Scene 1〈最後の砦〉
「手を差し伸べたご婦人が、あなたの侍女とお聞きして、初めは半信半疑でしたが……」
男がゆるやかに振り返ると、金糸を編んだような髪が、陽光を受けて煌めいた。
女人と見紛う面差しは微笑に綻び、人ならざる美しさを孕んで、妖しく映えた。
「その麗しいお姿……一度見たら忘れるはずがない。ザンドリスの聖女メルティナ様――ああ、こうしてまみえるなんて、天の巡り合わせと言えましょう」
彼は、うっとりとした目の端に涙さえ滲ませて、恭しく膝をつく。声音の柔らかさとは裏腹に、メルティナの背筋を這い上がるものは寒気だった。
窺うように顔を上げた男と、視線が絡む。思わず後ずさった拍子に、水晶の蓮葉に踵が触れ、メルティナはびくりと身を震わせた。
鼻腔をくすぐるのは、かつての悪夢を呼び起こす沈香の香り――肌には消し去れない怖気が纏わりついた。
※※※
ルーヴェントから皇帝との謁見を求める、再三に渡る文が届いたのは、城下に出たまま帰らない侍女のシーラを探している時だった。
そこには、メルティナの救済を訴える、いつもの書面に加えて、シーラを保護しているとも記されていた。
聖女への執念を捨てられず、タルヴァニアへ乗り込んできたルーヴェントが、熱病で倒れた女をたまたま介抱したという。それが、宮殿勤めの侍女を名乗るシーラだったそうだ。
逗留先まで遣いをやると返せば、シーラの容体が芳しくなく動かすのは憚られる……と、新たに文を書いて寄越す。
外聞も捨てて頑として引かず、状況を伝えるために城を訪ねたいの一点張りだった。
アルベリオスの不在を狙ったかのような、この不測の事態に、留守を預かる側近たちは誰一人として彼に屈さず、メルティナを守る姿勢を貫いた。
しかし、それを押してルーヴェントとの面会を許したのは、あろうことかメルティナ自身であった。
『交渉が長引くほど、シーラの身が危険に曝されます』
そう発言したメルティナは、自分のことのように怯え、震えていた。
それでも恐怖心を押し殺して、交渉の場に自ら立つことを望んだ。すべては、シーラを一刻も早く救い出すために。
※※※
アルベリオスに代わる交渉に際して、一つだけ提示した条件は、屋外での面会であることだ。彼と同じ部屋の空気を吸わされるのは、どうしても耐えられなかった。
逃げ場を求め庭園で対峙したのだが、ルーヴェントを目の当たりにするだけで、蓮池を渡る清涼な風すらメルティナには息苦しく感じられた。
目の前の男は、あの夜と同じように微笑みを傾ける。
礼を尽くした仕草の裏に、獲物を嬲る捕食者の牙が見え隠れしていた。
「少しやつれましたか? やはり、北方の風は合わないのでしょう。グランフィルドならば、ザンドリスと隣り合わせ。気候も肌に馴染むことと思われます」
ルーヴェントは、言外にグランフィルドへの同行を含める。メルティナに救いの手を差し伸べているつもりなのだ。
メルティナは震え上がる息を飲み干して、爪先に力を入れる。
「お初にお目にかかります、ルーヴェント殿下……。侍女の保護と、わたくしの追放に際しましては、お心を砕いてくださりありがとうございます」
メルティナの凛とした静かな声に、ルーヴェントが感嘆の息を吐いた。
うっとりと目を細め、頬まで染める姿には邪悪な欠片も感じられない。
「ああ、失礼――実はわたしは以前に、ザンドリスの式典でメルティナ様のお姿を拝見しているのです。お恥ずかしい話ですが……一目惚れでした」
ぞくり、とメルティナの背筋に冷たいものが這う。
初めて会った夜と同じ純情な顔で、同じように甘い言葉を吐く。これに、二度と騙されたりはしない。
メルティナの耳を、彼の言葉がすり抜けていく。
「マルケス王が、あなたを罪に問うたと聞いた時は、絶望いたしました。しかし、同時に好機だとも思った。こんなことを口にしたら、失望されるかもしれませんが……」
もうこれ以上、失望するところなどない。滑稽な一人芝居を観ている気分がした。
「あなたを救い出したいと願う心の奥で本当は……ただメルティナ様にわたしの隣にいてほしかっただけなんです。この意味が、わかりますよね?」
ついにはため息まで殺して、メルティナは開きたくもない口を開いた。
「繰り返し、わたくしは救済を望まないとお応えしたはずです。それよりも、侍女はいつお返しいただけるのでしょうか」
