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    〈千年の別れ〉後


 タルの地から、遥か南西へ向けて光は伸びた。

 いくつもの文明の芽吹きを見せる大陸の一端で、ようやくナィナを見つけたエラリセは、惨状に膝から崩れ落ちた。


 漆黒に染まったナィナは、昂ぶりを抑えきれず、奔走する。木々を薙ぎ倒し、ヒトを踏み潰しても止まらない。視界に入るものすべてが煩わしく、破壊でもって大地を蹂躙した。

 狂ったナィナが屠るヒトらしきものの臓物が、そこかしこに飛び散り、まるで地獄絵図だった。

 ナィナの吐く息が、凄まじい臭気を伴って吹き付ける。エラリセの擦り切れた衣服にも、霧状になった血が浴びせられた。


「ナィナ様……おやめください。あなたの怒りと悲しみは、エラリセがお受けいたします。だからもう、やめましょう……?」


 ナィナはすでに、荒ぶる魔物だった。エラリセの涙も言葉も届かない。

 角の内側では、聖獣の二つに裂けた心が、鋭い痛みと悲しみをアルベリオスに訴えていた。帰りたい、エラリセと過ごした日々に帰りたい――と。


 ナィナの獰猛な爪の前に、エラリセは死を覚悟した。祈りをたたえて目蓋が伏せられる。

 しかし、いつまで待っても、その時はやって来なかった。


 目を開けば、剣を携えた男が一人、エラリセの前に割り込んで、勇敢にもナィナに立ち向かっていた。

 人間など、指先一本で一薙ぎにできる巨大な魔物に、銅剣ごときで太刀打ちできるはずもない。刀身が砂塵のごとく、儚く砕け散る。

 エラリセと剣士はともに、風圧で弾き飛ばされた。


「名も知らぬ剣士様。どうか、こちらをお使いください」


 エラリセは、光り輝くナィナの角を剣士に捧げた。剣と呼ぶには短く、短剣にしては長い水晶の欠片だ。

 不思議な力を宿した一振りを、剣士はおし戴くと、次にナィナがかかってきた瞬間を狙い、その巨体に飛び移った。漆黒の体毛を掴んで、耳と耳の間まで登り詰める。

 そして、急所となる眉間に、水晶の剣を突き立てた。


 声にならない叫びが、空を突き抜けた。

 額に突き立てられた水晶が、ナィナの不浄を吸い上げる。黒く覆われた鱗と体毛は白へと還り、かつての輝きを取り戻した。


 対して、水晶の角は漆黒に染まり、黒曜石の深い煌めきを宿す。

 すべての澱が吐き出されると、漆黒の切先は額からずるりと抜け落ちた。ナィナは巨体を横たえて、眠りに落ちる。その姿はまるで、眼前の剣士に跪くかのようだった。


 涙ながらに謝意を述べるエラリセに、剣士は自らをレイモンと名乗った。ナィナにより蹂躙されたこの場所に、新たな国を築きたいのだと告げる。

 王としての権威を示すため――そして、信仰の象徴としてナィナを神獣に戴き、水晶の剣とともに祀りたいと申し出た。

 エラリセは、深い眠りについたナィナを北へ連れ帰るのを断念し、レイモンに庇護を求める見返りとして申し出を受け入れた。だが一つだけ、彼に約束させる。


「いつの日か、その()が穢れを(そそ)ぎ、本来の透き通る輝きを取り戻したなら――ナィナ様を北の大地タルヴァニアへお帰しくださると誓ってください。さすれば、わたしはナィナ様の健やかなお目覚めを願いながら、あなた様の治世の繁栄をお祈りいたします」


