第五話「白い光とざらつきの道」
朝、目が覚めたときには、もう白い光が部屋の中をうすく漂っていた。カーテンの隙間から、洗われた空気が差し込んでくる。天井の角をぼんやりと見つめながら、呼吸をひとつずつ確認するように吸って、吐いてを繰り返す。
時計は、9時を少し回っていた。世間ではもう動き出している人たちがたくさんいる時間帯。けれど、その「動き出す」という言葉が、まるで遠くの言語みたいに思えた。
今日は、少し歩こうと思った。
いつもの道。舗装はされているけれど、細かい砂利がところどころに散らばっている、ざらついた小道。歩くたびに、足裏に粒子が押し返してくるような感覚がある。地面と身体の接点が、異物に満ちている。けれど、それがなぜか落ち着く。
誰かに会う予定はなかった。何かを成し遂げたい気持ちもなかった。ただ、歩きたかっただけ。身体の奥の方で、何かがすこしだけ動いた気がして、出かけてみようと思ったのだ。
靴を履き、ドアを開けて、外の光に目を細める。その一瞬だけは、自分が自分でいることを確認できた気がした。
道を歩く。最初の数歩は軽かった。呼吸も深く、背中も伸びていた。でも、10分も経たないうちに、身体の芯が曇ってくる。足が重くなり、思考が散り始める。まるで頭の中が雲の巣になって、そこに埃がたまりはじめたような。
ふと、道ばたにしゃがみこみたくなる。けれど、しゃがむことさえ、今は億劫だった。
代わりに、ふらふらと座り込む。石が背中にあたって冷たかったが、それも悪くなかった。空を見上げると、枝の向こうに透き通った青が広がっていた。
目を閉じる。そうすると、世界が遠のいて、ただの「休み」になる。
何か特別な理由があるわけじゃない。ただ、歩けなくなったから、こうしているだけ。自分の中ではごく自然なこと。でも、きっと、通りかかった人から見れば「道端で寝転ぶ人」に見えるのだろう。
そう思うと、なんとなく申し訳ない気もしたが、立ち上がる力は湧かなかった。
以前、友人にこう言われたことがある。
「カフェとかでゆっくりすればいいじゃん。気分転換になるよ」
たしかに、そういう場所に行くこともある。けれど、そういう空間は、綺麗すぎて、整いすぎていて、そこに「いるだけ」で気力を使ってしまうのだ。周囲の視線、空間の均衡、誰かの会話、照明の角度――そういう細部が自分の中のなにかをざらざらと削っていく。
だったら、こうして、砂利道の途中に座って空を眺める方が、ずっと楽だった。
頭の中では、いくつかの予定が浮かんでは消え、やらなくてはいけないことが点滅していた。でも、それに手を伸ばすための腕が、心が、今は見当たらない。
鳥の声が遠くで響いた。風の音に混じって、木の葉が揺れる。そういう音のなかで、自分の中の時間だけが止まっていた。
ときどき、こんなふうにしていると、少しずつ脳の中の埃が落ちていく感じがする。いつの間にか、視界がクリアになり、呼吸が深くなり、立ち上がる準備が整う瞬間がくる。
今は、その「整い」を待っている時間。
生きていると、誰もがどこかで休む。でも、休み方は人それぞれだ。温泉に行く人もいれば、音楽を聴く人もいる。本を読む人、誰かと話す人、旅に出る人。
わたしは、こうして、砂利道で空を見ているのが、いちばん自然な休み方だった。
それが「変」と言われても、仕方ない。それでも、ここにいることが、わたしにとっての「必要な時間」だった。
「生きてるだけで、だいぶ頑張ってるんだけどな」
声に出してみたら、思ったよりも重く響いた。誰かに聞かれたら恥ずかしいけれど、ここには誰もいない。
やがて、ふっと風が吹いた。
それが合図のように、ゆっくりと身体を起こす。まだ少し重いけれど、立てる気がした。
砂利道をもう少し先まで歩いてみよう。次にまた座り込むまでの、わずかな距離を。
それが今日という一日のすべてであっても、きっとそれでいい。