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晩餐の会場全体が、紅茶の良い香りで包まれていく。
「独特のルビー色ね、美しいわ。」
セリマ女王は興味深そうにティーカップの中身を覗き込んだ。
「ルイーザ島のハイビスカスと、エヴァグリーン国の旬の茶葉をブレンドしました。」
アレンは手際良く、貴賓席の紅茶を注いでいく。最初はパドン君に、この席の給仕頼もうと思ったのだが、どうしても引き受けてくれなかった。
「まぁ、両国の友好の象徴のようですわね。」
女王は、ルイス王子の方を見て微笑んだ。
「ええ。こうして私が赴くまでもありませんでしたね。」
冗談混じりにルイス王子も微笑む。
「ほほっ、殿下は毎年お忙しいようでしたから、久しぶりにこうしてお会いできて、わたくしも嬉しいんですのよ。」
セリマ女王が穏やかに笑う。
身内同士のティータイムのような、和やかな歓談の声が、会場全体でも響いていた。それはイバロアの喫茶店にいた頃から、アレンの大好きな雰囲気だった。
(よかった…ルイーザ島の一部の人たちは、ここ数年領土拡大を続けていたエヴァグリーン国を警戒してたみたいだったから、これで少しでもルイス王子に貢献できたのかな…。)
「失礼ながら、ルイス殿下、ご婚約者様のご消息は、まだ不明なのですか?」
ルイーザ島の王族の男性の一人が口を開いた。
「これ、口を慎みなさい。」
ルイス王子が口を開く前に、セリマ女王が嗜めた。だが、男は続けた。少し酒に酔っているようだった。
「申し訳ありません。ですが、ルイス殿下のあまりに凛々しいお姿に、ルイーザの4人の王女たちも、すっかり釘付けのようでしたので。せひ、我が国から、候補を選んでいただければ光栄に存じます。」
男は、4人並ぶ王女の方に手をスライドさせて、ルイス王子の視線を促した。途端に王女たちは頬を赤く染めて色めき立つ。
(ど、どうしよう…このタイミングで…)
アレンは、紅茶を注ぐためにルイス王子の隣に移動した。紅茶を注ぐ手がわずかに震え、カチャリ、とティーカップが鳴った。
「どうか、晩餐の席の戯れごととお聞き流し下さいね。殿下。」
セリマ女王はさらりと笑った。しかし、その様子は、ルイス王子の反応を期待しているようでもあった。
「申し訳ありません。私の生涯の伴侶は、カミーユ・オッセン、唯一人です。」
「っ!」
その時、王子はテーブルの下で、アレン左手を軽く握った。
(ルイス殿下…!)
王子はそのまま、アレンの白手袋の上からルビーの指輪ごと、薬指に円を描くように優しく撫でた。
「ちょっ…離し…」
軽く指を握られているようで、なかなか手がほどけない。
(このままじゃ誰かに見られてしまう…!)
視線で訴えようとしても、ルイス王子は、全然目を合わせてくれない。
「さすがはルイス殿下、素晴らしいおこころばえですこと。カミーユ嬢の無事を心から願っていますよ。」
セリマ女王は少し残念そうに言いながらも、優しく微笑んだ。
「ありがとうございます。次回は、必ずカミーユと一緒にここを訪れましょう。」
紅茶を注ぎ終えると、やっとルイス王子は手を離してくれた。
「では、貴国と我がエヴァグリーンの友好の証に。」
王子は軽く立ち上がってティーカップを掲げると、会場からは大きな拍手が沸き起こった。
続いてセリマ女王が口を開く。
「実にすばらしい一杯であった。そなた名は何という?」
「え?」
(あれ…この展開、覚えがある…前世の乙女ゲームでは、確かアイリーンが歌い終えた後に…セリマ女王に名前を聞かれていたような…)
ポカンとするアレンに、隣のルイス王子が、自然に肩を抱いて耳元で囁いた。
「今ここで、君が、カミーユと名乗り出ても私はいっこうに構わないが、どうする? すぐに、キスして、元の僕の愛しいお姫様の姿に、戻してあげようか?」
ルイス王子の、誘惑するような甘い声が、脳の奥までじわじわと響く。
「…っ」
(こんなところで公開キスなんて冗談じゃないっ。それに、ここでカミーユの姿に戻ったら、これまでの半年間の努力が水の泡だわ…!)
辛うじて、王子の腕から逃れて、セリマ女王の方に向き直る。
「ぼ、僕は、アレン。アレン・バーデンと申しますっ。」
「アレンか、覚えておこう。これを授けましょう。」
セリマ女王はアレンの手を取って、
夜光貝のブレスレットを渡した。
(これは、アイリーンは受けとるはずのアイテム、魔力増強の夜光貝のブレスレットだわ…!)
拍手はさらに大きくなり、ルイス王子やルイーザの女王…さらには、アレンまでも称える声が、あちこちで叫ばれている。
ほどなくして、フリッツやパドン君
が走り寄ってきた。
「ほら、やっぱりアレンはすごいよ! 君は、もっと自分に自信を持った方がいい。」
「パドン君…」
パドン君は、自分のことのように誇らしげに言ってくれた。
「まぁ、それは同感だな。お前は、誰にも、何にも遠慮することない。そのまま胸を張っていけよ。」
「フリッツ…った!」
フリッツには、思いっきり背中を叩かれた。
(そうか…たとえ主人公じゃなくったって、私は私らしく、この世界を生きていけばいいんだ。ルイス王子と離れるのは、正直、胸が痛くて、苦しくて仕方ないけれど、やっぱり私は、悪役令嬢にはなりたくないし、ならない。そう決めてしまうと、不思議と心が軽くなっていくようだった。)
アレンは、かつてのイバロアのお店のような和やかな会場のムードが嬉しくて、アイリーンの殺気にも似た鋭い視線に、全く気づかなかった。




