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ダニエの長い長い一日 その4

 家から畑を渡った向かいにヨナおばさんは住んでいて、長男がエクセンという名前だった。

 ひとつ年上の彼とはそれほど親しくなかった。ただ、同年代の子供がまず少なかったので、なにかの折に顔を突き合わせることは度々。

 やたら馴れ馴れしいので、なるべく関わらぬようにした。


 二軒向こうのロッカちゃんを村の外へ連れ出したときもおばさんは泣いた。

 ドートンがボコボコにされて泥炭地で発見されたときもおばさんは泣いた。

 ボレスさんの奥さんと一緒にいるのを見つかったときもおばさんは泣いた。


 大蛇の災禍の中でも、どうにか貯えてきた貯蓄をちょろまかし、村を出ていったときもヨナおばさんは泣いていた。

 ただ、あの涙が本当はどういう意味だったのか、今になって考えてみるとわからない。





 彼はひどく太っていた。

 本来はそれなりに――あくまで客観的に見て――整った顔立ちと均整の取れた身体をしていた。はずなのに、もはや顎はほとんど無く、腹も腕も足も倍以上に膨らんでいる。

 けれど面影は残っている。最後に見たときの服装も違わないようだし、灰色の髪もぐしゃぐしゃに汚れているがそのままだ。


 なにより彼は自分の名を呼んだ。

 間違いようが無い。エクセンその人だ。


「あー……フー……来てくレた……? 違うかァ……あー……じゃあ……見つかっちゃっタぁ……」


 ふらふらと上体を揺らしながら、どこへ向けるでもなく彼は呟く。

 眼球から止め処なく黒い滲みを漂わせているせいで、そもそもこちらを見ているのかすらわからない。

 これでは動きが読めない。せめてカンテラの覆いを外したかったが、下水降り口の傍に置いてきてしまった。ほんのわずかな明かりしか届かない上に逆光だ。


 尋常ではない――どころの騒ぎではない――様子に、理解したくもなかったが頭は目の前の情報を存分に咀嚼し始める。

 あれは瘴気だ。瘴気が漏れている。マナ汚染だとかの、魔術による反動のものではない。身体が変換し、消化して維持しきれない瘴気が溢れている。たしか、そういうものだったはずだ。

 ならば、彼はもう人間とは呼べない。


 魔族? 違う、魔族は瘴気を漏らしたりしないという。なんだったか……小躯(ゴブリン)でもないし、大躯(オーガ)とも呼ばなかったはず……

 そうだ、半魔(オーク)。人間から魔獣への成りそこない。汚染を放置しすぎたり、瘴気に浸かりすぎた者が稀にそうなるとか――


 ダニエの背中が怖気に引きつった。

 半魔(オーク)、だとして。そんなもの、自分たちにどうにかできる相手ではない。元の人間次第で、大躯(オーガ)巨化(ビーステッド)の魔獣を超える脅威度とされる代物だ。

 そしてエクセンは曲がりなりにも自力で中級冒険者にまで成り上がった人だ。異形に変わったとして、その力を減じているとは考えられない。むしろ魔獣としての身体能力まで得ている可能性もある。


