鉄壁のガンズー、名前
改めて眺めてみても、ノノの家は小さい。
西へ傾き始めた日差しに照らされ、アージェ川に向かって頭を伸ばそうとしているその影も小さい。
どこかで鳥が鳴いた。さらさらと流れる川の跳ねた水音がほんのり聞こえる。
謎の感慨に耽りながらなんだか突っ立っていたガンズーは、そこで気付く。
ちょっと静かすぎないか。
まさかふたりになにか! と玄関扉をぶち破りかけたが、ギリギリのところで今は昼寝の時間であることを思い出した。静かで当然だ。ダイレクト帰宅などしてしまってはイフェッタになにを言われるかわからない。
突き出そうとしていた右手を慎重に下ろし、静かに扉を開ける。
子供が寝たので、暇そうにしている女がひとり。
そんな想像をしていたが、やはり家の中も静か。誰の姿も無かった。やっぱりなにか! と反射的に瞬間沸騰したがる心をどうにか宥める。
寝室の扉も、それはそれは優しく開けた。
ノノは寝ている。
ぷやぷやと鼻を鳴らして、ひらいた指が妙な形に固まっていた。呼吸に合わせて小指が動いている。ちょっぴり涎が垂れていた。
その横で、イフェッタも眠っている。
ガンズーのベッドで――出かける前より奇麗になっている気がした。洗ったのかもしれない――横に寝る子を包むように、肘を枕にしていた。
窓枠にトンボが一匹、止まっていた。
扉を開けたときには反応しなかったくせに、ほんの一歩前に出ただけで秋の空へと去っていく。
アージェ川のせせらぎだけが聞こえた。
ガンズーはなぜかたいへん挙動不審になった。最大限の注意力でもって一切の音を立てぬようそろりと足先を伸ばす。胸当てや斧が間違っても鳴ってはいけないので腕も半端な万歳のようになる。妙なダンスでも始めそうな姿勢だった。
たっぷり数秒もかけて、彼女たちに近寄る。
しゃがもうとして、斧が引っかかることに気付いて、尻だけ突き出した格好になった。
息も止めるべきだろうか。鼻で深呼吸する。床がみしりと音を立てた。このバカ野郎なんてことしやがる。
彼女たちは起きなかった。
川のせせらぎ。
正体不明の感動の正体がどれだけ考えてもやっぱり不明だったので、きっと自分が正体不明になったのだろう。ガンズーはわけのわからないことを思った。
静かだった。ただただ静かだった。
ふたりは眠っている。自分は無事、帰ってきた。
急に、いつだか夢を見たことを思い出した。いつどこで見たのかも、その内容もほとんど記憶から消え失せてしまったが、とにかく思い出した。
なにか、そんなこと考えなかったな、とか思った気がする。なんだったっけ、そんなことって。
ノノが寝返りを――勢いのいい回し蹴りに近い。危うく蹴られるところだった――打って、ちょっとだけベッドの上で跳ねた。
「ん……」
それでようやく、イフェッタがほんのうっすら目を開けた。
目が――多分――合う。合った。
瞼が開いているのか閉じているのか曖昧な眼差しを受けて、ガンズーはなぜだか固まった。
彼女は間違いなくこちらを見たと思うのだが、さほど反応はせず、少しだけ浮かせた首をまた脱力させて、喉の奥だけ鳴らすようにして深く息を吐いた。目はまた閉じている。
「――帰ってたんだ」
しばらくまどろんでから、彼女は小さく言った。
言ってから、むにゃむにゃとわずかに身を捩る。目は閉じたまま。
すぐに「おう」と言えばいいだけなのだが、すんなり口が動かなかった。なぜこうもドギマギしているのだろう。女の寝姿など慣れて――いや、仲間のふたりは参考にならんな。
「おう」
結局そう言った。
聞くと彼女は、次は早い息をひとつ吐いて起き上がる。そういえば髪をまとめ上げていた。なんだか印象が違う。
ただ、今度こそひらいた瞳は知っているものだった。
「おかえりなさぁい、とかわざとらしく言ってやろうかと思ってたけど、ちょっとタイミング悪かったね」
「さっき戻ってきたとこでな」
「そ」
すたりと立ち上がると、イフェッタは軽く伸びをしてから居間へ出ていってしまった。
ノノはまだしばらく眠る様子だ。ガンズーも続いて、静かに扉を閉めた。
「そろそろ午後三の鐘くらいかな……飯は?」
「へ?」
「だから、飯食ってきたの?」
「あー、そういやまだだな」
「残り物あるから、着替えて座ってな」
竈の前に立った彼女に、なにか言いたいのだがなにが言いたいのかわからない。仕方ないので素直に装備を外し、着替えて、椅子にちょこんと――どしりと――座って待った。
