鉄壁のガンズーとおやっさん
少しばかり早起きをして、ノノを連れアージェ川沿いを上流へ歩く。
横目に林は続いているが、だんだんと川べりからは離れていって、代わりに岩場が増えてきた。
おそらくそろそろ結界の外に出る。この辺りが限界だろうか。
「あそこの岩の上からにしてみっか、ノノ」
「あい」
岩の上に座りこんで、新調した釣り竿から糸を垂らした。
久々の快晴。とはいえまだ朝日の昇って間もない時間、肌に当たるほのかな風は爽やかを若干通り越して冷たさの気配を感じさせる。ノノにはいつもより厚着をさせたが、正解だったようだ。
釣り竿の先にトンボが止まった。目が――はたしてこちらを見ているのかは定かではないが――合う。
「トンボ」
「ノノ、トンボ好きか?」
「きらい」
「ありゃ。お前そんなに虫とか苦手じゃねぇのにな。餌だって平気で触れるし」
「すぐ羽くしゅくしゅになる」
「……もちょっと優しく掴んでやれな」
のんびり待っていると竿が揺れた。だというのにトンボに逃げる様子は無い。
とりあえずそれは無視して、加減を見ながら竿を繰る。軽い感触なのでそのまま引き上げた。トンボは去っていった。
上がった糸の先には見事に魚がかかっていたが、掌に収まるほどの小さなもの。ハヤかなにかだろうか。実を言えばガンズーは魚類の識別などできない。だいたい大きさと場所と時期とざっくりした特徴でしかわからない。
なにはともあれ、もうすこし大きくしっかりした体躯のものがほしい。釣った魚は逃がしてやった。
「ノノ、なるべくでかいやつな」
「でっかいの」
「そうだ。捌く練習に使えそうなやつ」
「マグロ」
「よく知ってんなぁ。でもマグロはさすがにここにゃいねぇかな」
バスコー半島の漁業可能圏は内海のほんの一部。周囲を陸地に囲まれた海だがそれでもマグロが獲れることは獲れる。
とはいえガンズーが思い浮かべるような、遠洋からやってくる大きなものではない。カツオやサーモンなんかと大差ない体長のもの。肉質もなんだかちょっと軟らかめな気がする。
そんなことを考えると鉄火丼が食べたくなってきた。栗の次はマグロである。残念ながら時期ももう遅いし、本格的なマグロはそもそも海洋性の大型魔獣に海を封鎖されている魔王期には無理だ。
魚の口は魚で解消するに限る。海のものと川のものではかなり違うような気もするが、気分の問題だ。
再び竿の先に止まろうとしたトンボが、竿が引かれたことによって足場を失いかすかによろめいた気がした。
◇
三頭の蛇亭。その裏口でガンズーはぼんやり佇んでいた。
隣にはノノ。手には水の張られたバケツが下げられており、中には数匹の魚。
運よくそこそこのものが釣れた。ヤマメだったかイワナだったか、それっぽいがどうなのだろう。もっと上流にいそうな魚だった気がするが、なにかのはずみで下ってきたのだろうか。というか本当にそれなのかも定かではない。食べられますように。
さて、料理を習う日なのだが、今日は趣向を変えて魚の捌き方を教えてもらいたい。そのために釣りに時間を使った。
ついでにいい感じの魚料理のレシピなんぞも聞ければ、粥とスープとたまにパスタの食卓が一気に進化する。
なのだが、やはりいざとなるとちょっぴり尻込みする。
おやっさんはあれからどうしてたかな。話をしようとは思えども、どう切り出したもんかな。そんなことを考える。
考えていたら、裏口がひらかれてベニーが顔を出した。
「わっ。なにしてんのそんなとこで」
「お、おう。よお」
「よお、じゃないよさっさと入ればいいのに。待ってたんだよ」
「ああ、悪い。行くかノノ」
「はよ」
中にも入らず棒立ちしていたガンズーを、こいつはなんのつもりだろうという目で見ていたノノは、むしろ率先して先を行った。
とりあえずお邪魔しながら、バケツを軽く上げて見せる。