 レイモンはエラリセの言葉を聞き入れると、荒廃した地にザンドリスの名を与え、王として名乗りを上げた。

 眠る神獣を守るために水晶の檻を――、黒き角を祀るために黒曜石の社を、それぞれ築いた。


 エラリセは時間をかけてナィナの体を清め、目覚めを待った。しかし、その瞳が再び開くのを見ることは叶わなかった。

 レイモンの後継者に後を託すと、エラリセは静かな雨の降る晩に息を引き取った。奇しくも、北の大陸を平定した皇帝もまた、永き眠りについた夜だったという――。



☪︎⋆˚。✩☪︎⋆˚。✩☪︎⋆˚。✩☪︎⋆˚。✩☪︎⋆˚。✩☪︎⋆˚。✩



 ナィナの世話を申しつかった娘たちは、エラリセに倣い、生涯独身を貫いた。白き神獣に仕える清らかな乙女を、人々はいつしか聖女と呼ぶようになる。

 二百年も経つ頃には、檻と社はそれぞれの名を冠した「宮」と呼ばれるまでに造成され、ザンドリスの象徴たる存在になった。


 ナィナが目を覚ましたのは、それからさらに二百年ほどしてからだ。

 目覚めた時、ナィナは真っ先にエラリセの匂いを探した。しかし、どこにも気配がない。

 ナィナはエラリセが会いにきてくれるのを待って、再び目を閉じる。うつらうつらと微睡んでは覚醒を繰り返し、悠久の時を過ごした。

 そして――その日は訪れる。


「まぁ! ナィナ様ってこんなにおおきかったのね! 雪まつりで、お父さんが作ったかまくらより、ずっとずっとおおきいわ!」


 いつもはひっそりと静まり返った寝床に、小鳥の囀りに似た明るい声が響く。ナィナはぱちりと目をしばたたき、頭をもたげた。

 豆粒のように小さな生き物が、足元で飛び跳ねていた。爛々と目を輝かせて、全身を使って力いっぱい飛び跳ねるたびに、月光をたたえた艶やかな髪が揺れる。

 当代の聖女イェリシャが、小さな生き物を抱えるようにして跪かせた。


「これ、メルン。ナィナ様の御前ですよ。幼かろうとも、あなたは立派な聖女の卵なのですから、礼を欠いてはなりません」

「はい、イェリシャ様」


 小さい生き物は、習ったばかりの作法でお辞儀をすると、畏れることなく改めて口を開く。


「はじめまして、ナィナ様! アソンの村から来たメルンともうします! いっぱいお勉強して、早くナィナ様のお世話がしたいです! がんばります、よろしくおねがいします!」


 これは先が思いやられると、イェリシャが嘆息する一方で、ナィナはくるる……と喉を鳴らした。

 エラリセ、と愛おしげに呼ぶ声が、アルベリオスの胸に染み渡った。


 ***


 失われたエラリセとの日々を取り戻し、喜びに心が満たされる一方でナィナは、いずれ再び訪れる彼女との別れを恐れた。

 そして、その日はナィナの思うよりも早く、唐突に訪れる――メルティナの断罪の日だ。


〈わたくしは無実でございます! 至らぬ点があったのなら、ナィナ様の手ずからお裁きを頂戴いたします!〉


 涙しながらも聖女としての誇りを捨てずに訴える彼女を、マルケスの騎士たちは引っ立てるように連れ去った。

 そして日が昇る頃、エラリセの魂が再びこの世から失われたのを察知して、ナィナは声を上げて哭いた。


 エラリセが、今生こそ幸せであるように。

 この日々が続くように。

 あの頃に帰れるように。

 エラリセが得ることの叶わなかった未来が、訪れるように。


 願いとも我儘ともつかぬナィナの慟哭が、時空を震わせた。

 捩れ、生まれた歪みに吸い込まれるような感覚に、アルベリオスは目を閉じる。そして再び視界が開けた時、彼はにわかに信じられないものを目にした。

 ナィナの前には、確かな鼓動と熱を持つメルティナがいた。彼女は涙を溜めた目を泳がせて、狼狽える。背後には騎士たちがいて、抵抗も虚しく水晶宮の外へと連れ出される光景には、既視感があった。


(これは……また記憶を蘇らせているのか? いや、違う……。時を繰り返している!?)


