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第二話「音のないカフェ」

 昼下がりのカフェには、乾いた音が漂っていた。

 氷がグラスの中で、かすかに転がる音。誰かの指先がスマホの画面をすべる音。マスターがカウンターで食器を揃える音。それらが不規則に響いては、木の床に吸い込まれて消えていく。


 織部澪は、窓際の席に座っていた。白いカーテンがほんのわずかに揺れて、陽の粒がテーブルに舞っている。コーヒーを頼むつもりだったが、メニューを開いたまま、ページをめくることなく数分が経っていた。


 カフェにいるのに、休まらない――それが澪の正直な感覚だった。


 椅子に腰を下ろしても、身体はどこか浮いていた。背中が椅子と馴染まない。肘を置く角度に自分を合わせようとすれば、なぜか肩が重たくなる。視界のどこかに人の気配があると、それだけで目線が逃げる。こうして「ここにいる」だけで、澪の中には静かな緊張が走っていた。


 店内は静かだった。だからこそ、その「静けさの中に自分がいる」という事実が、反響していた。まるで、何かを演じているようだった。カフェに来る人間のふるまいをなぞっているような、そんな感覚。疲れる理由は、そこにあったのかもしれない。


「織部さん」


 名前を呼ばれて顔を上げると、そこには浅海がいた。彼はコーヒーのカップを持っていて、澪の席の向かいに視線を落とす。


「隣、いい?」


「……うん」


 頷いたつもりだったが、声が出ていたかは曖昧だった。浅海は、それをとがめるような素振りは見せず、向かいに腰を下ろした。


 コーヒーの香りが、ふわりと空気を変える。彼のテーブルに置かれたカップから、湯気が立ちのぼっていた。


「さっき、砂利道のとこで会ったから、こっち来てるかなって思って」


「……よく来るの?」


「たまにね。あそこのパン、甘すぎなくて好きなんだ」


 浅海はそう言って、紙袋からクロワッサンを取り出した。ほんの少しバターの香りが鼻をくすぐる。澪はようやくメニューを閉じ、アイスティーを注文した。


 店員が飲み物を運んでくるまでの間、ふたりの間には会話がなかった。でも、それが気まずい沈黙ではなかったことに、澪は少し驚いていた。


「ここ、静かすぎるかな」


 ふいに浅海が言った。


「え?」


「俺は好きなんだけどさ。……でも、こういう場所って、人がいなくても、なんか“人の型”がある気がしない?」


 “人の型”。その言葉が、澪の中に引っかかった。


「椅子に座って、お茶飲んで、スマホ見て、何か考えてるふりして、時間を過ごす……みたいな。なんか、台本があるみたいで」


「……そういうの、疲れる」


 言ってから、少しだけ後悔した。でも浅海は、にこりと笑っただけだった。


「だよね。俺もたまに、それがしんどい時ある。家で寝転んでる方が、身体は楽だったりするし」


 澪は頷きかけたが、ふと、言葉が浮かんできた。


「でも……寝転んでるって言うと、ちょっと変に思われるよね」


「変、かな。俺、寝転んでラジオ聞くの好きだけど」


 その何気ない言葉が、澪の中の緊張を少しほどいた。


 浅海の声には、不思議な透明さがあった。強く押しつけることもなく、遠ざけることもない。まるで風のように、ただそばを通り過ぎていくような。


 飲み物が届いた。アイスティーの氷がかすかに鳴る。その音を聞きながら、澪はようやく一口、喉を潤した。


 冷たい液体が体内に入ると、少しだけ、自分が「ここにいてもいいのかもしれない」と思えた。


 浅海はコーヒーを飲みながら、スマホを手に取った。


「織部さん、音楽とか聴く?」


「……あんまり」


「そっか。でも、なんか、そういうのなくても、自分の中にちゃんと“音”ある人って感じする」


 その言葉の意味はよくわからなかった。でも、嫌ではなかった。 


 風がカーテンを揺らす。ほんの少し、日差しが傾き始めている。


「そろそろ行こっか。ゼミ、始まっちゃう」


 浅海がそう言って立ち上がった。澪もそれに続く。立ち上がると、椅子の跡が少しだけ身体に残っていて、それが「ここにいた」証のように感じられた。


 カフェを出ると、またざらついた道が続いていた。けれど、今はそれほど気にならなかった。


 歩くたびに、足裏にかすかな音がする。そのリズムに合わせるように、澪の呼吸が少しだけ軽くなっていた。

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