横目に彼女の後ろ姿を収めつつ、うーむと考える。
たった三日で家を占領されたような気分である。そして困ったことに意外とそれが似合っているものだから、悪く感じない。
母ちゃん早くメシ、とか言ってみようかと魔が差したが、もっと恐ろしいものを呼ぶことになりそうな気がしたので魔には去ってもらった。
てきぱきとガンズーの前に皿が並ぶ。とはいっても、簡単なものだし品数も多いわけではない。粉粥、煮物、炒り卵。
ほはー、と間抜けに口を開けてそれを眺めていると、向かいに座った彼女が、
「なにさ」
「いや、なんか。これ、お前が作ったんだよな」
「文句あんの」
「めっそうもござらん。その、割と家庭的なモン作るなってよ」
「こんなで悪ぅございましたね」
「そういうこっちゃなくて」
「さっさと食いな」
「いただきます」
「はいはい」
味は――普通だった。これといって特筆するようなこともない。
ないので、ガンズーはごく普通に食って、ごく普通におかわりを要求した。「夕飯に作り置いといてやろうと思ったのに」とぶつぶつされつつ出されたそれを、やっぱり普通に食って、もうひとつおかわりと普通に言った。
残念ながら、作った分はそれで終いだった。量は最初から十分だったので満足しているが、うーん残念。
「あんたやっぱ食うんだね。けっこう用意したつもりだったけど」
「そうか? 食いっぷりは案外普通ってよく言われるけどな」
「だってこの量……まぁいいけど」
茶まで出してくれたので、ずずずと音を立てながらすする。いつのまにか肩に入っていた緊張が解けていた。
イフェッタも向かいに座って茶を飲んでいる。
「帰ってくるまでどうしてたんだ?」
「どうって、そんなべつによ。ノノちゃんと街中ぶらついたり、遊んだり。あ、ねぇねぇあの子なんなの凄いじゃない。魔術の練習してたわよ」
「おうそうなんだよ凄ぇだろ。土盛ってたか?」
「盛ってた盛ってた。アタシびっくりしちゃってさ」
「そうかできるようになったかぁ。いよいよとんでもねぇな」
「あ、あとばったりニリアムに会ったんだけどさ、なんかあんたに話しときたいことあるって。そのうち協会行ってあげたら?」
「誰だニリアムって?」
「支部で受付やってる娘よ。顔見知りでね」
「ああ、あれか。でもボンドビーはなんも言ってなかったがなぁ」
「なんか別口なんじゃないの」
「ふーん。なんだろな。どうせまたすぐ行くつもりだが」
「そっちはどうだったのさ」
「おう、まぁ、大したこたねぇよ。少しばかり炙られたくらいだ」
「へぇ。なんかヤバイ化け物なんじゃなかったの」
「そりゃそうだったんだが、ほれ、あれよ。俺だし」
「はいはい」
「くそー実際そこそこにはヤベェ奴だったってのに」
「あれは危ないか危なくないかで言ったらたしかにヤバイだったね。ボクはあまり好みじゃないけど、ああいう手もあるというのは興味深いね。技術の進歩というのは凄まじいものだね。ヤバイヤバイ」
「ふーん。じゃあやっぱり危なかったんだ」
「そうだぞ、あんなの街に来てみろ大騒ぎだぜ」
「自然に来ることは無かったんじゃないかな。少なくとも普段は生存本能を優先させるよ。そうじゃないと面倒くさいものね。面倒みるならいいけどね。ボクなら大変そうだしちょっとイヤかな。カエルちゃんならいいけどね」
「へー。オタマジャクシとかの面倒みるの?」
「お前のオタマとかどんだけでけぇんだ」
「幼体の子たちはボクのことよくわかんないみたい。おっきい石とかだと思ってるんじゃないかな。かわいいね。まあ成体でもボクのことわかんない子ばっかりなんだけど。ボクかなしい」
ふむ。
ガンズーはひとつ考えて、イフェッタを見た。
それから、彼女と自分のあいだに鎮座する蛙を見た。
その蛙を鷲掴み、テーブルの下に引っこめる。破裂寸前に絞られた生物の口からぺぺぺぺぺと危険な音が鳴る。
「無かったことにしてくれ……!」
ガンズーは震える声で言った。
「あぁ。べつに気にしなくていいわよ。初日から喋ってたし」
「お前おとなしくしてろって言ったよなぁ!?」
「ボクおとなしかったよ。だってキミがあんまりおっかないって言うんだもん。どんな子が来るかなって思うじゃない。おっかないとこ見てみたかったからちょっとお話してみたんだよ。キミなんかよりずっと優しいねそろそろ胃が出ちゃうね」
放り投げるようにケーを落とす。ばいんと跳ね返ってきてテーブルに戻った。
見てみろよこの謎生物を。なんであっさり受け入れてんだよ控えめに言って魔物のたぐい、もっと言えばエイリアンだぞこんなもん。