 はっきりと覚ったのは、三度(みたび)同じ光景を目にした時だ。ナィナに別れを告げに来たメルティナが囁く。


〈ああ……また戻ってきてしまったのね……どうしてなの。どうして、わたくしだけ? 誰も気がついていないの?〉


 その言葉に、アルベリオスは愕然とした。


(まさか――! 彼女も、わたしと同じように死に戻ったというのか――!?)


 信じがたくはあったが、そう考えると腑に落ちる点もあった。

 清く慎ましくあるよう育まれたメルティナが、どのようにしてルーヴェントの本性を知ったのか。そして、それをさも目の当たりにしたかのように、ルーヴェントに怯え、忌避していたこと。


(彼女自身が……繰り返し、その身で見知ってきたことなのだとしたら……?)


 例の娼館から救い出した娘たちが、タルヴァニアへ来たばかりの頃の、暗澹たる瞳がアルベリオスの記憶をかすめた。

 ルーヴェントへの憎悪が烈しく爆ぜる。


 そして十度目の生を終えたメルティナと対峙した時、アルベリオスはようやくすべてを理解した。

 アルベリオスがあの晩、メルンに出会っていたように――メルティナもカエルのアズと出会い、終わらぬ生を繰り返しているのだと。


(ああ、やはりベルネルは……あの後、メルンをも手にかけたのか。それも、わたしの体で……! 何ということを!)


 もっと力があったなら、と己の不甲斐なさを悔やむとともに、メルティナの心中を思い涙を堪えきれなかった。


(わたしは彼女を救い出したつもりでいた……カエルのアズだと名乗れなくとも、いつか想いは届くと、そう信じて……。だがメルンにとって、わたしは……非道のベルネルだったのではないか! これまで、わたしがそばに寄るたびに、彼女はどんなに恐ろしかったことだろう)


 メルティナに愛おしげに寄り添うナィナに、アルベリオスは思いを重ねる。


(わたしは、なんと愚かだったんだ。傷つくことを恐れずに、すべてを打ち明けていたなら……。ああ、メルン――わたしはアズです! あの夜にあなたと出会っていなかったら、繰り返す絶望に打ちひしがれ、とうにベルネルに屈していたことでしょう。あなたを思えばこそ、わたしは強くなれた。今すぐ、あなたに会いたい。会って、もう一度思いを告げ直させてほしい!)


 途端に、景色が音もなく傾いた。輪郭が融け、朧げな光となって揺らぐ。

 ナィナに同化していた意識も引き剥がされ、光の渦は彼を(うつつ)へと掬い上げた。



☪︎⋆˚。✩☪︎⋆˚。✩☪︎⋆˚。✩☪︎⋆˚。✩☪︎⋆˚。✩☪︎⋆˚。✩



「――アズ! 大丈夫かい?」


 眩く輝く水晶の床に、見開かれた金の瞳が鮮やかに映り込む。瞬きをした瞬間、肩を支えるヴァルの声を耳が飲み込み、アルベリオスは我に返った。

 悠久の刻を旅してきたかのように感じたアルベリオスだが、実際にはほんの一瞬の出来事だった。

 ナィナは身を伏せた姿勢から、泰然と彼を見つめる。


「古の聖獣ナィナよ。なぜ、わたしに語りかけた。なぜ、メルンを刻の檻に閉じ込める」


 同じく死に戻りあう者同士、そこに救いがあるのかとアルベリオスは問う。すると、ナィナは喉を鳴らした。一度、心を通わせた影響から、再びナィナの心が流れ込んできた。


『オリアンド』


 ナィナはアルベリオスを見つめ、そう繰り返す。


「わたしが……?」


 アルベリオスの問いに、ナィナは大きく喉を鳴らした。


『ナィナ エラリセ オリアンド』


 それらは、ナィナにとって一揃いであることが理想のものだ。

 メルティナを失った時、ナィナはいよいよ孤独を思い知った。次にいつ訪れるかわからない、再びエラリセが生まれ変わってくる時を、水晶宮の奥で待ち続けることに耐えられなかった。

