Scene 1〈この追放劇には裏がある〉
「水晶宮の聖女メルティナよ。聖女の務めを欠き、神獣ナィナを蔑ろにし、その身を患わせた罪は重い――」
でっぷりとした腹を揺らして、ザンドリス国王マルケス=デミスト三世は告げる。
「聖女の位を剥奪し、辺境への追放を命ずる――!」
メルティナは、自分の靴の爪先を無感情に見つめていた。
靴に飾られた白薔薇のコサージュの花弁を、ひとひら数えるごとに、心の中では王の言葉を復唱している。
いや、復唱とは違う。一言一句違わず、先回りして読み上げることができた。
なにせもう何度も同じ場面に遭遇しているのだから。
〈なにかの間違いでございます!〉
そう声を上げる気力は、とうに失せていた。
いかに国を愛し、深い祈りを捧げてきたか――声を枯らして、無実を訴えたのは初めて断罪された時のことだ。
二回目は、なぜ再び断罪の場に立っているのか、戸惑うばかりだった。
そして、ここにいるのは十回目のメルティナだ。この後に起こること、すべきこと――すべてを知っている。ついさっき、九回目の断罪の果てに訪れた死から戻ってきたのだから……。
「謹んで、受けいれます――」
落ち着き払って一礼し、顔を起こしたメルティナの面には笑みさえ浮かぶ。白薔薇の爪先は、すでにマルケスのほうを向いていない。
清らかな身の証である純白のドレスを翻し、優雅に謁見の間を辞した。
聖女が罪を犯す――。
ザンドリス王国千年の歴史を紐解いても、数例ほどしか記録のない異例の事態だ。
数少ない事例の中でも、聖女への罰は次のように相場が決まっている。辺境の寒村へと追いやられ、出入口の閉ざされた塔に、生涯幽閉されるのだ。
メルティナも、今夜中に王都から弾き出される手筈が調っていた。その道中で、彼女の醒めない〈悪夢〉は始まる……。
(いわれなき罪で汚名を着せられ、追放されるだけなら、どんなによかったでしょうか)
知らぬ間に震えていた指先を抱き合わせ、幼き頃より出仕した水晶宮へ向かう。
メルティナが逃げ出さないよう、ものものしい装備の騎士らが後をついてはくる。マルケスのことは憎らしく思うメルティナだが、親しい者たちに別れを告げる時間を与えてくれたことだけは、どの死に戻り人生でもありがたく思っていた。
「ただいま戻りました」
水晶宮に足を踏み入れると、右往左往していた女官たちが、一斉に顔を上げた。
いまや大罪の烙印を捺された咎人ではあるが、彼女たちは変わらない敬愛を込めた眼差しで、メルティナを迎え、跪いた。
「お聞き及びのこととは思いますが、わたくしは聖女の座を退き、王都を去らねばなりません。聖女見習いとして五つで神殿に入ってから十五年――、頼りないところも多かったわたくしですが、皆さんの支えがあって、今日まで勤めを果たしてこられました。感謝しています」
嘆き、すすり泣く声に、メルティナの心はわずかながらも救われる。身の潔白を、彼らだけでも信じてくれているなら、それで充分だった。
女官たちの間を縫うように、奥から二人の少女が駆けてきて、メルティナにすがりつく。
「ああ、メルティナ様! なんということでしょう!」
「陛下は何か思い違いをなさっているのです! ナィナ様のご体調が優れないのは、時季はずれの寒風が吹いたせいですわ」
「ティルファ、ツァラ……」
揃いの白い法衣に身を包んだ、聖女見習いの少女たちは、メルティナにとって妹のような存在だ。
先輩聖女に憧れ、慕う瞳に宿る煌めきは、瑞々しく初々しい。聖女として大成するには、まだ若すぎる果実だ。
メルティナは二人を抱き返し、穏やかに言い聞かせる。
「わたくしの賢い妹たち、お聞きなさい。わたくしの無実を訴えようなどと、短気を起こしてはいけませんよ」
「ですが!」
「陛下の決定が覆ることはありません――」
メルティナは密かに奥歯を噛み締め、きっぱりと言い切った。
「これからしばらくの間、水晶宮には聖女が不在となります。ならば、あなたたちがなすべきは、これまでと変わらず実直に学び、一日でも早く立派な聖女となれるよう、己に磨きをかけることです。連綿と受け継がれてきた教えに従い、ナィナ様のお世話をよろしくお願いいたしますね」
「わたくしたちだけでは無理です! ナィナ様は、メルティナ様だからお心を許していたんですもの」
「メルティナ様がいらっしゃらないとなれば、ナィナ様のお心も乱れます。きっとこれから変時が起こりますわ!」
「おやめなさい」
メルティナの視線で、背後に控えた騎士の存在を思い出した妹分たちは、呼気を飲み込むように口を噤んだ。
「聖女が憂いを口にすることは、いたずらに人心を惑わします。あなたたちには、まだまだお勉強が必要ね」
もっとそばにいてやりたかった――思いを閉じ込めて、メルティナは二人から離れた。振り返らないまま、騎士たちに告げる。
「ナィナ様に、最後のご挨拶をさせてください」
「なりません。急いで、出立の準備を」
時間を気にする様子で急かしてくる騎士を、メルティナは厳しい視線で一度だけ振り返った。
