鉄壁のガンズー、再び走れ/ノインノール
「ね、寝かしつけたはずだったのです。他の子たちと同じように……でも、でもさっき、パウラちゃんがやってきて」
ノノが消えていた、ということか。
「みんなで手分けして敷地内もくまなく捜したんです。でも、どこにも……」
「誰か――いや、なにかが侵入したってこたぁないのか」
フロリカはかぶりを振った。
「協会のかたが見張りに立ってくれて――ああ、でも、あのかたたちも気づけなかったんです。私、ぜんぜん知らなくて――」
気持ちが高ぶっているのだろう、だんだんと支離滅裂になっていくフロリカ。
滅多に触れすぎるのもためらわれたが、ガンズーは彼女を落ち着かせようと肩をぽんと叩いた。
「おい落ち着け、なにを知らなかったって?」
「こ、子供たちが言ってたんです。院の子たちが。塀にひとつ、小さな子が通れるくらいの穴が開いてるって。きっとその話を誰かがしていて、聞いてたんだろうって。私、私いつも気をつけてたのに……」
とうとう顔を覆って泣き出してしまったフロリカに、ガンズーは声をかけられない。
話のとおりであるなら、ノノは自ら院の外へ出たのかもしれない。
彼女たちや協会の連中を責める気にはならなかった。
彼らも無能ではないだろう。もし魔物のたぐいや賊の侵入であったなら、きっと即座に気づいた。
見張りというなら、マナや瘴気の感知くらいできる者が送られたはずだ。
外から来るものに対してはそれでいい。だが、内から抜けようとするものならばどうか。
以前、セノアが言っていたことを思い出す。虹の眼は、マナの循環を促す。瘴化体への純化を起こしやすいかわりに、マナの蓄積を解消しやすく、汚染からの回復も早い。
つまり、身体にマナが残りづらいため、魔導的な感知にかかりにくい。ミークくらいの技能が相手でもない限り、潜伏はお手の物だと。
ノノはまだ小さい。多分、三歳か四歳かそれくらいだろうと思う。
当然、魔術の心得などきっとまだ無い。あるのはその天性の体質だけだ。
ただでさえ子供はマナの蓄積が少ない。虹の眼であればなおさら。だからこそ魔物たちは、原始的な手段でもって彼らを探すのだ。
夜の闇の中で、外からの刺客に備えながら、まさかその子供が抜け出すと思うだろうか。
ガンズーは、もし自分であれば、簡単に見逃してしまいそうだと思った。
「あんた、どこまで捜しに回るつもりだ?」
「私、南門へ行くところだったんです。他は協会のかたが向かってくれて。もし間違って街の外に出てしまったらって」
アージ・デッソには東西南北それぞれに関所が設けられている。ノノがそこから街の外へ出ようとしたなら、さすがに門番が気づく。
しかしこの街は城壁で覆われているわけではない。抜け出そうと思えば可能ではあるだろう。
だがガンズーは、ノノは街の中にいるだろうと思っていた。
「わかった。南門はあんたに任せる。だが、そっちを確認したらあんたはすぐ院に戻るんだ。こんな時間にひとりでいたら危ねぇ」
「でも――」
「でもじゃねぇ」
ガンズーはフロリカの目を見て、
「ノノは俺が見つけ出す」
そう言ってから駆けだした。つい今しがた歩いてきた道に向かって。
ちょうど冒険者協会から出てきたのは、先ほど話をした受付嬢を含めて五人だった。
協会の事務所は完全に消灯されていて、無事に今日の業務を全て完了したか、あるいは諦めるなりしたことがわかる。
目の前に駆けてきたガンズーに、受付嬢は目を丸くしていた。
「わりぃ、聞きてぇことがある」
◇
アージ・デッソの街には川が流れている。
カルドゥメクトリ山脈のうちの一つ、ウルヴァトー山から出でる大いなるヴァーユ川からそれたその支流は、古くからアージェ川と呼ばれ、この街が冒険者たちの中心地として栄えるはるか以前から地域の礎となっていた。
北東から南西へ街を切り裂くように流れるその川は、アージ・デッソにとって生活用水であり上下水道であり運河であり、町の中心ともいえる。
中央広場の噴水もこの水を引きこんで利用されていた。
街の北東端、木々に囲まれたアージェ川のほとりに、一軒の家があった。
かつて川船の置き場であったものを人が住めるようにしたその家は、とても小さい。見る者によっては、ちょっとした物置のようにしか見えないだろう。
そんな小さな家を、ノノは好きでも嫌いでもない。
そもそも他の家を知らないのだから、好きも嫌いもないし、便利とも不便とも思わない。
修道院に併設された孤児院を、ずいぶんと大きな建物だと彼女は思ったが、だからといってそれが良いことなのか判断がつかなかった。
そこにいた子供たちが、ここは狭くて面倒だと言っていたが、いまいちよくわからなかった。
ただ、寂しいとだけ思った。
街の北東区画は主に住宅街で、家々の並びを抜けてさらに北東に出ると、開発の進んでいない林がまばらに広がる。
その雑木林の合間、なかば獣道のように低木のひらけたところを、アージェ川を横目にして歩けばその家はある。
月明かりだけを頼りにノノは道を歩く。
ときどき、林の枝葉が月を隠すので、辺りは川の水音しか聞こえない真っ暗闇になるが、怖いとは思わなかった。
この道は母と歩いた道だから、怖いわけがなかった。
我が子の目が虹色に輝くと知って、母はなるべく彼女を人目につかせないようにした。
父もそれに異論は無かったようで、記憶にある限り両親以外の人間とほとんど会ったことがない。
