌を手繰り寄せるようにして、近づいてくる。
ず、ずず、ず……。
メルティナが足をばたつかせるのを嘲笑うように、低い嗤い声が漏れた。
「忌々しい古の獣の匂いを宿した娘……しかし、なんと脆弱なことか」
醜く、汚い声だった。
しかしその芯にある冷たい響きに、メルティナは聞き覚えがあった。
冷たい声とともに蘇る、青い炎の記憶――。あの夜、青ガエルのアズとともに命を断たれた時の光景が、全身を灼いて息ができなくなる。
あの時、青ガエルのアズと彼女を葬った者は、確かにアルベリオスの姿をしていた。
しかし、メルティナは直感した。
これこそが、その正体――そして建国史に刻まれた災厄の魔物、ベルネルだと。
認識した瞬間、メルティナは胸の奥が凍りついた。
メルティナの暴走が蓮池を崩壊へ導いたために、封印が解けてしまったのだと思い至るのは、容易かった。
後悔と恐怖にすくみ上がるメルティナのすぐそばまで、ベルネルの足が迫る。
恐怖が喉を詰まらせた。
足首を引っ張られた拍子に、メルティナは固く目を閉じて祈る。
逃げたいという衝動に呼応して、メルティナの体から光が噴き上がった。わずかに残った魔力も、光気に至るまでもが、彼女を守ろうと燃え上がる。
「グァッ……!」
眩い閃光が迷宮全体を照らし、ベルネルがたじろいだ。だが、それは一瞬に過ぎなかった。
ベルネルの闇を焼き尽くすより早く、メルティナの体が限界を迎えてしまう。
魔力も光気も枯れ果て、膝から崩れ落ちたメルティナを見下ろして、ベルネルの濁った目が細められた。
「ほう……そうか。貴様、エラリセ……」
「な、に……?」
まるで失われた宝を見つけたかのように、ヒキガエルは身を震わせる。
「勝機は我がもとに立ち返った。今こそ、果たせなかった祝言を――。喜べ、エラリセ。今生こそ、タルの覇道を極めし者の妻となる喜びを、貴様に与えてやれるぞ」
歪な慈しみを込めた声が、ねっとりと絡みついた。ぞっとする響きに、メルティナは指先まで恐怖に冒される。しかしもう、体が全く動かない。
ベルネルは舌を再び伸ばすと、拒む力すら残されていないメルティナを、抱えるように締めあげた。
「しかし、封印が解けたばかりで力が足りぬ……。まずは力を蓄え、その後で迎えに戻ろう」
あぶくを跳ねさせるように、喉の奥をごぼごぼと鳴らし、ベルネルは舌からねばついた液を滲ませた。
液が糸を引いて、メルティナの肌に滴り落ちる。
すると、メルティナの体はぐんぐんと縮み出し、あっという間に人差し指程度の小ささになってしまった。
ベルネルは小さくなったメルティナを、蓮の花へ押し込んだ。ぶつぶつと呪文を唱えると、花弁はぴたりと重なり合って、メルティナをすっかり閉じ込めてしまった。
花弁が閉じる直前、メルティナは薄れる意識の中で、アズの名を繰り返し呼んでいた。脳裏にはどうしてか、金色の眼差しがぼんやりと浮かぶ。
最後の力で握り合わせた手の中から、小さな置物がころりと転げ落ちた。
意識を失ったメルティナに寄り添うように、光を失ったカエルが静かに横たわっていた。
「――そこで、待っていろ。エラリセよ」
ベルネルは柱の一つに飛び移ると、迷宮の天井を仰ぐ。醜い声をぶつけると、衝撃を喰らわされたように、迷宮が軋んだ。
――ぱき……ばき……ばりん。
乾いた音とともに、水晶の雨が降る。
迷宮の内側から蜘蛛の巣のように亀裂が走り、やがて大きな音を立てて瓦解した。




