鉄壁のガンズー、大号泣
「ああ、エリッサ。離れてしまってごめんなさい。怖かったでしょう? もう心配ないわ、お母さんと一緒に寝ましょうね」
ガンズーの腕に抱かれたノノへ、ふらふらと手を伸ばすメイリ夫人。
優しい笑顔で語りかけているが、その目線はこちらへ向いているようで向いていない。いや、たしかに見てはいるのだがひとつ手前に焦点が合っているような。
「……おい」
そもそも、ここに至るまで一度もガンズーと目が合っていない。
声をかけてみても、わずかな反応もしなかった。
「どうしたのエリッサ? お母さんがいなかったから怒っているの? 許してねエリッサ、機嫌を直して?」
伸びてくる手を、ノノはひどく迷惑そうな顔で睨んだ。仕方ないので、身をかわすようにして遠ざけた。
彼女は指先を彷徨わせてその子の行方を探す。ガンズーの背はただの壁か隠しにしか思っていないようだ。
「ああ、ああ、エリッサどこに行ったの。隠れてないで出てきて。お母さんが悪かったから」
この目はつい先ほども見た目だ。ザンブルムスの目と同じものだ。
あるいはもっと深刻かもしれない。彼女の目には、その子しか映らないようだ。
横目でケルウェンを見た。項垂れ、両手で顔を覆っている。説明しようという気が無いのか、それどころではないのか。なんとなく察するものはあったので構いはしないが。
「やっ……」
「ああ、エリッサ。見つけたわ。さぁ一緒に行きましょう」
回りこんで正面に来た彼女の姿に、ノノが小さく悲鳴を上げた。また背を向けるようにして隠す。
姿を消した子を心配するその顔は、間違いなく母親の顔ではある。ゆらゆらと迷う指先にうすら寒いものを感じもするが、そこだけは確かだ。
だが、これに付き合うわけにはいかない。
言って聞くもんかな、と思いながら、
「この子はエリッサじゃねぇ。ノノだ。あんたの子じゃない」
そう言った。
ゆらゆら中空をなぞっていた手が止まり、メイリ夫人の瞳孔が――震えるように上下左右に小刻みに――揺れた。
呼吸が少しずつ早くなる。今度こそガンズーを見たが、答えることはなく息を荒げるだけだった。
吸い、吐くという作業が逆転しそうなほど胸を暴れさせ、夫人は倒れた。
「――はっ! あ!」
「奥様!」
倒れこむ彼女を侍従が走り寄って支える。
白目をむいて痙攣する身体を何人かが押さえた。
「休ませろ。なにを言われても部屋から出すでない。よいな?」
オレイル前領主の指示に、侍従たちは夫人を抱えて出ていった。
喧騒が止むと同時、なにかとてつもない疲れがガンズーを襲った。バシェットとの戦いでもこれほど疲れなかった気がする。
話を聞きたい思いと、忘れて帰りたい思いがせめぎ合う。どちらかというと後者が強いが、それはそれであとにしこりが残りそうだ。
とりあえず、想像できたことを確認することにした。
「領主の跡取りって言うから男と思ってたが、女の子だったのか」
「こんな時勢だ。男子でなければ家督は譲れんなどと時代錯誤なことは言わんよ」
オレイルは手近にあった椅子にゆっくりと腰掛けると、窓の外を眺めながら答えた。領主の館らしく、ガラス窓くらいは仕立てられている。雨は止んだが、まだ水滴が残っていた。
「……孫は、なかなか子供のできん息子夫婦に生まれたひと粒種でな。息子は当然のこと、儂も家の者もたいそう喜んだ。家内に見せてやれなんだのは残念ではあったが、まあ、あれも喜んだことだろう。街の人間にもずいぶん祝ってもらった」
彼はひとつ息をつくと、視線を窓から外して足元へ移す。
「領主に嫁いだ女は石女だなどと、口さがないことを言う者もいたのだがな。だがまあいい。あの子を見ればなんと愚かなことを言ったかと誰もが思う。そう信じたよ。誰より……彼女はそう思っていたろう」
次に閉じられた扉を見た。メイリ夫人が運ばれていった先を。
「儂は幼少のころ、弟と下の妹を亡くしていてな。そこのケルウェンもそうだ。兄が小さいころに死んでいるし、息子自身も危ないところだった。そういう家系なのかもしれん」
「わ、私が悪いのです。きっと、私が毒なのだ」
「ならば儂もそうだし。祖の墓を暴いて文句を言わねばならんな」
息子の言葉にオレイルは笑う。ひどく空しい笑み。
「エリッサも逃れられなんだ……国から、いや国の外からも人を募った。医者を呼んだし、施療師も魔療師も呼んだ。薬師や術師まで集めたよ。しかし結果は――これは、知っているか」
「けっこう盛大な葬式やったってなぁ、知ってる」
