Scene 4〈千年の別れ〉
深淵の底に落ちるような感覚ののち、アルベリオスは目を開いた。
足元に広がっていたはずの水晶の床は消え、清水が満ちる。頭上には青々とした木々が繁り、枝葉の隙間から暖かな陽射しを注がせていた。
その温もりで、水晶が氷のように溶かされてしまったはずもない。清水は、彼の足元から渾々と湧いている。
(なんだ、これは――)
水を搔く手が、自分のものとは違う。
魔法で変えられた、カエルのものとも違う。
硬く分厚い皮膚を、白い鱗と滑らかに濡れた体毛が覆っていた。水を弾き、冷たさを心地いいものへと変える、優美な装備を纏ったその手は、先ほど水晶宮で目にしたナィナのものであった。
(わたしが、神獣の姿になっているのか)
しかし、アルベリオスの思いのままには、その体を動かすことは叶わなかった。
ナィナの体で、目で――その動きを自分のもののように感じているだけに過ぎない。
ナィナは水の中に伏せると、水面を揺らす波紋にじっ……と注視した。
身を低くして、俊敏に飛びかかる。巨体に跳ね上げられた飛沫は樹上にまで届き、再び地へと還るべく落水する。雫は大粒の雨のように、ナィナの頭上へ降り注いだ。
弾ける水音に、ナィナの耳が歓びを感じているのが、アルベリオスにも伝わってきた。口には、捕まえた獲物を噛み締める充足感と、好物を味わう幸福感が満ち満ちる。
ナィナが伸び伸びと風を受けていると――。
「ナィナ様。いらっしゃいますか」
木立の奥から、柔らかな声が響いた。子を探す母にも似た、穏やかな呼びかけで近づいてくる。
途端に、ナィナの尖った三角の耳が、手を挙げて応えを示すように天へと伸びる。水飛沫に戯れるのとは比べようもないほど、ナィナは喜んでいた。
緑の茂みを掻き分けて、声のする方へ駆けていく。ナィナの目にはもう、木々すら映らない。ただ声の主のもとへ一直線だ。
駆け出してすぐに、ナィナの視界を清らかな光が充たした。
「まぁ、ナィナ様からいらしてくださったの? 嬉しいわ」
大きな葉擦れの音に、長く真白な髪を翻して、若い娘が振り返る。そよ風が木々を撫でるように穏やかな声音は、ナィナの耳に心地よく滑り込んだ。
覆い被さって戯れてくるナィナを、娘は破顔して抱き留める。八重歯を覗かせた笑顔は溌剌と光り輝き、草の葉まみれであってさえ、陽射しもかすむほどの光気を放った。
その姿を目にした途端、ナィナ――いや、アルベリオスの胸を、痛みにも似た切なさが強く締め付けた。
(――メルン。彼女は、メルンだ)
なぜ、そう思うのかはわからない。
瞳の形も、鼻の高さもまるで違う。だがそこにいるのはメルティナなのだと、疑いようもなく心はその名を叫んだ。
ヒトの言葉を持たないナィナが、甘えるように喉を震わせる声が、娘に呼びかける。
『エラリセ――』
娘は穏やかに返事をすると、ナィナの額に手を伸ばした。
指先に触れるのは、水晶の如く透き通った、美しい一本の角。エラリセは心を込めて磨くように優しく撫で、瞳を伏せる。
「今日もこの地に、ナィナ様が健やかにおわしますこと――タルの巫女エラリセが感謝申し上げます」
◇ ◇ ◇
人々が、大地に根を下ろして間もない遥か昔――。
北の大地はまだ名を持たず、多くの部族がひしめき合って暮らしていた。
彼らは異なる思想のもと、時に大陸の覇権を争いいがみ合いもしたが、唯一、心を等しくして崇める存在があった。
魔を退ける水晶の角を持った、巨大な竜。
それは竜でありながら、巨大な獅子の如き姿をし、滑らかな被毛と輝く鱗を生やした身体は、白銀に輝いた。
風となって空を駆ける雄大な姿に、人々は大地に満ちる活力と、神の創り出した奇跡を見、その美しさに魅了された。
思想を違える人々が、口を揃えて竜に祈る。
――我らに光をお恵みくださり感謝いたします。
――どうぞ、その身が永久に輝きますように。
――あなた様が健やかにお過ごしになれるよう、大地を決して荒らさぬと誓います。
一頭の竜の存在が、人々の心を束ね、北の地に平穏を願う心を育んだ。
竜の名を知る者はいなかったが、鈴が転がるような鳴き声を模し、人々はそれを聖獣ナィナと呼んだ。
ナィナは決して人と馴れ合う生き物ではなく、また、人が触れていい存在ではなかった。
しかし、ある猛暑の年――換毛がうまくいかず、酷い皮膚病を患ったナィナを、畏れを押して救った者たちがいた。
