筆洗バケツ
「086番さん、ここ。」
審査員のいかにも人相の悪いおばちゃんが資料をボールペンでつつく。
「やけにここだけ黒っぽいんだけど、そういう雰囲気のシーンじゃないよね。あおぞらくんがみんなと仲良くなるために虹をかける、素敵なシーンのはずでしょ。」
盲点だった。そこの黒は本意じゃない。つい筆の芯の方に黒の絵の具が残ったのを見落としたんだ。
そんなところをいちいち指摘するなんてやはり顔の通りの性格のようだ。
いや、そこに気づかないのが今私が絵本作家になれていない所以か。
「……しかし、そこ以外の出来はかなり良いわ。この調子よ。じゃあ席に戻ってちょうだい。」
褒めてくれた、おばちゃんありがとう!天使!人相悪いとか思ってごめん!
「結果は後日郵送させていただきます。それでは、本日は御足労頂きありがとうございました。」
なんだかんだ一瞬だった。なんとも言えない複雑な思いで豪勢なビルを出て少し歩くと、彼の車があった。
「おかえり奏。どーだった?」
彼の少し気の早い半袖シャツから出る腕に、小さな注射した後の絆創膏がある。病院に行ったのか、はたまた献血か、普段気にならない小さなことが気になった。
「直樹くん、それ……。」
「あ、これね。若干頭痛かったから病院行ったんだよね…結果は後日だけど、おそらくは気圧によるものじゃないかってさ。」
人の心は水彩だ。いくら彼に会えて青く晴れていた私の心でも、少し。ほんの少しの黒が混じった心は、もうただの青色じゃない。
「え、大丈夫なの?まぁ大事じゃなきゃいいけど…」
喋っているといつの間にか車はアパートの前まで来ていた。部屋に戻ると彼はコーヒーをそっと淹れてくれた。私の新作の結果が芳しくなかったことを察したのだろう。彼はまだ夕方だと言うのに頭痛薬をボリボリと噛みながら寝室へ行き、眠りこけてしまった。
いつもより角砂糖がひとつ多いはずのそのコーヒーは酷く苦く感じた。