「わざわざ、な。慣れたものだと思っていたが……なかなか堪える」
答えたガンズーに、口の端を歪ませたまま彼は向き直った。痩身ではあるが矍鑠とした老人だと思っていたが、彼も相応に疲れているのかもしれない。
「メイリは、あの娘はよく耐えた。だがやはり無理もあったな。倒れた。目が覚めたころから段々と様子がおかしくなってしまった。孫のために集めた連中がまだいくらか残っていたから診せたが、ダメだ。今では――」
もはや他人の子が自分の娘に見える始末、か。
さて、とはいえガンズーには引っかかるものがある。
長年の揶揄や嘲笑に耐えてようやく生まれた我が子。可愛い盛りのころにあっという間に亡くなってしまった娘。
腕の中のノノを見る。すんすんと鼻を鳴らしながら、なかば寝入りかけていた。
いやぁこれはしんどいわ。無理だわ。ガンズーはそう思った。頭がどうにかなってしまってもおかしくない。実際に自分も先ほどまでちょっと頭がおかしかったのでなおさらそう思う。
が、だからといって簡単に狂えるほど人間は弱くはない。けして誰もが強くいられるわけではないが、そう都合よく弱くもない。
ザンブルムスを見ていなければ、そこまでは考えなかったかもしれない。メイリ夫人に対しても、お大事にね、と思って終わった可能性はある。
そしてメイリ夫人に会わなければ、ザンブルムスに対しては、まあ歳だったんだからしゃーねぇよな、で結論してしまったかもしれない。
(……こんなのがそんな続くかぁ?)
どういうことだと聞かれたら、どうなんだろうねと答えるしかない。考えをまとめるには材料も時間も足りない。だが、引っかかるものは引っかかる。振り切ってしまうには、この違和感は大きい。
とまれ、それはそれとしてまだ確認することがある。
ガンズーは憔悴した面持ちのケルウェンへ振り返った。
「子供の代わりを用意すりゃいいとか言われた、だよな。誰にどこでそんなこと吹き込まれたってんだ」
「あれは、あれは違うのだ。妻の様子があまりにひどいから、魔が差しそうになっただけで、わ、私はそんなこと断じて」
「そうじゃねぇそうじゃねぇ。あんたがンな大それたことできねぇのはわかるよ。それを言った奴がいるだろ? 呼びつけた連中の誰かじゃねぇか?」
「そ、そのとおりだ……あれは、医者だったか薬師だったか。癲狂に詳しいと言っていたような」
「名前は? もしかして、髭の長い爺じゃなかったか?」
「名前……いや、何人も集めていたから……風貌も、似たような者が多くて……」
全然ダメじゃねぇか。ガンズーは頭を抱えそうになった。
道具袋に入ったままの『鱗』の存在を思い出していた。
『黒鉄の矛』を狂わせた奴が、薬師かなにかのふりをして領主の元に潜りこむ。突飛な発想と自分で感じるが、そう遠くもない気がする。どうにも話の関連性を無視できない。
なにせ今、ガンズーはここにいるのだ。修道院を守っていたのが、『黒鉄の矛』と戦って、なぜかそこから領主の屋敷にいる。なんじゃそりゃあ。口内で呻く。
偶然で片づけるには、ちらほらと繋がる符合が邪魔すぎる。
「ここへ滞在した者はすべて記録してある。そうだな?」
「――は」
オレイルが言うと、扉のそばで静かに控えていた家令が視線を下げたまま短く答えた。
ノノの相手をしていた端女は夫人について出ていったが、彼はここに残っていたらしい。気にしていなかった。
記録があるというなら、それを確認させてもらうのもいいかもしれない。そのままの名前を使っているとは思えないが、なにかヒントくらいはあるかも。
「鉄壁のガンズー」
考えていると、唐突に名前を呼ばれた。オレイルが立ち上がる。
「ここからが肝心なのだが――その子がなぜ連れてこられたのかだ。君が早々に来てしまったので、後手になってしまったが」
「……来てなきゃ内々にどうにかしてたってか?」
「そう言うな。否定はせんが、だとしてもその子を君に返す努力はしただろう。この愚息が言うことは、信じてくれるか?」
「裏に話をつける度胸も手管もあるようには見えねぇな」
「手厳しいな。街の者にはそれなりに愛されているのだ、勘弁してやってくれ……さて、それでは誰だろう。見たとおり、メイリは自らそんなことができる精神状態ではない」
「まさかあんただなんて言うなよ」
「儂は隠居した身だ。実務にはもう一切の関わりをしていないし、家の金にも手を出せん。虹瞳でなかったとしても、子供ひとり。それなりの対価は出したろうな」
