野ばらときつね
会いたい。
会いたい。会いたい・・・
どうしてあなたは、ここにいないの?
どうして、どっちをむいても、あなたは、いないの?
とくん。
あのとき、鼓動というものを、初めて感じた。
これが鼓動だということを知るには、もう少し時間がかかったけれど。
からだのなかを流れる水の音とは違う。
そとを吹く風の音とも違う。
とくん。
それは、自分がなにか違うものになった証だった。
わたしを変えたあのヒトは、なのに、背中を向けて行ってしまった。
***
風の強い日だった。
陽射しは温かくて、とても気持ちよかった。
いつからそこにいたのかは分からない。
もうずっと前から、そこにいたんだろうと思う。
大地に根をはり、お日様と風と雨と。
そういうものに囲まれて、わたしは生きていた。
わたしの周りにあったのは、平穏な幸せ。
あのころが一番、わたしは幸せだったのかもしれない。
あれは、わたしに咲いた、初めての花だった。
自分に花が咲くことを、あのとき、わたしは初めて知った。
なんだか、嬉しかった。
嬉しいという気持ちを、あのとき、初めて知った。
見渡せば、草たちは、たくさん花をつけていた。
みんな、頑張って生きているんだなと思った。
みんなと自分も同じなんだと思った。
かさり、という音がした。
いつもの、さわさわという風の音とは違う。
草たちはいっせいに身構える。
敵?危険?
恐怖と警戒と。
それがいっせいに伝わってきた。
姿を現したのは、白くて眩しい生き物だった。
キツネ、という名前が伝わってきた。
これがキツネというものかと思った。
キツネは、真っ直ぐに、わたしにむかってきた。
怖かった。
怖いのに、目が離せなかった。
なんて、きれい、なんでしょう?
きれいなものには心を奪われるのだということを、初めて知った。
近くに来たキツネは、するすると姿を変えた。
草たちがざわめく。
ヒト?
キツネがヒトに変わった。
周りの草の教えてくれることが、イマイチ、よく分からない。
青虫が蝶になるように、キツネはヒトになるのかしら?
そのヒトも、とてもきれいだった。
きらきらした髪は、雲間から下りてくる月の光のよう。
金色の瞳は、お日様のよう。
そのヒトは、ゆっくりとこちらに蔓を伸ばしてきた。
躊躇いもなく、真っ直ぐに。
まるで、そうするのが当然とでも言うように。
怖い、と思った。
そのとき。
「あ、ちちち・・・」
ヒトがそう鳴くのが聞こえた。
きれいな音だった。
ヒトの鳴き声は、今まできいたどんな音よりも、心地よく響く音だった。
ヒトの蔓に、自分の棘が刺さっていた。
このきれいな人を、自分は傷つけてしまったのかと思った。
強い後悔と罪悪感。
けれど、そのうしろに、ほんのちょっぴりの・・・これは、なに?
わたしは、喜んでいる。
あのヒトを傷つけて。
あのヒトに、自分が小さな棘を刺したことを。
ほんのちょっぴり、自分があのヒトに何かを残せたことを。
喜んで、いた。
ぽたり、と落ちた赤い雫。
途端にそこから熱を感じた。
陽射しのぬくもりとも違う。
熱い。
その瞬間、とくり、と何かが自分のなかで動き出した。
***
あのきらきらしたヒトと、もう一度、会いたい。
わたしはそう思った。
あのきらきらしたヒトに似た姿になりたくて。
わたしは、ゆっくりゆっくり、姿を変えた。
あのヒトによく似た白い髪。
わたしの花の色と同じ。
あのヒトによく似た白い衣。
キツネのときには、あのヒトも全身真っ白だったから。
わたしは幸せだった。
あのヒトとそっくりになれたから。
わたしは歌を歌った。
喉を震わせる声は、風の音とも水の音とも違っていた。
長い間、そうやって風に吹かれていた。
毎日、少しずつ、自分の姿を変える。
あのヒトにもっと近付けるように。
でも、そうだ。
せっかく姿の変わったわたしを、あのヒトに見てもらいたい。
けれど、あのヒトはやってこない。
待っても待っても、あの姿を見る日はこない。
会いたい。
会いたい・・・
・・・会いたい・・・
・・・・・・会えない・・・・・・
こんなに辛い思いをするくらいなら、あのヒトを知らなければよかった。
永遠に長閑な風に吹かれていたかった。
いっそ、強い風に吹き折られたい。
やまない雨に、腐って落ちたい。
長い長い間、わたしはそう思い続けた。
明日は、折れよう。
明日は、朽ちよう。
けれども、季節は穏やかに過ぎ、春がきて、夏がきて、秋がきて、冬がくる。
ときに、強い風が吹いても。ときに、長い雨があっても。
わたしはただ静かに、そこに咲き続けた。
どうして?
