第一話「足裏に残るざらつき」
舗装された道が終わると、細かく砕かれた石が散らばる、灰色の砂利道に変わる。織部澪は、その境目で一度足を止めた。信号があるわけでも、誰かとすれ違うわけでもない。ただ、ほんの数秒、呼吸の形を整えるように立ち尽くした。
この道は、大学への近道だった。けれど、誰もが通るには少しだけ足場が悪く、通学時間にはあまり人影を見ない。澪にとって、それは都合がよかった。人と話すことも、すれ違いざまの会釈すらも、彼女の神経をほんのわずかずつすり減らす。そういう消耗の総量が、自分にとっては他人よりも少しだけ多いらしいと、最近はうすうす気づいていた。
歩き出すと、砂利の感触が靴越しに伝わってくる。かすかに足裏を押し返すような感覚。そのざらつきは、心のどこかをひっかくようでもあった。
数分ほど歩いたところで、澪はふと、道路の端にある小さなブロックに腰を下ろした。身体が、止まりたがっていた。
彼女の中には、「休む」という感覚が他人と少しだけ違っているという実感があった。誰かに話すようなことではないし、説明もしづらい。ただ、動けなくなる。身体が重くなるというよりは、内側から動く理由が消えていく。休憩のつもりが、そのまま何時間もただ風景を見ていたことが何度もあった。
周りから見れば、道端にぼんやり座っている奇妙な人間に映るだろう。でも、自分にとっては、それがいちばん自然な「休み方」だった。カフェに入ってコーヒーを頼むのも、ベンチに座ってスマホを見るのも、そこには「人の目」があった。そういう場所では、意識せずとも「ふるまい続ける」自分がいて、結局はどこか疲れてしまう。
風が頬をなでる。目を閉じると、まぶたの裏に淡い光が滲む。
そこに、足音が近づいてくるのが聞こえた。
「……織部さん?」
聞き慣れた声に、澪は目を開けた。立っていたのは、浅海陸。ゼミが一緒の男子学生だった。
「こんなとこで、どうしたの?」
彼の声は、気遣うでもなく、興味本位でもない。どこか、柔らかく間が空いていて、澪の中に波紋を立てなかった。
「ちょっと……風が気持ちよくて」
自分でも驚くほど自然に言葉が出てきた。嘘ではない。たしかに、そうだった。
「わかる。こういう道、意外と気持ちいいよね」
浅海は、澪の隣に腰を下ろさず、少し離れた場所に立ったまま、空を見上げた。そういう距離感がありがたかった。
「今日、ゼミあるんだったっけ?」
「……うん。三限から」
「じゃ、同じだ。俺、駅前のパン屋でコーヒー買ってから行こうと思ってて」
ふと、澪は「パン屋」と「コーヒー」という言葉に、小さな抵抗感を覚えた。たぶん、いま自分がそこへ行ったら、またすぐに疲れてしまう。それだけで、たぶん今日はもう動けなくなる。
「行ってらっしゃい」
それだけ言って、澪は小さく笑った。浅海は、ちょっとだけ目を丸くして、同じように笑い返した。
「じゃ、またあとで」
そう言って、彼は去っていった。足音が遠ざかるにつれて、周囲の空気が少しずつ薄れていく。戻ってきた静けさに包まれて、澪はまた、ほんのすこし身体を倒した。舗装されていない道に、身体の重さを預ける。
石のざらつきが、背中越しに伝わってくる。少し痛いけれど、どこか落ち着く。
遠くの空に、白く細い雲が浮かんでいた。
いま、こうしていることは、きっと誰かにとっては「おかしい」のかもしれない。でも、澪にとっては自然なことだった。無理に動かず、風を感じて、まぶしさの中でぼんやりする。それが、次に歩き出すための前準備。
きっと、自分はそうやって生きていくのだろう。歩いて、止まって、また歩いて。
普通の道を普通に歩いていく誰かを、羨ましいと思わないわけじゃない。でも、自分の足は、こういうリズムでしか動かない。動けない。それを否定するのは、もうやめようと思った。
空を見ていたら、少しだけ頭の中が晴れていくような気がした。
澪は、ゆっくりと立ち上がる。
足元の砂利が、しゃり、と音を立てた。
午後の日差しは柔らかく、先の道がまだ白く光っていた。