11.ありよりの
「……スマホ、ねぇじゃん」
逃げるように智彰の家を飛び出した俺がそんなことを呟く。謝罪、そしてあわよくば弁解、なんて考えても、それを送る方法がなく、そして明日は無情にも皆平等にやってくるものだ。
はぁ、とため息を吐きがくりと項垂れる。
これでは今日の晩御飯おかず戦争は大敗だろう。
「むしろ食べる気があるだけ図太いな」
まだ未遂で良かった、なんてずるいことを考える自分に辟易とする。まだ未遂なら、言い訳が叶うかもしれないと希望を見出す自分が大嫌いだ。
そんな鬱屈した気持ちを抱え、迎えた朝。
学校に行きたくない、なんてぎりぎりまで戸惑っていたせいで家を出るのがいつもより遅くなり、「遅刻するわよ」なんて母に叱られながら開けた玄関。
「おはよ」
「と、友彰!?」
何故かまるで昨日のことなんてなかったかのように、友彰が迎えに来てくれていた。
「寝坊でもしたのか?」
「えっ、いや……」
「まぁ、まだ普通に歩いても間に合うか。行こうぜ」
「お、おう」
(もしかして昨日のって、全部俺の夢だったのかも)
思わずそんな希望が芽生え、
「スマホ忘れてたぞ、いや、俺が返し忘れたんだけど」
という、〝現実だった〟という事実を突きつけられて息を呑んだ。
昨日のことを智彰がどう思っているのかわからない。もしかして昨日俺が勝手にキスしようとしたことに気付いてないのだろうか?
何事もなくしれっとしていていいのか、それともやはり謝罪から入ればいいのかわからず、俺はひきつった笑みを浮かべながら、差し出されたスマホを受け取った。
どうしよう、どうすればいい?
混乱し、無言でただただ歩く。いつもは息がしやすい智彰の隣だというのに、今日はやたらと息が苦しかった。
(このままだとすぐに学校についちまう)
学校に着いたところで同じクラスだし、話そうと思えばいくらでも話せるが、クラスメートがいる中で拒絶されたら――
そんな不安が過り、俺は思わず立ち止まった。
「桜汰?」
「……その、昨日の、話なんだけど」
いつから目が覚めていたのかを聞かなくては。そして次は、どう思っているのか、だ。
そう思い、意を決して口を開く。
「いつから……つか、何か、気付いたか?」
ひよった言い方をした自分を殴りたくなる。この聞き方はあまりにもズルい。
だが、そんなこと智彰は気にしなかったのか、むしろどこか不思議そうに首を傾げ、そして爆弾発言が投げられた。
「昨日のって……、桜汰が俺にキスしてた話か?」
「なっ、してないッ!」
あまりにも平然とそんなことを言われ、一瞬唖然としてしまう。そして慌てて首を左右に振った。
「あぁ、未遂だったのか」
「未遂って……」
(いや、その通りなんだけど)
ふぅん、と少し考え込んだ様子の智彰の指先が昨日のように自身の唇へと触れる。
この会話が居心地が悪く、また智彰の反応がどういった感情からくるものなのかがわからなくてつい身構える。
何を言われるのだろう。そんな不安が溢れそうになり、俺はごくりと喉を鳴らした。
「――もし、もし桜汰が俺のことを好きなら」
そこで一度智彰が言葉を区切る。そして。
「本当に付き合ってみるか? ありよりのありだと思うんだけど」
(ありよりの、あり?)
日本語だと理解できるのに、どうしてか意味が理解できない。戸惑い、ハクハクと口だけを動かす。息が、うまく吸えなかった。
「ほ、んき、か?」
必死の思いで口にできたのはたったそれだけ。
俺たちの未来は、離れて終わるだけだと思っていた。六年間で築いた友人関係が壊れるわけではないけれど、それでも開いてしまった距離が、互いの、智彰の。彼の優先順位を変えるだろうと思っていたのに。
(俺を優先してくれるってことなのか?)
もしここで俺が頷いたら。俺の積み重ねて拗らせたこの恋を、想いを、受け止めてくれるのかと思ってドクンドクンと心臓が激しく音を鳴らす。
けれど。
「もし不安なら、俺の進路を変えてもいいし」
「――は?」
「公募制推薦は、蹴っても学校にも後輩にも迷惑かからないからな。今から受験先変えて……うん、願書も間に合うし」
ひとり納得したように頷きながら話を進める智彰に、全くついていけない。
何を言っているのだろう。冗談?
(今から受験先を変える? 冗談だよな?)
あり得ない。だって、父親のいる大学を目指すんだって、実はずっと頑張っていたことを俺は知っている。
「部屋に散りばめられた星たちも……自分の目標も……全部、全部なかったことにするってことか?」
「桜汰?」
「――ない」
「よく聞こえな……」
「お前とは、付き合わない……ッ!」
カッとなり、怒鳴るように声を荒げる。
じわりと視界が滲み、地面にはハタハタと落ちた雫が土に吸い込まれ、地面に跡だけを残した。
「冗談だったら最悪だ。でも、本気だったらもっと最悪だ!」
「ちょ、突然何を」
「俺は、夢を追うお前が好きだったんだ、今のお前じゃねぇよ!」
「ッ」
怒鳴るだけ怒鳴り、智彰を置いて早足で校門をくぐる。教室へ向かおうと思ったが、高三にもなって泣きべそかきながら登校なんてできるはずもなく、仕方なく俺は人の少ない校舎奥のトイレへと向かったのだった。