それはそうだ。慈善事業で子供ひとり攫ってくるバカはいない。『黒鉄の矛』の連中だって仕事として動いていたのだから、相応の報酬はあったはずだ。
当主ではなかった。目の前の前領主は金が無い。動機のある夫人は動けない。
夫人の代わりに、段取りを整えられる者。
ガンズーも、オレイルも、ケルウェンもそちらを見た。
領主家の家令は、静かに佇んでいる。
「いや……父上、そんなバカな。彼は私が生まれる前からこの家に仕えてくれている。そのようなこと――」
「ケルウェン。あとで帳簿を確認しなさい。使途不明の支出があるかもしれん」
黙ってそのやりとりを聞いていた家令が、ゆっくりと視線を上げる。
こちらを――おそらく、ガンズーの後ろにいるケルウェンを見た。
「――すべては、奥様のためでございます」
それから、そう言った。自分への疑いを認める言葉だった。
背後から小さく「嘘だ……」と呟く声。現領主のその声があまりに悲壮だったため、きっと彼を相当に信頼していたのだろうとわかる。
オレイルが深く溜息を吐く。
「解せんな……お前もあの子を孫のように思っていたから気持ちもわかるが、しかしこんなことをする必要などなかろう」
「……すべては」
家令が頭を下げながら繰り返す。
そして同時に、ガリ、となにかの音。なにか、堅いものを噛み潰すような。
その音は――ちょっと待てその音は知ってるぞさっきも聞いた。
「奥サまのたメでござイマす」
頭を上げた家令の口から、ぶわりと黒い靄が上がる。
目が充血し赤く――違う、赤ではない。黒く染まる。瞳孔が溶けて広がったように眼球が濁って染まる。
ケルウェンの悲鳴が響いた。
『鱗』の効果……じゃない!
これは魔族化の兆候だ。いや、真に魔族と化すなら瘴気は漏れたりしないし耳の変形を起こす。これは、半魔堕か。
半魔と化した家令が飛び出した。オレイルに向かって。
もしかしたらラダやバシェットよりも年上の、しかも戦闘者ではない者とは思えない素早い動き。
襲いかかるとすればこちらから遠い前領主のほうだろうと当たりをつけていたガンズーは、その貫き手をどうにか受け止めた。
拳やら手刀やら引っ掻きやら、めくらめっぽう打たれる。間違ってもノノに当たらないよう、右半身を前にして盾にした。「ううう」と腕の中から嫌がる声。この騒ぎの中で無理があるが、どうか起きるなと祈る。
そもそも彼女を抱える左腕はバシェットとの戦いで負傷している。痛みより抱っこのほうが重要なので無視しているが、できればあまり暴れないでほしい。
「領主! こいつはもう無理だ! やるぞ!」
「い、いや、待て、しかし」
「構わん! 討て!」
望んだほうからではないが、とにかく許可は出た。もはや話を聞けるような状態ではないので遠慮はいらない。
だがノノを庇いながらな上、この部屋の中では斧も使えない。腰の剣は修道院に置いてきてしまった。またこんなかよ、と毒づく。
乱打をかいくぐって、相手の首を掴んだ。そのまま力を入れる。
ごりん、という気持ちの悪い感触と共に、首の骨が折れる。身体が瘴化しきらない半魔ならこれで倒れ――てほしい。確実ではない。
はたして、家令はまだ動いた。首の神経が千切れているというのに、身体を暴れさせる。
その振り回された右手が、ノノへ向かった。
ヤバイ。そう思った瞬間、横から家令の頬に剣が突き刺さった。
調度用の、刃の潰された剣だが、ケルウェンが全体重をかけて突撃したおかげで皮膚を裂いた。そのまま家令はもんどりうって倒れた。
剣の突き立った顔面を押さえてじたばた暴れる男。見下ろしながら、ガンズーは天井や壁を傷つけないよう慎重に大斧を下ろす。
荒い息を吐きながら同じくそちらを見るケルウェンが、ちらとこちらに視線を移す。ひどく顔を皺ませて、首肯する。
静かに下ろすようにして斧の刃を落とし、家令の首を断った。
「あんたの奥さん、なにかされた可能性がある。下手すりゃ、魔術的ななにかだ」
膝をついて茫然とするケルウェンに言うが、顔を上げなかった。仕方なく、オレイルに向き直る。そちらも消沈した顔をしていた。
「そういうのを調べるのに、まあ、そこそこ詳しい奴がいる。俺よりゃよっぽどいいだろ。落ち着いたら来てもらうようにするよ」
「……虹雷のセノアに、背信者レイスンか」
「なにもしねぇよりゃマシだと思うぜ。別口からも調べてるし、手がかりがあればいいんだけどな」
「だが」と言い加えて、ガンズーは足元にうずくまるアージ・デッソ領主の肩を掴んで引き起こした。