「彼女の病、もしかするとこちらでは癒せないものかもしれません。我が国に熱病の専門医がおりますし、そちらで治療に専念させるのはいかがでしょう。メルティナ様もグランフィルドに来ていただいて……そうすれば彼女も、復帰後にまたあなたのもとで働けるでしょう?」
どこまで身勝手なのか。傍らで聞いているラキァの憤りまで、メルティナは肌に感じられるようだった。
「わたくしはもう、タルヴァニアの皇帝アルベリオスの妻です……心に一人と決めた方がおります。それに、お腹にはすでに子が……」
もちろん、はったりだ。
だがメルティナはもうこれしかないと、胸の音に気付かれないように手を組み合わせる。
ひとつ瞬きする間に、ルーヴェントから笑顔が消えた。視線がメルティナの腹部へと、わずかに移る。
「本当に?」
静かな声だった。しかし、途端に空気が重たくなる。
ルーヴェントはゆっくりと首を傾けた。顔には微笑みが戻るも、視線は笑っていない。人の皮を被った何かが、そこにいるようだ。
冷たい眼差しが、嘘を炙り出そうとメルティナに纏わりつく。
足元から這い上がる寒気に、いつしかメルティナの顔は蒼白を極め、指先は感覚をなくして大きく震えた。
「なんだ、ご冗談ですか。からかわないでください。本当に驚いたじゃありませんか」
ルーヴェントがからりと笑う。
その笑みの奥に滲む狂気が、メルティナをさらに震え上がらせた。
「本当にそうなのでしたら、こんな所にいたらお身体が冷えるのではありませんか?」
一歩進み出るとともに、ルーヴェントの手が伸びる。
「それ以上、寄らないでっ……!」
息が荒れて、声がうまく出せない。だが、メルティナは確かな拒絶を言葉にした。
ルーヴェントの笑みに、冷ややかなものが滲むのは一瞬のことだった。
「わたしはあなたに何かいたしましたか? それとも、何か根も葉もない……わたしを貶めるためだけの噂でも耳にされましたか? わたしを王太子の座から蹴落とそうとする輩は、多いものですから」
「――でしたら、貴国に赴いたとしても、わたくしに安寧は訪れないでしょう。これ以上、お話を重ねても仕方ありません。どうぞ、お引き取りを」
「待って、お願いです!」
ルーヴェントの手が、メルティナの手首を掴んだ。
あの夜――もがくほどに締め上げて、骨が軋んでも離してくれなかった、冷たい手枷だ。
「わたしをみくびらないでいただきたい。愛するあなたを、誰にも傷つけさせはしません」
真っ白になったメルティナの頭の中で、ルーヴェントの言葉が反転する。
傷つけていいのはわたしだけ――。
記憶の蓋をこじ開けて溢れ出した悪夢に、メルティナの心は限界を迎えた。
「触らないで……」
「メルティナ様? 恥ずかしがっておられるのですか?」
「わたくしに、触らないで!」
悲鳴のような叫びとともに、空気が震えた。
ぱりん、と乾いた音を立て、メルティナの足元から水面へと光の筋が走る。それは草木の芽吹きに似た勢いで、蓮池に無数の透明な芽を生み出した。
水面を押し上げて顔を出したのは、薄氷のような蓮葉だ。それらは見る間に花開き、人の背丈も越えた巨大な花へ育っていく。
メルティナの足元からも、ルーヴェントとの間に壁を築くように、水晶の蓮葉が立ち上がった。
「来ないで……」
それでもなおメルティナは、ルーヴェントを恐れ、巨大な蓮花の奥へと逃げ込んだ。
次々と咲いては成長する花弁は、折り重なって絡みあい、出口さえ閉ざしてしまう。
衛士たちが剣を振るうも、まるで歯が立たなかった。
それは、メルティナが築いたものだ。
マホロのもとで、蛍光石の生成を学んでいたこのひと月は、メルティナの魔力を活性化させるには十分だった。
しかし、魔法使いとしての素質はまだ未熟。感情の昂りとともに暴発した魔力を抑えるすべが、メルティナにはなかった。
ルーヴェントから逃れたい一心で築き上げた水晶の群れは、メルティナを守る砦だ。しかし同時に、彼女自身をも閉じ込める迷宮でもあった。
――奥へ。
――彼の手が届かない、もっと奥へ。
恐怖が誘うままに、メルティナは無意識のまま、花茎が柱となった隙間を通り抜けていく。
「メルティナ様、戻って!」
ラキァの声も、厚い水晶に阻まれる。
透き通り、光が溢れる迷宮にいながら、メルティナの心は闇に沈むように重くなっていく。
恐怖を養分にして、蓮葉はぐんぐんと育ち、壁はさらに厚く育った。
やがて、メルティナの姿が外から見えなくなると、一際大きな蓮の花弁が閉じた。
ぱたり、と棺の蓋が落ちるような、渇いた音が響いた。