・・・会いたい!
心の声が溢れだす。
止められない思いが、零れて、堕ちた。
ぽとり、と落ちた、赤い雫。
そうだ、これはあのとき、あのヒトがわたしにくれたもの。
ぽたり。ぽたぽた・・・
わたしの白い衣が、あのヒトの色に染まる。
楽しい。嬉しい。
これでもっと、あのヒトに近付ける。
今のわたしは、もっと、もっと、綺麗でしょう?
いつの間にか、わたしの周りからは草の気配がしなくなった。
訪れていた鳥も、小さな獣も、姿を見せなくなった。
荒れ果てた地に、わたしはひとりになった。
かまわない。
これならきっと、あのヒトもすぐにわたしを見つけてくれる。
もしも、この世界に咲く花が、わたしだけになったのなら。
あなたはきっとわたしを見つけやすいでしょう?
楽しくて、可笑しくて、笑いがこみあげた。
ほら、きっと、もう少し。
そうしたら、あのヒトはわたしをもう一度見つけてくれる。
わたしは泣き続ける。
この涙は止めたくないから。
瞳が溶けても。姿が溶けても。
手も足も、棘の生えた蔓になった。
この棘で、あなたを絡め獲りましょう。
もう二度と、わたしから離れていかないように。
わたし、綺麗になったかしら?
あなたに喜んでもらえるかしら?
こんなに毎日、努力しているのに。
どうしてあなたは来てくれないのかしら?
そうか。
あのヒトとわたしとの間には、まだまだ余計なものが多すぎる。
余計なものがわたしの姿を隠してしまうから。
もっともっと毒を出して、邪魔なものは消してしまわないと。
それにしても、忌々しいのはこの足だ。
どうしてわたしには自由がないの?
鳥や獣のように、自由に動けたら。
迷わず真っ直ぐに、あなたの元へと駆けて行くのに。
・・・動ける足がほしい。
いっそ、風になってしまいたい。
会いたい!
心が悲鳴を上げる。
これ以上、もう、一刻も待っていられない。
そう思ったときだった。
目の前に、白銀色のあのヒトが立っていた。
わたしはありったけの妖力を込めて、あの人へと手を伸ばす。
けれどあの人は、それを全部、断ち切ってしまう。
・・・ええ、そうね。
わたしは、もう、きれいじゃないね・・・
「すまないな。あんたをこんな姿にしたのは、俺だ。
それなのに、元に戻してやることもできない。」
低くつぶやくその声に、あなたの優しい心が見える。
わたしに罪悪感なんて、持たなくていいのに。
元に戻りたいなんて思わない。
あなたと出会わなかったころになんて、もう戻りたくない。
「せめて、一瞬で終わりにしてやる。」
有難う。
そう、わたしは長い間、このときを、待っていた。
いっそ一思いに、あなたに手折られる、そのときを。
今度こそ、棘を立てたりしないから。
どうか、わたしを、手折って、ください・・・
読んでいただきまして、有難うございました。