「わたくしが本当に、神獣を蔑ろにしたと言うのなら。謝罪のひとつでもして出ていくのが、道理というものでしょう」
有無を言わせぬまま、水晶宮の奥へ足を向けた。
水晶宮の由来となった、一面水晶でできた神殿に、聖女の靴音が反響する。鈴が鳴る音ようなその音を聞き分けて、最奥に鎮座する神獣ナィナは「くるる……」と喉を鳴らした。
長い午睡から覚め、ゆっくりと顔を起こす。
巨体を覆う体毛と鱗が、水晶の光を弾いて眩く輝いた。
竜と獣の特徴を持つ、神獣ナィナ。
千年の昔――悪しき獣として大陸を蹂躙していたナィナは、初代国王レイモンが携えた宝剣の前に跪き、忠誠を誓ったという。以後千年に渡り、王宮の一角にある水晶宮にて、平穏の時に微睡んでいる。
宝剣を祀る黒曜宮とは対をなし、それぞれの神殿に聖女が配される。水晶宮では神獣の世話を、黒曜宮では宝剣の封印を守る務めを担うのだ。
こうして神獣と宝剣を崇め奉ることで、ザンドリスは千年の繁栄を築いてきた。
ナィナの寝床は、天井から滴る光そのものが結晶化したかのような輝きに包まれている。
騎士たちはその厳かな美しさと、獰猛な爪を持つ巨躯に畏れを抱き、そばに寄ることさえできず、ひれ伏した。
鎧が水晶の床に打ち合わさる音に、ナィナは大きな三角耳を敏感にひくつかせる。低く唸ると、喉の奥から蛇のような声を出して威嚇した。
威嚇の声は凄まじい風圧を伴い、騎士の体を傾がせるほどだ。ナィナにとり、目障りで耳障りな小虫を追い払うかのようだ。
「ナィナ様。お加減はいかがでしょうか」
メルティナが足元に跪くと、ナィナの逆立った毛が、風もないのにゆっくりと撫でつけられていく。
「くるる」と喉を鳴らし、前足をひねったナィナは、足裏を上向かせた。硬い鱗と鋭い爪が恐ろしげだが、桃色をした柔らかな肉球が愛らしい。
乗れ――と告げるように、ナィナは顎をしゃくった。メルティナと相対する時、ナィナはこうして「手のひら」を差し出す。そこにメルティナがちょこんとお膝をつくと、顔のそばに引き寄せて話を聞くのが常だった。
しっとりと濡れた鼻をメルティナに押し当て、ふんふんとしきりに匂いを嗅ぐ。「くるる……」と、甘えて鳴くような音が、喉の奥から絶えず響いた。それは水晶の壁に反響し、まるで優しい鈴の音のように宮全体を満たす。
メルティナは優しい手つきで、ナィナの首筋に触れて、安堵の息をついた。
「しっかり、体毛が生え揃いましたね。ようございました」
ナィナは寒暖差に敏感で、寒さを感じれば鱗を落とし、体毛を増やす。毛が生え揃うまでは皮膚が剥き出しとなるため、素人目には病変のような、みすぼらしい見た目となってしまう。それを国王マルケス三世は、聖女が神獣の世話を欠いたため――と責め立てることで、メルティナを断罪する材料として利用したのだ。
「ナィナ様……。わたくしは何度この時を繰り返せば、安らかな死を賜われるのでしょう」
耳元で囁かれるメルティナのため息に、瞳孔の奥に獰猛さを封じ込めた神獣が、瞳を細める。大きな鼻先をメルティナの脇腹にすり寄せ、切なげな声をあげた。
「申し訳ございません。いかなナィナ様でも、ご存じありませんよね」
肉球の上で跪き、メルティナはナィナに最後の祈りを捧げる。
「志半ばで、おそばを離れねばならないことを、心苦しく思います。明日からは、ティルファとツァラが心を尽くしてお仕えいたします。まだ未熟なところもございますが、わたくしが見習いだった時に比べたら、ずっとしっかりした子たちです。どうか、心安らかにお見守りください」
ナィナはメルティナを地に下ろすと、大きな尻尾でそっと包み込んだ。まるで、巣立つ子を送り出す前に、そっと抱きしめているかのようだ。
あとはそれきり黙り込み、微睡みの中に戻っていった。
***
水晶宮を後にしたメルティナは、追放先へ向かうための身支度を、王宮の侍女たちの手で調えられた。
これまでと同様に白のドレスを着せられるが、慎ましさが美徳であった聖女の装いに比べ、いささか華やかである。追放される咎人には不釣り合いな、上等すぎる装身具と化粧で着飾られたメルティナを、マルケスは満足そうに眺めた。
「本来なら、生涯 袖を通すことの叶わない、花嫁衣装を用意してやったのだ。光栄に思うがいい」
その言葉と、マルケスの薄笑いの裏に隠された意味を、今のメルティナなら痛みを伴って理解できる。腹立たしさと憎悪に狂い、今この場で、マルケスの太鼓腹を滅多打ちしてやりたいとさえ思った。
だが、たとえ刺し違えたとしても、メルティナの運命は変わらない。またも死に戻ってくることは、八回目の人生で経験済みだ。
ならば今生こそは、彼の思惑通りに行かせるつもりはない――。
「ザンドリスのつつがない繁栄を、彼方の地よりお祈りしております」
もはやマルケスには取り合わず、メルティナは優雅に一礼すると、辺境へと向かう馬車に自ら向かった。
最後まで、清らかで気高い佇まいを、王宮の人々の目に焼き付けて、元聖女メルティナは宵闇の向こうへと旅立った。