タルの一族だ。
彼らは豊富な薬の知識と、祈祷による呪術で聖獣の身を清めた。するとナィナは彼らに心を許し、タルの住まいに寝床を築いた。
タルたちは、この出来事をきっかけに、その地位を大きく向上させる。
北の大地はタルを中心に政の礎が布かれ、散在していた集落は次第に、小さな国家の形を取り始めた。
エラリセは、タルの族長の一人娘として生まれ、ナィナの側仕えとして侍る巫女であった。
彼女はタルの中でも人一倍、清らかな光気を放ち、ナィナはその気配に目を細める。
ナィナ自身が彼女を、娘のようにも母のようにも思っているからか、エラリセの姿は不思議と人よりもナィナと近しいものとして映っていた。
かつてこれほど、聖獣が心を許した人間はいない。
そしていつしか囁かれるようになった。
エラリセに愛されし者は、聖獣の目に適いし者。それ即ち、北の大地を統べるにふさわしき者であると――。
男も女も、こぞってエラリセの愛を求めた。
海底に咲く花を携えてやってきた者、毒の炎を吐く怪鳥を仕留めてやってきた者、百万の物語を世界中から集めてきた者。皆、ナィナの加護を欲したが、ことごとく唸り声で一蹴されるのが落ちだった。
しかし昨年、とうとう変化が訪れる。
どんな勇者も猛者も知の者も、宝でさえも、動かすことの叶わなかったエラリセの心を射止める男が現れたのだ。
「エラリセ。祝言の日取りのことで、お父上がお呼びだ」
「オリアンド」
茂みを掻き分けて顔を覗かせた若者を見た瞬間、エラリセの頬は花が開くように明るくなり、声も鼓動も弾んだ。
ナィナの耳は、その嬉しげな響きを拾い、まるで自分のことのように満ち足りた息を吐く。
若者はタルとは異なる装束を身につけ、エラリセと対照的に真っ黒な髪をしていた。金色に輝く眼差しは、ナィナのそれに通じる迫力がある。それは、タルと肩を並べる力を持ったヴァンの一族の証であった。
有力な氏族の後継でありながら、オリアンドはエラリセに宝を献じることも、力を誇示することもなかった。ただ真っ直ぐに、エラリセを恋い慕っていることを示したのだ。
その純粋さが、初めて彼女の心を揺らし、二人は相思相愛となった。
そして先日、二つの氏族の間で取り決めがなされた。
エラリセとオリアンドの婚姻によってタルとヴァンはひとつとなり、北の大地を共に治めていこう――と。
そこに興る国の名を、タルヴァニアとすることまで定まっていた。
ナィナの五感を通して見せられる光景に、アルベリオスは驚愕を否めない。
(ザンドリスの神獣ナィナが、タルヴァニアの聖獣と同一……? そして、このエラリセという娘とオリアンド――二人が始祖だというのか?)
オリアンドに手を取られたエラリセが、頬を染める。その顔にナィナが親愛の情を募らせる傍らで、アルベリオスは切なさに胸を焦がした。
(やはり、彼女からはメルンと同じものを感じる……ナィナは何を思って、わたしにこれを見せるのか)
オリアンドの掌に添えた自分の手を見つめ、エラリセは花もほころぶ笑みをこぼす。小さな手を宝物のように包むオリアンドも、満ち足りた顔で肩を寄せた。
だが、和やかな空気を断ち切るように、冷えた声が茂みの向こうから響く。
「エラリセ。タルの巫女が、みだりに男に手を許すものではないぞ」
「叔父様」
細面の男が、厳めしい眉の下で鋭い眼差しを光らせる。
オリアンドは咄嗟に手を離すと、タルの作法に則って一礼した。
「申し訳ございません。彼女を娶れることに浮かれて、わたしが気安くしすぎたのです」
「長の許しがあるとはいえ、そなたらはまだ婚姻前だ。慎んでもらわねばならぬ」
「今後は気をつけます。ご忠告ありがとうございました、ベルネル様」
ベルネル――その名を耳にした瞬間、アルベリオスははらわたが煮えくり返る怒りと怖気で震えた。
ナィナもまた、ベルネルの気配に鱗を固く閉ざし、毛は逆立てて警戒を露わにする。そのせいでアルベリオスは、腹の底から沸き上がる感情が自分のものなのかナィナのものなのか、境が曖昧に感じられた。
ナィナがベルネルから感じているものは、貪欲な野心――地位への渇望であった。
姪とその婚約者を送り出した彼は、ナィナに背を向けたまま呟く。
「聖獣の加護を得ようなどと、おかしな吹聴さえなければ……。習わしに従い、わたしがエラリセを妻にして、タルを継ぐはずだったというのに」