 短剣を握る手に力が入りすぎて、麻痺しかけていた。

 戦ってはいけない。きっと死ぬ。彼は名前を呼んだ。話ができる? こんなふうになって、意識は残るもの? わからない。でも、できることと言ったら、


「え、エクセン……?」


 震えを止めることもできぬまま、ただ声を絞り出した。

 いずこへか向いていた彼の顔がぐるりとこちらへ向く。その挙動は人間のものとしてはとても不自然だ。


「えくセん……エくせン……おレだ……」

「そう――そう、よ。エクセンでしょ? 私が、わかるの?」

「……ふ、ふ、フ……ダニエちャん……」


 ずり、と踵を引きずるようにして、エクセンは一歩こちらへ近づいてきた。かちゃ、と彼のベストが鳴る。

 思わずダニエはその場から走り出したくなる。逃げ出したい。

 だが、話ができるのならば望みはある。魔族はともかく、半魔(オーク)と意思疎通ができるのかどうかなど知らない。だが、話はできるのだ。戦わずに済むかもしれない。


 だいたいからして、彼が望んでこうなっているなどと思えない。もしかしたら助けを求めているのかもしれないのだ。救う手段があるのかもそれこそ知らないが。

 希望的観測だとはわかっているが、そうでなければこちらが助からない。


「なん、な、なにがあったの? こんな、と、所で、なにをしていたの? 隠れていたの?」


 口が渇いて回らない。怒らせるな、敵ではないと示せ。


「ここ……オれは……ここ……逃ゲて」

「逃げた? どこ、から?」

「ガキ……きょウかイ……おれモ……つよクなって……追イかけたのニ……みんな死ンだ……」

「――? それで、逃げた?」

「からダ……おれノ、かラだ……腹ガ、へって……へっテ……」


 さらに一歩、彼が近づく。からん、という音と、もうひとつなにか柔らかいものが擦れる音。それから、ぽとぽとなにか落ちる音も。


 彼はたしか、帷子の上に金属輪を垂らしたベストを着ていたはずだ。あれのせいで動く度にカラカラとうるさかった。


「ハらへっテ……しょうガナくて……」


 もう一歩。

 ダニエの目に、ようやくエクセンという半魔(オーク)の姿がはっきりとわかった。


「……ダニエちゃン」


 ベストから垂れる金属の輪に、人の手首が括りつけられている。


「食わセて」


 大きくひらいた口の中から、瘴気と共に歯に絡まった長い髪が零れた。


 悲鳴を上げるのではないか、と自分に対して思っていた。そして確かに、悲鳴は上げたはずである。ただ、どんな声を発したのか自分でもわからない。

 喉を震わせたと同時に、右手の短剣を突き出したからだ。そんなことができると考えてもいなかった。それでも動いた。


 まったく反射的に突き上げた切っ先は、エクセンの喉か胸か、とにかくその辺りを狙ったはずだ。

 しかし手応えは返らなかった。その場に金属音を残して、彼の姿が消える。


 横、後ろ、横と同じ金属音が響く。追うことなどできない。速すぎる。ただただ嫌な予感だけを頼りに、前方へ転がった。頭の上を腕が通過した気配。

 半身だけ起き上がれば目の前にこちらを掴もうとする両手が迫る。しゃにむに短剣を振り回した。再び音だけが残り姿を見失う。


 ダメだ。勘も二度は通用しない。次は掴まれる。

 動きを追うしかない。どうやって? 音は聞こえる。陽動なのもわかる。姿を追え。近くにいる。どうやって? できる。そこにいるならできる。

 つい先ほどの感触を思い出せ。あのぞわりとした瘴気の気配を。


 音の聞こえる方向とは反対側、背後から右に向かって、糸を引くような暗い感覚があった。


 手首を返し、肩から突撃するように短剣を振った。首か、せめて顔面のどこかを貫いてほしい。

 手のひらに届いた硬い感触は、小さい。


 短剣の先は剥きだした歯に阻まれ、刀身が――二股に分かれ異常に伸びた舌に包まれていた。


「うっ――!」


 そのまま両腕を掴まれて押し倒された。力が――指先が肉にくい込む――強すぎる。振りほどこうにも動けすらしない。剣はどこかに弾き飛ばされてしまった。


 せめてもと蹴り上げようとするが、膝を押しつけられるようにして下半身も固定され、いよいよ身動きがとれなくなってしまった。目の前に漏れ出る瘴気の向こうから、腐臭が漂う。

 ぐいぐいと腰を押しつけられていることに気づいた。というか、なにかが下方で蠢いている。正体のわからないそれは自在に動いて、服の腿の辺りを破いてきた。冗談じゃない!