「今日はこいつのやっつけかたを教わりたいんだけどよ」
「わ、すご。釣ってきたの?」
「あぁ。家の近くが川だし」
「へー、いいねぇ。とりあえず厨房においで。そのまま置いといて準備しててくれればいいから」
言われたとおり、厨房の隅にバケツを置き、エプロンを拝借して手を洗うなどして準備する。
ベニーは他の雑事があったのかどこかに行ってしまった。ノノに食堂で待ってろと言うが、見てみれば今日は本格的に客がいない。というか誰もいない。
常連の奴らは仕事かな、などと思いながらナイフを出したりまな板を出したりしていると、のそりとオーリーがやってきた。
前触れもなく出てきた――そりゃこの親父の店なんだからいるに決まっているのだが――ので、ガンズーはびくりとしてしまう。
彼はちらとこちらの顔を見ると、魚の入ったバケツを取った。
「そっちの細いナイフにしろ」
「へ?」
「串打ちくらいはできるんだろう。おろすのか」
「……えーと」
「今日は俺が見てやる」
心を強く持たねば。
と誓ったばかりだというのに、ガンズーは謎の緊張に身体が強張っていく気配を感じていた。
自慢ではないが、刃物の使い方自体はそれなりのものである。ベニーにもそれは褒められたのだ。
そして魚の扱いも、鱗を払って腹をひらいて内臓をとって血合いを処理して、くらいのことはできる。あとは串にぶっ刺して塩ふって焚火に立てればちょっとよさげな野営食だ。
なのだが、
「頭は斜めだ。断つんじぇねぇ」
「お」
「血合いは削ぐな。撫でろ」
「お」
「洗ったらそのまま置くな。拭け」
「おお」
「中もだ」
「お」
「肉を揉むな水気だけ取れ」
「おおお」
「なんでずらした」
「お?」
「骨は中から断て。寄せんな」
「おお」
「別れたら腹から剥ぐ」
「おおお」
「よく見ろ。骨は残すな」
「お」
「ガキの喉に刺さる」
「おう!」
元気に返事はしたものの、流れるような指示の下で隣の実演に同じ速度でついていかなければならない。手順もふんわりとしか頭に入ってないし、手つきも危ない自覚がある。
オーリーは凄かった。どでんとまな板に寝そべった魚が、一、二分もかからないうちに切り身と頭と骨に分離する。
身も奇麗だ。骨が残っていないのはもちろん、肉にわずかな毛羽立ちも無い。
ガンズーのものも姿が整いはしたが、肉のところどころに、これは鋸で切ったのかな? といった切り口がある。
「……まぁまぁだ」
マジかよ。いや初っ端からあんたの捌き方を真似できるとは思わんが。
とにかく見れる程度のことはできたらしい。細かいナイフ作業を養ってくれた魔獣の皆さんに感謝する。これが上達すれば核石の採取ももっとうまくなるかもしれない。
というわけで、次は実演抜きでひとりでやらされた。いきなり鱗を落とすのを忘れかけ、じろりと睨まれた。
速度を度外視し、奇麗に正確におろすことを目標にする。鮮度が云々ということもあるだろうが、それは後回しだ。
魚の腹に慎重に刃を入れていると、オーリーがぽつりと言った。
「――少し前に、ラダが来た」
「あん?」
「下戸だというのに、高い酒を空けていった」
「へぇ。あいつ飲めねぇのか。ブランデーでも傾けてそうな顔してんのに」
「そうだな」
そりそりと骨が断たれていく感触は、慣れるとこれが面白い。油断すると上下に逸れてしまいそうになるが、肉を支える指に力がこもってはいけない。
切り身には見る限りで骨は残らなかった。やはり断面が少し荒れているが、二度目でこれはなかなか良いのではなかろうか。どんなもんだ刃物を扱わせたらこんなもんよ。
オーリーはひとつ頷くと、小麦粉や香草や調味料を用意した。
切り身を更に適度な大きさに切り分けて、なにかかけた。おそらく胡椒なのだが他にも混ぜた気がする。
