第三話「曲がり角に、眠る影」
曲がり角の先に、誰もいない道が続いている。
そのはずなのに、澪はなぜか立ち止まっていた。足が動かなかった。
大学からの帰り道。ゼミの帰りに寄り道するような元気はなく、ただまっすぐ家に向かっていた。その途中で、目の前の道が、ふと遠く感じられた。光の加減か、時間帯のせいか、道の先に薄い霧のようなものがかかって見えた。
見慣れたはずの道が、今日は知らない土地のように感じられる。
その感覚のまま、澪は小さな歩道の縁に腰を下ろした。地面は冷たくも熱くもなく、ただ「ここにいる」ことを静かに受け入れてくれる感じがあった。
うつむいて、両手を膝の上に置く。身体は動いていないのに、なぜか意識だけがぐるぐる回っていた。風景が斜めに傾き、視界が濁るような不安定さ。それは、まるで頭の中で霧が晴れず、考える力がすり減っていく感覚だった。
こんなふうに、ふいに止まってしまう瞬間が、澪には時々訪れる。歩きたくないのではない。むしろ、歩きたい。でも、身体がその命令を受け取らない。それは不調とも違って、どこか曖昧で、ただただ「動けない」という感覚だけが居座っている。
気がつけば、目を閉じていた。まぶたの裏に夕方の色がにじんでいる。
音もなく、誰かの影が近づく気配がした。
「……大丈夫?」
浅海だった。彼の声は、しゃがんだ位置から響いてきた。
澪はすぐには答えられなかった。ただ、目を開けて、彼の影を見上げる。光が逆光になって、顔がよく見えなかった。
「そこ、痛くない? 地面、硬そうだし」
「……大丈夫。いつの間にか……ちょっと、こうなってた」
「へー、そうなんだ」
浅海は、それ以上何も言わなかった。ただ、少し離れた位置に腰を下ろし、風に髪を揺らしている。
澪は、かすかに目を細めて尋ねた。
「……変に見える?」
「何が?」
「道の途中で、こうやって座り込んでるの」
しばらく間があってから、浅海はぽつりと答えた。
「見た目だけなら、たぶん変に見える。でも……別に“変”って、悪いことじゃないと思ってる」
その答えに、澪は少しだけ笑ってしまった。変なのに悪くない。そんな言葉が、妙に今の自分に合っている気がした。
「俺さ、小学生のとき、校庭のすみっこで砂いじってたこと、よくあったんだ」
不意に浅海が話し出した。
「みんながドッジボールしてる横で、一人でしゃがんで、石とか砂とか拾って、並べてた。誰かに変って言われたけど、あの時間、すごく好きだった」
それはまるで、澪の記憶と重なるような風景だった。自分もまた、似たような場所に、似たような形で存在していた気がする。
「私も……そんな感じだった。校庭の端で、地面触ってた。何をしてたのか、よく覚えてないけど」
「覚えてなくても、たぶん意味はあったよ。そういう時間って、自分の中を整理してたんじゃないかな」
整理――その言葉に、胸が軽くなった。
「休んでいる」でもなく、「怠けている」でもなく、「整理している」。
それなら、何も悪くない。むしろ、必要なことだ。
澪はふと、自分がいま座っている道の感触に意識を向けた。小石がいくつか背中に触れている。不快ではない。むしろ、目に見えない何かが、自分の内側と同じリズムで並んでいるような気さえする。
「……このまま、もう少しいてもいい?」
「もちろん。俺、すぐそこにいるから」
浅海はそう言って、すこし先のガードレールにもたれかかった。手に持っていた缶コーヒーを飲みながら、空を見上げていた。
澪は、もう一度目を閉じる。風の音が、さっきよりもやさしくなっていた。
焦らなくてもいい。今は、ここにいてもいい。
そのうち、また歩き出せる。きっと、そう思える。