 だから、メルティナに望んだ。オリアンドの魂を持つ者と巡り合い、千年前に止まった刻が動き出して、彼女が報われる時を――。


(なんという執着だ……)


 ひと時でも聖獣と分かり合えたつもりになっていたアルベリオスは、途端に背筋が冷える思いがした。

 ナィナは人間の理のなかに生きていない。

 一方的にやり直しを強要することがいかに残酷であるかを、全く意に介していなかった。ナィナには、エラリセがオリアンドと笑っていてくれれば、それでよかったのだ。


 ナィナの思いを聞き終えて、アルベリオスはしばし沈黙する。

 その思いがいかに歪で、いかに人の理を外れたものであろうとも――聖獣が千年の孤独の果てに願い続けたものは、ただ一つ。エラリセの幸福だった。


(……ナィナ。あなたの願いは尊い……しかし、哀れだ。彼女の真の笑顔を望むのならば、この先はメルティナの意志に委ねるべきだ。もうこれきりで、解放してやってはくれないか)


 静かにそう願うと、ナィナは瞳を伏せ、喉の奥をわずかに震わせた。


『ツノ タル ベルネル ツノ』


 断片のような言葉に、アルベリオスは眉をひそめる。意味は曖昧だが、ナィナが折れた角を求めていることだけは理解できた。

 折れた角――すなわち、黒曜石の剣。黒曜宮に祀られているという、初代国王レイモンを象徴する宝剣だ。

 アルベリオスはマルケスに頭を下げ、黒曜宮の見学を申し出る。だが返ってきたのは、冷ややかな嘲笑だった。


「宝剣は魔を封じる剣。魔の地に住まう皇帝陛下の御身に障りましょうぞ」


 アルベリオスは眉ひとつ動かさず、食ってかかりそうなヴァルを押さえる。冷静に、何か策はないかと沈黙を守っていると――。水晶宮の女官に案内されて、深い緑のドレスを纏った少女が現れた。リオネッタ王女だ。

 燃えるように輝く水晶宮に驚く様子を見せながらも、リオネッタは朗らかに笑んで一礼した。


「失礼いたします。お父様ったら、いつまで皇帝陛下をお独り占めなさるのですか? わたくしも、もっとアルベリオス様とお話がしたいですわ」

「おお、リオネッタ!」


 不要なもてなしを娘に望む父王は、彼女の訪れに喜色を滲ませる。


「アルベリオス様。少し、外の風をお召しになりませんか? 美味しいお茶のご用意もございますの」


 無邪気を装った誘いの奥に、幼い姫の確かな意志が潜んでいるのを、アルベリオスは見出す。

 小さくうなずくと、リオネッタに従って水晶宮を後にした。


 人目を憚るように庭園まで逃れると、リオネッタは恭しく頭を下げて不敬を詫びた。そして、従えた女官の一人を進み出させる。


「陛下、こちらは黒曜宮に仕える聖女見習いにございます。お望みの場所へ、ご案内申し上げます」

「願ってもない申し出だが、マルケス王に知られれば、あなた方もただでは済むまい。なぜ、手を貸してくれるのだ」

「黒曜宮の聖女様が望まれているのです」


 彼女たちの瞳に、決意の光が瞬く。

 ナィナの失われた角――その在り処へと、道が繋がろうとしている確信に、アルベリオスは深く息を吸い、希望を胸に刻んだ。

 その息が終わるより早く、風を裂く羽音が響く。

 蒼い影が空を掠め、一羽の鳥が舞い降りた。吸い込まれるようにアルベリオスの肩に留まった鳥は、切迫した声で鳴く。


「……タルヴァニアにて変事あり! 陛下! 至急……至急、帰城を――!」









最終章へ続く

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