第六話「ささやかな歪み」
喫茶店の窓辺、午後の光がゆるやかに差し込んでいた。
澪はカップに手を添えたまま、じっとテーブルの木目を眺めていた。飲みかけのコーヒーはもうぬるくなっている。カップの縁には、いつの間にか小さな輪染みがいくつかできていた。
「織部さんって、何が好きなの?」
不意に向かいから投げられたその問いに、澪は視線をゆっくりと上げた。浅海が、カップをくるくる回しながら、こちらを見ていた。
何が好きか。単純な問いのはずなのに、答えがすぐに浮かばない。焦げたパンの裏側を剥がすみたいに、言葉がなかなか出てこない。
「えっと……」
思わず間の抜けた声が漏れた。浅海はすぐに何かを言うでもなく、にこりと笑って、「うん」と小さくうなずいた。否定も促しもない、ただその場にいるような肯定。
澪はうつむいたまま、口を開いた。
「……“嫌い”は、なんとなく、わかるんだけど。“好き”って……ちゃんと考えたことないかも」
そう言ったあとで、胸の内に少しざらつくものが残った。それを隠すように、カップを口元に運ぶ。相変わらず、ぬるい。
「うん、そうだよね」
浅海の声は、驚くほど自然だった。
「“好き”とか“嫌い”って、ちゃんと考えようとすると、結構エネルギー使うよ。ぼくも、誰かに訊かれてすぐ答えられるときと、答えられないときがあるし」
“エネルギー”――その言葉に、澪の中で何かがかすかに揺れた。そうか、あれは力がないからじゃなくて、力を使うから、だったのかもしれない。
これまで、澪はずっと「できない自分」を数えてきた。友達づきあいも、会話も、反応も遅い。瞬時に返せるような軽快な言葉も持ち合わせていない。笑うのも、話すのも、どこか置いてきぼりになる気がして、だからできるだけ最小限にしていた。
でももしかしたら、それは“寝ている”んじゃないのかもしれない。
ただ、整理していただけ――。
あれこれ飛び込んでくる日々の断片を、ゆっくりと、黙って、自分の中に並べ直していただけなのかもしれない。
「……私、浅海くんと話すとき、ちょっと楽なの」
ぽつりと呟いた澪に、浅海は目を細めて「へえ」とだけ返す。
「どうして?」
「えっと……うまく言えないけど、なんか、ちゃんと考えていいんだって、思える」
答えになってないのはわかっていた。でも、それが精一杯だった。
「ちゃんと考えていい、か。面白いね」
浅海は少しだけ笑って、それ以上深く訊かなかった。
それが、ありがたかった。
───
店を出ると、空は少し曇っていた。春の匂いが混じった風が、澪の髪を撫でていく。
歩きながら、澪はぼんやりと思う。
「何が好きか」なんて、まるで目に見えない形を、手探りでなぞるような問いだ。答えを出そうとすればするほど、曖昧なまま、遠のいていく。でも今日は、その曖昧さすら許されている気がした。
歩道の端に、小さな歪みがあった。タイルの隙間に、柔らかな草が顔を出している。
澪は足を止め、その草を見つめた。誰にも気づかれない、ささやかな歪み。でも、それが風景を壊しているとは思わなかった。むしろ、そこにあることで、世界が少しやわらかくなった気がする。
まるで、自分の中にもそんな歪みがあることを、受け入れられるようになったみたいだった。
そしてその歪みは、「いびつ」でも「未熟」でもなく、たしかに今の自分自身なのだと。
───
夜、家に戻ってから、澪は久しぶりにノートを開いた。何も書いていないページに、ペンの先を滑らせる。
「好き」と「整理」。
ふたつの言葉を、並べてみる。
どちらもまだうまくつかめない。でも、そのあいだにあるなにかを、少しずつ書き留めていけたらいい。
ページの隅に、小さな点をひとつ打った。
それは終わりの印ではなく、始まりの予感だった。