幸い、産婆はそれに気づかなかった。
それでも、外に出なかったわけではない。
ノノが外出できる歳になると、母は深いフードを被せた我が子を抱いて、街を散歩した。
可能な限り住宅街や街中には近寄らなかったが、彼女にアージ・デッソの街を見せた。外の世界を見せた。
そして歩けるようになると、その手を引いて、母は林を歩いた。
母と見るアージ・デッソのほんの切れ端は、しかしノノにはとても美しくとても雄大に感じた。
陽光の中をそよぐ木々の枝葉と、きらめくアージェ川の水面と、遠く人々が行き交う街の景色が、幼い身に己の生きる場所の価値を教えた。
少しひらけた場所に出て、ノノはふんと鼻を鳴らす。
道を行くことに恐怖は感じていない。だが、人間は本能的に暗闇を恐れる。自覚はなかったが、夜の林道は彼女の体力を大いに奪っている。
それでも彼女は、とことこと小さな家に向かい、両手で扉を引き、誰もいないことがわかると、中に入らず扉を閉めた。
ひらけた林の淵に近づくと、地面を掘り返して埋めなおしたような跡がある。
ノノはそこにあるはずのものが無いことに気づいて、辺りを見回した。月の光だけを頼りに目を凝らす。
ほどなく、目当てのものは見つかった。
折れた枝を不器用に組んだだけの、大人の手のひらほどの大きさしかない丁字架だった。
蹴り飛ばされたように遠くに転がっていたが、どうにか壊れてはいない。
ノノはそれをむんずと掴むと、地面の跡のあたりに突き立てようとしたが、なかなかうまく立たない。
土を少し集めてきて盛ると、丁字架はどうにか立ってくれた。
パウラのことを思い出す。
ほんの二日ほど一緒にいただけだったが、彼女は泣きながらもノノのことをよく気にかけてくれた。魔獣の放りこむ粗末なパンの、なるべく奇麗な部分を分けてくれた。
彼女の父は死んだ。パウラは、父親のことが好きだった。
寂しくて、悲しいことだと思った。
母が死んだ時、ノノはよく理解できなかった。
ただ数日のあいだ、そこにいるはずの母がいないから泣いて、それからもう母には会うことができないとわかり、もうしばらくして泣かなくなった。
パウラもあまり泣かなかった。でもそれは、自分とは違うものだと思った。
彼女はよくわかった上で、少しだけ泣いた。
ノノは、やっぱり寂しいな、と思った。
そして、できるならば自分もちゃんとわかりたかったなと、そう思った。
「――おい」
後ろから、唐突にかけられる声があった。
よく知る野太い声だった。振り返る。
「なんでこんなとこにいるんだぁ? ノインノール」
首を大きく傾がせて仰ぐと、髭面の男が革の水筒を振りながら見下ろしていた。
よく知る粗野な顔だった。父親の顔をノノはぼんやり見つめる。
「なぁんで戻ってきてんだ、おい。あの商人、逃がしたんじゃねぇだろなぁ……」
ゆらゆらと頭を揺らしながら、父親は続ける――というよりも、独り言を呟いている。
今日もしこたま酒を入れているようで、視線もあまり定まっていなかった。
「おい、どうしたんだよぉノインノール。逃げてきたのか、あ? あいつぁどうしたよ、追ってきてんのか?」
そう言われて、ノノはふるふると首を振った。彼女を魔物たちへ引き渡した商人の行方など、知るところではない。
それから、背後を庇うようにして立った。
「あ? ……ちっ。またそんなことしてやがって」
父親はノノの後ろにある丁字架を見つけると、とたんに不機嫌そうになった。
蹴りつけようとするので、その身で被さるように庇う。
「やっ!」
「どけよお前はよぉ! そんなもん立てて見つかったら、金とられるっつーのがわかんねーのか!」
「やーだっ!」
襟首を掴んで、父親はノノを吊るすように持ち上げた。
首が少し絞まるが、痛さも苦しさもどうでもよかった。ただ、また母と引き離されそうだと思うと、耐えられなかった。
涙がどんどんと湧いてくる。
魔物たちに檻に入れられても、助けの者たちが目の前で死んでいっても、その檻が崖を落ちても泣かずにいられたが、母の死を踏みにじられるのは我慢できなかった。
丁字架は蹴りつけられた衝撃で、今度こそ砕けてしまった。
「やぁだ! ママ、マぁマー!」
「うるせぇなぁ……まぁいいや。別の買い手を見つけりゃ、また金になるしなぁへへへ。ツイてるぜ」
母の眠る場所が遠ざかる。じたばたと暴れてみるが、足は短くて地に届かず、腕は短くて父親に届かない。
母にもう会えない。今度こそ、永遠に。
そう思って、ノノはもしかしたら、死ねば母に会いに行けるのではないかとまで考えた。
ならばもう、父親の言う通りに再び売られるほうが良い気がした。ただ、本当にすんなりと死ねるかどうかわからないのが不安だった。
「ママ……」
「おいノインノール、できりゃあ次も逃げてこいよ。そしたらまた売ってやるからよ、なぁ」
ノノは涙を止めようとするが、これまでせき止められていた涙はたがを外したように流れ続ける。
早く泣き止んで、父親がうまくやれるようにしなければならない。いや、いっそ泣きわめき続けて叩き殺されたほうが早いだろうか。
ノノにはもう、どうすればいいのかわからなかった。
「前の分も、たいした酒代になんなかったからよ。次はもっとふっかけて――」
父親が急に黙ったので、吊るされるまま項垂れるように地面を見ていたノノはどうにか首をひねって前を見た。
巨大な人影が、月明かりの下に立っていた。