浅い鍋に油をひいて温め始めると、ぱぱっと切り身に小麦粉をまぶして焼き始めたので、そこでようやくガンズーにもわかった。ムニエルだ。
香ばしく焼き上がった身を鍋から皿へ取り出すと、油の残った鍋になにか色々と入れる。ひとつはバターのようだったのだが、それ以外はなんだろう。
「あいつが来たのは何年ぶりだったろうな」
「うん? ラダか?」
「……懐かしい話をした」
鍋にできたソースをかけて、香草や、いつの間にか横に用意されていた野菜が盛られる。川魚のムニエルが完成。
味見をさせてもらうと、これがまあうまい。淡泊な川魚だし、下味をもう少ししっかりするべきではなどと考えていたが、とんでもない。これでいいのだ。
最低限の香辛料と香ばしい衣のおかげでホクホクした魚のほのかな甘みが引き立っている。またソースがうまい。材料がもうひとつわかった。レモンの果汁を入れたのか。
「やってみろ」
「えぇ……」
さてところどころの行程はわかったものの、あっという間に行われた作業の全てを把握できたとは言い難い。並んでいる油や調味料だって半分以上が正体不明のままだ。
しかしオーリーにはもう細かく指示するつもりが無いらしい。なんというスパルタだ。せめて材料くらい教えてくれ。
しかしむっつり黙った彼にこれはこれはと聞くのもはばかられ、一度ひととおり見せられたチャンスを生かしたいという冒険者としての意地もあり、ガンズーはどうにか材料に当たりをつけムニエル作りに挑戦してみた。
考えてみれば、粥やパスタといったものに比べるととても料理らしい料理をしている気がする。俺もとうとうここまで来たか、などと思った。レパートリーはこれを含めてまだ四つである。
「なあおやっさんよ、ラダとは――」
切り身を小麦粉で撫でながら振り向いてみると、オーリーは食堂のほうを見ていた。
そちらに視線を向けると、ノノとベニーが手遊びなんかをして暇を潰している。
話をするつもりでいた。
一連の事件についてか、『黒鉄の矛』についてか、ザンブルムスについてか、バシェットについてか。
冒険者協会から妙な詮索をされていないか、教会からはどうだ、すっかり客がいないのは、まさか変な噂でも立っていないか。
ザンブルムスを討ったガンズーを、どう思ったのか。
やめた。その必要は無くなった。
彼はラダと話をしたと言ったのだ。おそらくいろんな話を――ことさら口数は少ないままで――したのだろう。
だからそれで終いだ。彼からガンズーへ改めてなにか言うことなど無い。
あるいは――今日、彼がわざわざ手ほどきを買って出たのは、そうして話をする代わりのつもりだったのだろうか。
いや、きっとただの気まぐれだ。それでいい。
(でもま、しっかり習得してやんねぇとな)
意気込んで鍋の上の切り身をひっくり返す。すっかり衣は焦げていた。
ムニエルの最もよくできたものをノノに。ガンズーの前には、焦げたり砕けたり味付けを間違ったものが数切れ盛られている。
フォークに突き刺した身に齧りついた子は、三度ぶんぶんと足を振った。始めて作ったものとしては最上の結果だ。
「なあベニー、暇な時間だってのは聞いてたが、いくらなんでも客いなすぎじゃねぇのか。いつものあいつらどこ行った? 仕事か?」
「メルリさんたちのこと?」
「おう」
「あの人たちね、もしかしたら一度解散するかも」
「そりゃまたなんで。うまいことやってたろあいつら」
「メルリさん結婚するかも」
「は?」
「なんかね、子供ほしくなっちゃったんだって。あとまぁ、予定外の休みのあいだにいろいろ進展しちゃったというか」
「よくわかんねぇが……」
ちら、とベニーは皿の上の魚をやっつけるノノの姿を見る。
「アージ・デッソにベビーブームが来たりして」
「……それはそれでめでてぇんじゃねーの」