というようなことを言うと、彼女は笑った。
「だってあんたもノノちゃんもほっといてるんでしょ? ていうかノノちゃんと友達だって言うじゃない、いいんじゃないの喋るくらい」
「ほらねキミ聞いた? ボクはね、ノインノールの他にも仲良くできるんだよ。そのほうがノインノールも喜ぶからね。キミはもっとボクを見習ったほうがいいよ」
「そーそー。なんかよく見たらカワイイしね」
「あっあっ、ボクもうダメ」
蛙の頭や腹や首――首? たぶん位置的に首――やらを、すりすりさわさわてろんてろんと、なにやら異様に妖艶な手つきで撫で回すイフェッタ。変なところで技術を発揮するんじゃない。
彼女がこれで騒ぐような人ではなくて助かったが、それでケーに調子に乗られても困る。そんな人間ばかりではないのだ。よく言って聞かせねば。
最後にきゅきゅっと身体の表面を擦り上げられると、蛙は溶けたようにテーブルの上に潰れた。「人間の技術の進歩というものは凄まじいね」なんの技術だよ。
それをひとつ突っついてから、彼女はやおら立ち上がった。
「さてと。それじゃ任務完了ってことで、アタシも戻ろうかな」
「え? なんだよ急じゃねぇか。せめてノノが起きてからでも――」
「いいのよ。帰ったら帰ったでこっちもやることあるし、起こすのも悪いしね」
「しかしな」
「あんたからちゃんと言っといて。あ、片付けはそっちでやってよ」
空いた皿を指差してから、彼女は手早く荷物をまとめていく。ある程度の準備はすでにしてあったようだ。
ガンズーは釈然としないまま、その様子を眺めていた。
試しに言ってみる。
「あー……また頼んでもいいか?」
「暇あればね」
振り向かずそう答えるので、こちらも納得する。
もしまた機会があれば――あるいは、そんな機会でなくたって、いつでもノノは彼女に会える。逆か? まあいい。
しかし、この人はなぜこうも度々手助けしてくれるのやら。
そうだった。訊ねてみたいのはそこだった。が、いざ聞いてみようと思うと、うまい言葉が出てこない。
そうしているうちに、
「じゃ、ノノちゃんによろしくね」
至極あっさりとイフェッタは外へ出てしまった。
待て待てそれはさすがに性急すぎる。慌てて後を追った。
「なに、まだなんかあんの」
「だってそんなお前」
まだしっかりとした礼すら言えていない。いや、礼だけで済ます気は無いのだ。
訝しげな彼女の顔を目の前に、ガンズーは腰の道具袋をひらく。そのために下げたままにしていたのに、すっかりタイミングを無くしてしまった。
楕円形で手のひら大ほどの板。鮮やかな赤色をしている。
「物で、ってのもどうかと思うんだがよ、その、ちょうど土産もできたから、せっかくだし」
亜竜の鱗である。ちょうど小さめのところが剥げて落ちていたので、仲間たちには悪いがふたつだけ拾わせてもらった。もうひとつはノノに。
なにやら口から勝手に弁明が出てくるが、とにかく押しつけた。イフェッタはしげしげとそれを眺める。
「……まんまじゃん」
「そりゃそうだけどよ、これだけでもけっこうな代物っつーか、そのままでもお守りに飾ってるような貴族だっているし、そんな悪いモンじゃねーっつーか」
「あっはは、わかってるわよ。いいわ、ありがたく貰っとく」
笑いながら、やれやれといったように目を細めて彼女は返礼品を納めてくれた。
ガンズーは心底ほっとする。物はともかく、ようやく彼女に礼らしい礼をすることができた。
ふと、彼女がノノの両親の墓を見ていることに気付く。
「おっと、帰りの挨拶をしてなかったな」
言ってガンズーは、そちらへ近寄った。手を合わせて目を閉じる。
後ろから不思議そうなイフェッタの声が聞こえた。
「なにそれ?」
「ああ、俺はこういう祈りかたなんだよ」
「ふうん。あんま見たことないわね」
「まあな」
横に彼女が来た気配があった。
「俺に祈られてもカゼフだってノノの母ちゃんだって困るかもしんねぇけど、礼くらいはな。特に母ちゃんのほうは会ったことも無いけど」
「……ふうん」
「名前くらい、とは思うが今さらノノに聞くのもなぁ」
「ユノよ」
「ん?」
「ユノさん。ユリンノール」
「へぇ、そんな名前だったのか。『ノール』ってノノと一緒なんだな。家系かなんかで繋げてんのか――」
ん?
それをなんでイフェッタが知ってんだ?
振り向いてみれば、彼女はすでに背を向けて去ってゆくところだった。




