14.雨上がりの空が照らすもの
「とりあえずまずは担任、だな」
そう思った俺は、通学鞄に智彰が渡してくれたノートをまとめて入れる。作ってくれた問題集はもう書きこんでしまっているし、それに今更返されても困るだろう。
まぁ、その理論ならノートも返す必要はないのだけれど。
「正直何か、理由が欲しいんだよな……」
ずるいとわかっているが、何もなく会いに行く勇気が出なかったのだ。そして会いに行くと決めたくせに、その順番を最後にしてしまうところも女々しくて自分が嫌になる。
(智彰とちゃんと話さなくなってもう三ヶ月か)
今までも喧嘩をしたことが一度もないとは言わないが、それでもこんなに離れるのは出会った中学一年の時から数えても初めてだった。
でも、この鞄の中にあるノートが智彰と俺の繋がりが完全に消えていない証であり、そして最後の繋がりでもある。
「卒業したら、学校でも、そしてこの町でも会えなくなるんだろうな」
それが、今の俺たちの距離だから。
正門から入り、まっすぐ職員室へ向かう。来客対応、事務室や校長室などが並んでいる職員室は、昇降口から入ってすぐ右の廊下の奥だった。流石にこの卒業を間近にしたこの時期は校舎に人通りが少なく、俺はなんだか感傷に浸りながら廊下を進んだ。
職員室の扉をノックしてから入り、担任に受かったことを報告する。
めちゃくちゃ驚くかと思ったのに、先生の反応は意外にも頷くだけだった。それでも柔らかく細めた目元からは喜んでくれている気配がし、俺も嬉しくなる。
そんな先生に後押しされた俺は、次は今日のある意味メインイベント、智彰の家へ向かうべく昇降口へと戻った、のだが。
「げっ、雨?」
そんなに職員室で長居したつもりじゃないのに、いつの間にか降り出した雨が既に地面を色濃く濡らしていた。
「どうすっかな、鞄、濡らしたくないんだけど」
授業があるわけではないので鞄の中は物がほとんど入ってはいないものの、この中には智彰が作ってくれた特製の受験対策ノートが入っているのだ。最悪俺は濡れてもいいけど、このノートだけは守りたい。
(職員室って置き傘くらいあるよな)
仕方なく職員室へ戻った俺だが、扉を開けようとした瞬間ギクリと固まる。中からすすり泣く声が聞こえたのだ。
受験は、努力した全員が必ず受かるわけではない。どうしても各学校内で順位が決められ、俺よりはるかに頭がいい人でも競合相手が強ければ、そして狙う大学のレベルが高ければ高いほど落ちる可能性だってあがってしまう。
この涙の理由が大学受験に落ちたからなのか、それとも受かったことによる嬉し泣きなのかは正直なところわからないが、俺は入るのをやめた。
「他に傘……保健室? には着替えしかねぇか。んー、あ」
どうしようかと頭を悩ませていると、ふと自身の机の中に折り畳み傘が入っていることを思い出す。智彰が大量に問題集と対策ノートを持ってきたお陰で鞄がパンパンになり、仕方なく鞄から出して机に入れたままだったのだ。
「こんな時まで智彰のお陰かよ」
ついそんな呟きが漏れ、笑いが込み上げる。結局自分がガサツだというだけなのだが、それでも智彰との繋がりがノート以外にもまだ残っていたことが嬉しかった。
少し気分が軽くなった俺は教室へ向かう。さっきまではどこか気が重かったのだが、気まずさよりもこの小さな発見に浮かれながら勢いよく教室の扉を開いた。
てっきり誰もいないかと思ったが、人影がひとつ。
艶やかなストレートの黒髪が少ししっとりとして見えるのは、どうやら雨に濡れたのだろう。
一重の切れ長な瞳は、どこか憂いを帯びていて色っぽい。その瞳と視線が交わる度に、俺はいつもイケメンには一重とか二重とか関係ないんだな、なんて思ってしまう、その相手。
智彰が、何故かそこにいた。
「――桜汰」
「っ!」
ここで会うとは思っていなかった相手との突然の遭遇に思わず言葉を失った俺は、優しく名前を呼ばれてビクリと肩を跳ねさせた。
(ノート!)
ハッとし、慌てて鞄を開ける。予定よりも早い遭遇に、心の準備がまだできていなかった俺はかなり不審な動きをしていただろう。
それでも俺の行動を見守り、ちゃんと待ってくれているところが〝智彰〟だった。中学一年の時から一緒で、そして俺が好きになった彼だった。
「……大学、合格した。その、全部、智彰のお陰で」
「おめでとう。でも俺は何もしてない、最後までは、なにもしてやれなかったよ。だから受かったのは桜汰が頑張ったからだ」
ぽつりと告げられるその言葉に慌てて首を左右に振る。
智彰が何もしていないなんてあり得ない。このノートだって、問題集だって。そして何より智彰という存在に、俺は本当に背中を押されてきたのだ。
「これっ、これが無かったら絶対合格できてなくてっ! もはや俺のお守りっていうか……だから、これ、返す! ……東京行っても」
(忘れないで、は、言えないよな)
「……元気で」
そう口にし、ノートの束を智彰へと差し出した。
一瞬きょとんとした智彰が、一番上にあったノートへと手を伸ばす。それは既に十冊近くなっていた対策ノートの、最初の一冊だった。
そのはじめのノートをパラパラと捲る智彰から目を逸らす。この距離で、向かい合って話すこと自体が久々だったのだ。
(ちょっと前は、この距離が当たり前だったのにな)
今では離れている方が当たり前に近くなり、そして卒業してからは智彰がいない生活が当たり前になるだろう。それが寂しくて、でも寂しいなんて言えず俯いてしまう。
その時、ノートを見終わったのか、智彰が再び俺が差し出したノートの束にはじめの一冊を重ねた。
「いらなかったら、捨てていいから」
「え」
「じゃあな。桜汰も……元気で」
別れの言葉を口にした智彰がそのまま教室を出ていく。
俺の手元に残ったノートの束が、どうしてかさっきよりも重く感じた。
「――って、雨!」
ハッとし、慌てて昇降口へと向かう。智彰の髪がしっとりとしていたのは、彼が傘を持っていなかったからだろう。
だが、階段を駆け下りた先、下駄箱も通り過ぎて校舎から飛び出すと、雨はすっかりあがっていた。
むしろどこかカラッとした天気になっており、さっきまでの雨はただの通り雨だったらしい。
明るく射す日の光が正門までの道をまっすぐに照らす。それはまるで、俺たちの門出を、俺たちの別れを、祝っているようにも見えて俺は目蓋を伏せたのだった。