「奥さん立ち直るかどうかは、結局のとこあんた次第だ。頼むぜおい」
ケルウェンはもはや泣きだす寸前の表情をしていたが、なんとか耐えたようだった。ほんの小さく頷く。
離して背中を叩いてやると、ちょっと力が入りすぎたか彼はたたらを踏んだ。
今日はこれ以上留まらないほうがいいだろう。彼らにも整理する時間が必要だしガンズーにも必要だ。なによりノノがすっかり眠ってしまった。
黙って扉に向かうと、オレイルから声がかかる。
「鉄壁のガンズー。改めて使者を送る」
「はいよ」
「……世話になった。いや、世話になる。よろしく頼む」
肩越しに手を振ってから、ゆっくり扉を開けた。
屋敷の侍従や私兵に遠巻きにされながら、門まで向かった。
ひしゃげて崩れた門を眺めて、やっぱ修理代くらい出したほうがいいかな、公金で直されてもバツが悪いしなぁ、などと思いながら潜る。
その先に、でかい蛙がいた。
「キミ、ダメダメだね」
道のど真ん中にちょこんと――ぼてんと――座るケー。
ガンズーは周囲を見回してみたが、夜も深い。少なくとも人の目は無いようだ。
「ノインノールが変なとこにいるからボクなんだろうと思っちゃった。キミったらあっち行ってこっち行ってバタバタしてるしさ。やっぱりボクがいないとダメだね情けないねキミ。やーいやーい」
「…………」
「なにか言ってよ」
無視して歩くと、横を蛙がばいんばいんとついてくる。
なにも言い返す気にはなれなかった。というか、言い返せなかった。おおむねそのとおりであると認識していた。
ケーはノノのことを大事に思っている。その上で、どうやらガンズーを彼女の保護者として認めている。
それが自信満々にちょっと出かけてくると言ったら、あっさり攫われてしまったのだから、お前なにやっとんねんと言われても仕方がない。
癪だが、面目ないという気持ちが拭えなかった。
ひとつ大きく跳ねると、ケーはガンズーの肩に乗った。
「まあこうして帰ってきたし、貴重な経験だね。ノインノールには強くなってほしいね。でも夜中まで連れて歩くのはあんまりよくないね。夜更かしは美容に悪いんだよ、ビヨー。ノインノールは美人になるからね」
「……悪かったよ」
「キミ気持ち悪い」
がっつり文句を言われると思っていたが、そうでもない。まさか慰めてくれているのだろうか。うすら寒いので考えないことにする。
なんにせよ、帰らなければ。
修道院はどうなったろうか。パウラとフロリカは。アスターとラダはちゃんと戻ったか。エウレーナはどうした。バシェットたちは。この薬は結局なんだ。ヴィスクの調査は。マデレックは見つかったか。領主はどうするのか。
考えることも気になることも多すぎるが、とにかく一度帰ろう。ノノを休ませよう。自分も休もう。
だが、
「どこ行くんだい? こっちはおうちじゃないよ」
「……まぁ、そうなんだけどよ」
領主の屋敷から近所だったせいか、ちょっとだけ遠回りを選んだ。どうしても足がそちらへ向いた。
三頭の蛇亭。まだ中は明るいようだ。おそらく少ない客に、オーリーのおやっさんがつまみを作っているだろう。
入る気は無い。ただ本当に、なんとなく足を運んでしまった。
バシェットの、ザンブルムスの顛末を、きっと彼はまだ知らない。昔の仲間が辿り着いた、辿り着いてしまった結末を知らない。
知ったとしても、あのオヤジのことだから表面にはおくびにも出さない。
だが――次はどんな顔して会ったもんかなぁ、と思った。
「――あ! ガンズーだ!」
突然の声。馴染みのある声。
ガンズーの心臓はたぶん潰れた。それくらいの衝撃だった。
振り返る。横を見る。首を曲げる。どれでもいいが、とにかく自然にやったつもりだった。油の注していない歯車のような動きだった。
ミークがいた。セノアがいた。レイスンがいて、トルムはなぜか彼に背負われていた。アノリティは転がっていた。
今、ちょうど帰還したのだろう。ところどころ汚れている。
「わー、なんか久しぶりー! なにしてんのこんなとこでぼーっとして」
「ちょっと待ってあんたなにそれ。蛙……? と……え、なにその子」
「わ! ホントだどしたの!? まさか誘拐!?」
「ミークさんセノアさん落ち着いて。ガンズーさんが凄く面白い顔になってます」
「どうしたのガンズー? なにかあった?」
ガンズーは――もうなに言おうとしたのかわかんねぇ――泣いた。
仲間の顔を見て、変わらない顔を見て、あらゆる感情が吹きあがって。
ガンズーは、本日二度目の大号泣をした。