「食イながら……ダけど……ゴめんね……」


 なにがごめんか知らないが、どうにかして抜け出さなければ。しかし腕は万力のように締めつけられているし、のしかかった身体は重い。

 伸びる舌が首に巻きつけられる。腕の力と遜色のないそれによって、息も通らなければ血も止められたのがわかる。


 あ、これはダメかもしれない。死んじゃう。

 イヤだ。死ぬのもヤだし死んでから辱められるのもヤだしそこから食われるのもイヤだ。

 なによりエクセンに殺されるというのがイヤだ。イヤな奴に殺されるとか、これ以上イヤなことがあるだろうか。


「ごめンネ……ごメんなさイ……」


 呪詛の間違いではないかと思えるようなふざけた謝罪を聞きながら、ダニエの意識が薄れていく。股間をまさぐられても、もはやそれさえどうでもいい。死ぬ。

 顔に生ぬるい水滴が落ちた。開いた口から垂れる涎だろうか。ああイヤだ。しかしどうもそうではない。もう少し上。目から。


 なに泣いてんだ。こんなことしてくれやがって。そっちが泣いてどうするんだ私が泣きたい。そんなにイヤなら止めてくれ死にたくない。

 なぜ泣いているのだろう。それは決まっている。


 こんな姿になったら、そりゃイヤだよね。あんたカッコつけだったもんね。


 横から突撃してきたなにかが伸し掛かる肥満体を吹き飛ばす。なかば千切れかけるようにして舌が首から離れた。

 咳きこむ。半身を返して、地面に額を押しつけるながらえずく。肺も喉も身体に追いつかない。


「ダニエ!」

「だい、じょ、い」


 飛びこんできたドートンには、大丈夫、生きてる、そう言うつもりだった。まったく言葉にならないが、生きてることは伝わったろう。


 転がったエクセンが、関節をどこかへ忘れてきたように奇妙な動きで立ち上がった。腰に下げたままだった剣を、ずるりと抜き放つ。


「ドー……トぉーーーン……」

「――すっかり化け物になりやがってクソエクセン」


 ドートンはなぜか短剣を持っていない。どこかに飛ばされたのだろうか。完全な無手だった。だというのに、果敢に両手を構える。


「ぶっ殺す!」


 無茶だ、逃げて。そう言いたいが、やはり声が出ない。

 武器も手に持たない彼が勝てる道理など無い。この半魔(オーク)がダニエをすぐに殺さなかったのは食うつもりだったからだ。犯すつもりだったからだ。

 相手は剣を抜いた。殺すつもりで来る。


 その通りだった。歩法による攪乱だとかの小細工すら使わない。切っ先は、真っ直ぐにドートンへ向かった。

 あろうことか、彼はそれを真正面から受け止めるつもりでいる。そのまま腕で迎えようとしている。ダメだ、無理だ、やめて。


 ふたりがぶつかり合った。布を裂くような音と共に、辺りに血が飛ぶ。ダニエの喉からは悲鳴でさえ出てくれなかった。痛みだけが走る。


 が、


「――頑丈だけがっ、取り柄ってな! 母ちゃんあんがとぉ!」


 エクセンの剣は彼の胸にまでは届かなかった。十字に盾にした腕は貫いているものの、そこまでで止まっている。

 そしてその一瞬、完全に固定されていた。


「撃てデイティース!」

門がひらく(エン・エーテ)! 走れ炎霊(ルー・ラムリト)!」


 絶叫に近い詠唱。途端に周囲が明るくなった。

 社を背後に、デイティスが前方へ手を構えている。その先に、炎の塊。


「【火砲(レー・カーン)】!」


 爆ぜながら熱風を伴い飛来した火球が、エクセンを飲みこんだ。身体を炎に塗れさせながら、砲弾でも撃ちこまれたように吹き飛んでいく。

 火球の尾はすぐにマナへと還り消え失せたが、燃え上がった身体に残る炎はそのまま、彼はごろごろと転がった。


「で、できた……」


 茫然と呟き、見事な魔術を放って見せた弟は膝をついた。はたして核石なんて持っていただろうか。いきなり攻性魔術なんて使って反動は無いだろうか。心配で今すぐにでも駆け寄りたいが、身体が言うことを聞かない。

 ドートンに肩を抱え起こされた。こちらでなくて、デイティスを見てやってほしいのだが。


「大丈夫か?」

「ほんとに大丈夫だってば……ねぇ、どうなってる? 痣になってない?」


 顎を上げて聞いてみるが、彼はこちらの姿をひととおり見ると、なぜか自分の上着を脱いだ。獣皮の、少し重いジャケット。血で汚れている。

 やはりなぜか、こちらの腰にかけてくれた。冷静になってみるとなんだかやたら尻の辺りがスカスカする。ずいぶん暴れられたらしい。


「……大丈夫か?」

「いや、本当に大丈夫だから。本当に」


 ありがたく腰巻代わりを貸してもらい立ち上がる。今はそんなことを気にしている場合ではない。デイティス――のほうが重要だが、まず片付けるべきものがあるのだ。


 振り向けば、エクセンはまだところどころに炎が貼りついていて、その身体を焦がしてる。


 ――あー……


 立ち上がっていても、火を消そうなどとはしていなかった。平然と、どこかをぼんやり眺めている。


「ウソ――」

「――だろ」


 双子で揃えた呟きに反応したのかはわからない。だが、彼は剣を片手にぶら下げて、猛然とこちらへ迫ってきた。


「デイティス! ダニエ連れて逃げろ!」


 ドートンが前方へ立ちはだかる。とはいえ、その両腕からは今も血が流れているのだ。穴が開いている。動かせているのが奇跡だ。

 ダメだ、時間を稼ぐつもりかもしれないが、それさえ難しい。逃げるにしたって柵を越えなければならない。簡単に追いつかれる。なにより、街の中へこいつを解き放ってしまうことになる。

 玉砕覚悟でぶつかる? それで倒せるならいいが、この化け物に通用するのか。デイティスがまだ魔術を使えたとして、先ほどの火力を超えるものは覚えていないはずだ。

 どうする? どうしよう? どう――どうしようもない?


 がしゃがしゃとうるさい金属音が、目前にまで迫った時だった。


 後ろから駆けてきた人影が、ドートンの前へ割りこんだ。滑るようにエクセンの懐へ入る。

 二閃。腰から肩、腰から胸。下から跳ねて斬り上げる。それだけで半魔(オーク)はたたらを踏んで大きく下がった。


「――おいおいおい、街ん中だぞここ。けったいなモン湧いちまってんなぁ」


 青い革鎧を着た冒険者は、ひどく軽い調子で言いながら、身を翻して手の二刀を躍らせた。

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