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「あ…」
ルイス殿下の、温度を感じさせないサファイヤの瞳が、こちらを捉える前に、アレンは慌てて顔を背ける。
「アレン、大丈夫かっ?」
すぐ駆けつけたフリッツが、身を起こすのを手伝ってくれる。
「アイリーン様、こちらの方のお着替えは俺が。アレンは紅茶を頼む。」
突然の王子の訪問にも関わらず、フリッツは落ち着いたものだ。
「…急いでお願いね。お風邪を召されてしまうわ。」
アイリーンは、一瞬、不服そうな顔をしたが、フリッツの申し出を却下することはしなかった。
「かしこまりました。」
カミーユは、顔を上げられないまま、キッチンへ向かうのがやっとだった。
◇◇◇
信じられない。もう二度と会わないと心に誓った王子様が、いきなり、目の前に現れた。けれど、再会したルイス殿下に、昔の面影はあまり探せなかった。一目見た時に思ったことは、「ゲーム通りの王子様」ということだった。
目映い金色の髪に、宝石のような青い瞳、スッと通った鼻筋と、着やせする彫刻のような美しい体躯。その麗しい姿に魅了されて近づいたら最後、彼は人形のように表情がなく、決して誰にも心を開くことがない。
「氷の王子」…乙女ゲームではよくありそうなキャラクターだが、実際、近くで目の当たりにすると、鳥肌が立つほど凄まじいものがあった。それだけ、彼の抱える孤独が深いのかもしれない。
「なぜ、加奈倉さんは、ここに王子を連れてきたの…」
ゲームのシナリオでは、二人は森でそのまま別れるはずだ。まさか、私がカミーユだと正体をバラす気じゃあ…。そう思うと身震いがした。ルイス殿下は今や、戦争で次々に他国を落とす、覇道まっしぐらのヤバい統治者だ。今の王子なら、逃亡した罪で、カミーユとその執事リードンを手に掛けることなど容易いだろう。
「アレン、大丈夫か? 俺も行くよ。」
背後から、フリッツが心配そうに声を掛けてきた。
咄嗟に、父さんを庭に隠してくれた、フリッツの機転の素早さには舌を巻く。
「いいえ、大丈夫よ。わたし一人で行くわ。」
しっかりしなければ…湧いてきた不安感を振り払う。ここで怯えた態度を取れば、ルイス王子に不審に思われてしまう。
それに、ここで捕えられても、運良く逃げ失せられても、彼に…かつての婚約者に、紅茶を淹れるのはきっとこれが最後だ。渾身の一杯にしたいと、カミーユは深呼吸してから、清廉な白手袋をはめて、ティーカップを手にとった。
◇◇◇
2階のテラス席で、ルイス王子とアイリーンは向かい合って座っていた。
夕暮れ前の、眩しい黄金色の日差しが、過剰なくらい二人を照らしている。やがて恋人同士になる運命の二人の、付け入る隙のない完璧な画に、カミーユの心がチクリと痛む。
「失礼いたします。」
アレンは、なるべく顔を伏せながら、アフタヌーンティーのセットを手際よく準備していく。
「この者が淹れる紅茶は絶品です。ぜひ、あなた様にも味わっていただきたくて。」
アイリーンはそう言いながら、優越感に浸ったような視線をカミーユに向けた。
(もしかして加奈倉さん、ルイス王子を…未来の恋人を私に自慢したくてここに連れてきたの?)
カミーユの手が、僅かに震え、ティーカップはカチャリと音を立てた。
「キレイな色だ。」
ルイス王子は、すぐ紅茶に口は付けず、ルビー色に光る液体を見つめていた。
「どうぞ、召し上がってください。」
カミーユが促すと、王子は長い指をティーカップに沿わせ、ゆっくりと、その形の良い唇に運んだ。何ていうことのない仕草なのに、王子の所作の一つ一つは、優雅で、他を威圧するほどの気品が溢れている。カミーユが目を離せないでいると、どうやらアイリーンも同じだったようで、うっとりとルイス王子を見つめていた。
「味も香りも良いな。なぜか懐かしい人を思い出す。」
そう言って、急にこちらに向けられた王子の視線に、カミーユの心臓が跳ねた。
「君はいつから、この屋敷へ?」
「え? えーっと、ずっとです。生まれた時からずっと。」
王子の視線が怖くて、掛けていた分厚い眼鏡を、整えながら顔を逸らす。
「そう…ではこれからも、この屋敷で働くつもりなのかな?」
「それは…」
なぜ王子はそんなことを聞くのだろう…。どう答えてよいか分からず、カミーユは言葉に詰まった。
「この者は、まもなく他国へ移住します。アレン、もう下がってよいわ。」
なおも、カミーユの方を見ている王子に、痺れを切らしたアイリーンが口を開いた。
「で、では、失礼いたしま――――ひっ!!」
そそくさと、その場を立ち去ろうとする、カミーユの腕を王子が掴んだ。
「単刀直入に言うと、私は君の紅茶が気に入った。今日から、王宮に来てもらおうか。」
「えっ?!」
「申し遅れたが、私は、ルイス・ウェヌス・エヴァグリーン。」
(ルイス王子は一体何を?! ゲームのシナリオでは、今度、アイリーンと再会した時に、正体を明かすはずなのに、既に名乗っちゃたし…!!)
呆気にとられる、カミーユとアイリーンの間に、フリッツがやってくる。
「殿下、私は幼いころから、この者と一緒に育ちましたが、とても王宮に勤められるような器では―――」
「それは私が決めることだ。下がれ。」
ルイス王子の、有無を言わさぬ低い声が、その場の空気を一変させた。それは、幼い頃にはまだなかった、命令することに慣れた王者の口調そのものだった。
「ちょうど、迎えが来たようだ。行こうか、アレン。」
門の辺りで馬車が止まる音がする。
後退るカミーユの肩を、構わず王子が抱き寄せた。
「殿下っ!」
アイリーンが、両手を広げて扉の前に立ちはだかった。
「お待ちください!! その者はこの屋敷の使用人で―――」
叫ぶアイリーンに、王子は、一歩、また一歩と歩み寄った。
「今日はありがとう、アイリーン嬢。この礼は、またいずれ。」
緊迫した空気の中、至近距離でお見舞いされた氷の王子の不意打ちの麗しい微笑みに、加奈倉さんは、一瞬で顔を真っ赤にして固まってしまった。