たった一度だけ、ナィナを振り返った視線は恨めしさに濡れていた。
そしてエラリセとオリアンドの祝言の日、その昏い瞳の奥で燻る野心が、ついに目を覚ました――。
ベルネルは、供物として捧げられたカエルに毒を盛ったのだ。それを食したナィナは、苦悶の呻きを洩らし、大地に崩れ伏した。
人々の叫喚を掻き分けて、ベルネルは昏倒したナィナの頭へよじ登ると、勝利の御旗を掲げるかのように、大鎚を振りかざす。
りん――と冴えた音を響かせて、角は根元から捥げ落ちた。
その瞬間、ナィナのあげた悲鳴で、北の大地は天地をひっくり返したかのように、激しく揺さぶられた。
混ぜ返された土に、人も住まいも森も等しく飲み込まれる。やがて溢れ返った海の水に、すべて洗い流された。
角を失ったナィナの無防備な額には、不浄のものが吸い上げられた。
白銀に輝いたその身は煤け、漆黒に染まる。我を失い、衝動に追い立てられるように破壊を求めるナィナは、もはや聖獣とは呼べなかった。
災厄と成り果てた竜は、北の地を蹴り飛ばし、遥か彼方へと飛び去った。
変わり果てた大地には、嘆きも叫びも響かない。
荒野の中で息をしている者は、数えるほどしか残されていなかった。奇跡的に命を繋いだエラリセとオリアンドは、その中にいた。
エラリセの手に、砕け落ちた角の欠片が握られる。角にわずかに残されたナィナの心を通して、アルベリオスは彼女の姿を見ていた。
「……ナィナ様」
悲嘆に頬を濡らすエラリセの背後で、瓦礫の山がずるりと動いた。
崩れた岩の隙間から、影が這い出す。身につけたものから辛うじてベルネルと判じられたが、その容貌は大きく変わっていた。
頭部はひしゃげて歪み、細面の面影はない。まるでカエルだ。それでも息をし、瞳に濁った光を宿した彼は、すでに人間ではなかった。
獣じみた呻きを漏らし、エラリセに掴み掛かろうとする。
「やめろ!」
義理の叔父となるはずだった異物――。オリアンドは、躊躇わずに蹴り飛ばした。エラリセを引き寄せ、ナィナの角を武器の代わりに突きつける。
ベルネルは血と泥の混じった泡を吐きながら、地中に潜るように、瓦礫の奥へ奥へと這い逃れた。
「タルの地……必ず……我がものに……」
その言葉を最後に、ベルネルは闇とともに消え失せた。
アルベリオスの胸に戦慄が走る。
ベルネル――その名を聞くだけで、タルヴァニアの民が震え上がる、災いをもたらすもの。
それは千年もの間、タルヴァニアを蝕み、時の為政者を狙い続けてきた怨嗟の影だった。
アルベリオスも例外ではない。
父も母も、親族のほとんどが、ベルネルの野心に呑まれていった。そしてアルベリオス自身、何度ベルネルの手に命を摘まれたことか。
死に戻りを繰り返しながらも、長い間その呪縛から逃れられなかった。それほどベルネルは強大で、人知を超えた存在だったのだ。
喉を灼くような怒りと悔恨が、今なお、アルベリオスの胸を抉る。
(千年の間タルヴァニアを蝕んできた宿痾の源……! ここで仕留めることができていたなら!)
アルベリオスの怒りに呼応するように、ナィナの角が瞬く。その光は、空の彼方を指すように、すっと一文字に伸びた。
エラリセは涙を拭い、オリアンドに向き直る。決意が滲む眼差しに、彼の姿を焼き付けるかのようだ。
「オリアンド。わたしは光を追い、ナィナ様を探しに参ります」
「ならば、わたしも共に行こう。地の果てまでも、あなたと一緒だ」
「いいえ。あなたには、この変わり果てた地を、タルヴァニアとして興す使命があります。だから、ここに残って」
オリアンドは当然、頷けはしない。しかし、目に映る荒涼とした地に、彼を除いて人々を導ける勇ましき者は立っていなかった。
二人は涙を飲み、互いを固く抱きしめ合う。これが最後になると、口にせずともわかっていた。
「ああ……なぜ、こんなことに……。わたしの心はエラリセ……あなたから離れようとしないのに」
「わたしもです……わたしも、あなたとともに、この地の未来を臨みたかった」
震える目尻からこぼれた雫が、エラリセの手に握られた角の欠片に落ちる。続くようにオリアンドの涙も落ち、淡い光がきらりと揺れた。
「たとえどんなに離れようと、姿が変わろうと、わたしたちは必ず再び出会い、何度でも恋をしよう。その時こそ、共に生きるんだ」
「ええ、オリアンド。その時はわたし、あなたの子をたくさん産むわ。きっと……きっとよ――」




