第四話「重力のかかる日」
朝の光が差し込むはずの窓は、うっすらと曇っていた。
起き上がるには、まず身体の上に積もった目に見えない重りをどかさなければならない。けれど、その重りはいつも無言で、どこをどう押せば退いてくれるのか、澪にはわからなかった。
頭の奥がじんわりと痛む。思考をひとつ始めるたびに、それが波紋のように広がって、さらに脳内をかき乱していく。目を覚ましてからもう一時間以上が過ぎていたが、澪はまだベッドの上にいた。着替えもしていない。食欲はあるような気もするし、ないような気もする。
時計の針は、容赦なく進む。今日は二限がある。出席は取られる。行くべきなのだとわかっている。でも、身体が、まるで別の言語で動いているようだった。
重力――。
今日の澪の身体には、いつもより強い重力がかかっているようだった。
それは地球のせいではなく、たぶん内側からくるもの。何かがぐっと心の底に沈んでいて、それが全体を引っ張っている。
それでもようやくベッドから起き上がり、服を選ばずにそこにあったものを羽織って、家を出る。顔を洗う余裕もなく、鞄の中身もよく見ずに。
外の空気は、思ったよりも軽かった。むしろ、自分が少し重たすぎることに気づかされる。道を歩くたびに、地面との摩擦を強く感じる。足が、やけに地面に吸い寄せられるようだった。
ふと、電柱の影が細長く伸びているのを見つけた。影はいつも正確で、変わらずそこにある。澪はその隣に、自分の影を並べてみる。そこには、ぼやけた輪郭の自分が、きちんと立っていた。
砂利道に差しかかる。
この道を歩くのは久しぶりのような気がした。実際は、昨日も一昨日も通っているはずなのに、今日のそれはまるで別の風景のようだった。
一歩一歩が、ひどく遠い。足音がくぐもって聞こえる。前を見ても、道の終わりが見えない。
まるでこの道が、自分だけを取り残して無限に続いているようだった。
気づけば、いつのまにか歩道の脇にしゃがみこんでいた。
地面の粒は冷たく、指先に触れるとすこし湿っていた。持ち上げると、ぱらぱらとこぼれて手のひらに残らない。自分の思考も、まるでこんなふうに形にならず、こぼれて消えていくのだろうかと考える。
誰かの足音が近づいてきた。急がず、しかし迷いもないテンポで。
「織部さん」
声の主は、また浅海だった。彼はしゃがまず、ただそばに立っていた。
「……行く途中?」
「うん。今日、ゼミの補講があるって言ってたけど……大丈夫?」
澪は答えなかった。いや、答えられなかった。喉に言葉が引っかかっていた。
ただ、重たい。身体も、頭も、口も。何かを話せば、崩れそうだった。
すると、浅海は言った。
「歩ける?」
そのひと言には、詮索も、心配も、叱責もなかった。
ただ「どうする?」という、選択肢だけが差し出されていた。
澪は少しだけ考えてから、うなずいた。ほんの少し、頷いただけだったが、浅海はそれを見逃さず、静かに歩き出した。澪も、時間をかけて立ち上がる。何かが少し、ほどけた気がした。
歩き出すと、たしかに身体は重たいままだった。けれど、その重さが「ひとりだけのものではない」ように思えた。横を歩く影が、自分と同じ速度で進んでいる。誰かと一緒に歩いているという事実だけで、重力がほんのわずか和らぐことがあるのだと、澪はこのとき初めて知った。
大学の校舎が見えたときには、まだ澪の身体は少し沈んでいた。けれど、その沈み方はどこか、安定した深さをもっていた。底に届けば、いつか浮かぶ。そう信じてもいいと思えた。