45話:アーニャの三人目
「ルーナ、これを飲みなさい。他はもうダメみたいだから捨てておくわ。明日の分のポーションは今すぐ作り始めるから、心配しないで」
テキパキと動き始めるアーニャに疑問を抱きながらも、ルーナはポーションを受け取った。
「姉さん、どうかした? そこまで急がなくてもいいと思うんだけど」
「ちょっと気になることができたの。信じられない気持ちでいっぱいだけど、多分、間違いないと思う。エリス、あんたの弟をちょっと貸してちょうだい」
「今からですか? 寝る時間が過ぎているので、ジルはそろそろ寝ちゃいますよ」
「構わないわ。ちょっとでいいのよ。素材の選別に付き合ってもらいたいだけだから」
切羽詰まったようなアーニャの雰囲気に戸惑いつつも、エリスは自分にしがみつくジルを見下ろす。
「ジル、どうする? 大丈夫?」
「素材選びなんて、僕、やったことないよ?」
「でも、アーニャさんが手伝ってほしいんだって」
「うーん……」
いつものジルなら、二つ返事で了承していただろう。アーニャの手伝いをするために錬金術を学んでいるのだから。ならば、なぜ即答しないのか……。
結婚すると勘違いしたジルは……恥ずかしい。アーニャが近づいてくると、エリスにビターッ! と貼りつくように抱きつくくらい、恥ずかしくて堪らない。
アーニャお姉ちゃんが変なこと言うから~、と、自分が聞き間違いをしただけなのに、アーニャのせいにする始末。ジッと見つめて歩いてくるアーニャの足音に、ジルの興奮は止まらない!
しかし、アーニャは違う。目の前の子供が、自分よりも優秀な錬金術師であると思っている。近い未来にそうなるのではなくて、もう追い越されてしまったのだと。だからこそ、治療薬を完成させるために、アーニャはすがりつきたくなってしまう。
自然と立て膝を付き、ジルの目線に合わせるようにアーニャはしゃがみこむ。
「ルーナを助けたいなら、力を貸してちょうだい。魔力を見るだけでいいの。お願い、ジル」
無意識のうちにアーニャは、ジルの名前を呼んでいた。治療薬を作る糸口を模索するあまり、そのことにアーニャは気づいていなかったが。
恐る恐る抱きついていたエリスから離れたジルは、真剣な顔で訴えるアーニャを見て、恥ずかしい気持ちはどこへいったのやら……、応えるように頷いていた。
「エリスお姉ちゃん、行ってくる」
「そ、そう。アーニャさんの、迷惑にならないようにね」
「うん」
呆然とするエリスとルーナを置いて、アーニャとジルは部屋を離れていく。部屋に残された二人は、互いにポカーンッとした顔で向かい合っていた。
「ジルくんの名前、呼びましたよね?」
「ジルの名前、呼んだよね?」
衝撃的な光景を目の当たりにして、二人は呆気に取られていた。
恥ずかしがり屋のアーニャは、基本的に他人の名前を呼ぶことがない。私はあなたと親しい友人よ、と言っているような気がして、気軽に名前で呼べないのだ。
破壊神と恐れられていることもあり、実は自分だけが友達だと思っていた、という展開が何よりも怖い。常に心の距離を一定に保ち、仲良くなろうとするケース自体が稀になる。
冒険者として一緒に活動してきたルーナでさえ、誰かを名前呼びした記憶は……エリス以外に存在しない。どうしても呼ぶ必要があるときは、「偉そうなデブ」「髭オヤジ」「貴族のボンクラ」など、悪口で表現してばかり。
人の名前は覚えられないのよ、と誤魔化し続けて、二十二年。初めての友達は、エリス。そんなガードの固いアーニャが、ジルの名前を呼んだのだ。それも、あまりにもナチュラルに!
「私、アーニャさんに名前呼んでもらうの、一年以上かかったんだけど」
ツンデレ、コミュ障、恥ずかしがり屋という三点セット付きのアーニャは、名前呼びに代えるだけでも一苦労する。エリスとはもっと仲良くしたい、と思い続けたアーニャは、半年以上も名前で呼ぶことができていなかった。
羞恥心が抑えきれず、「エ……あんた」「エ、エリ……あんた」「え、エリ……エリ! ……襟が汚れてるわよ」と、何度もエリスに襟の汚れを指摘し続けていたのだ。ちなみに、エリスの襟が汚れていることは一度もない。
当然、エリスは気づいていた。名前で呼んでもらえるかもしれないと思い、頑張れ、頑張れ! と応援するような目で見ていたのだが、それがまた緊張を生む原因の一つになり、長引いてたのだった。
「私以外で名前を呼ばれてるの、エリスさんぐらいですよ。内緒にしてましたけど、エリスさんとお近づきになる方法を何度か相談されましたから」
「その話、詳しく聞いてもいい?」
「ダメです。姉さんが恥ずかしくて発狂してしまいそうなので」
「そんなこと言わないで。お願い! 絶対に言わないから」
「姉さんが異性の名前を呼んだのって、これが初めてかも」
「無視しないで! 一生のお願い! 一生のお願いを使うから!」
この後、エリスの一生のお願いはルーナに届くことはなく、アーニャのプライドは守られるのだった。




