鉄壁のガンズー、風呂
ガンズーが放心しているうちに、ノノはまだ少し眠かったのか寝室に戻ると、ぽとんと寝床に倒れた。
カエルさん、とか言いながらむにゅむにゅして、ほどなく再び寝入った。
釈然としない心のまま、彼女に毛布をかけてやる。
居間でひとり、腕を組んで考える。
ケーとかいうあの蛙は少なくともノノに対して害意は無い。と思う。
終始なにを言っているのかよくわからなかったし、結局その正体も不明のままだが、ノノに会うために来たというところは真だろう。
魔族の間諜である、という線もあるが、それも考え難い。わざわざガンズーたちの目の前に立ってべらべら喋くる必要がないからだ。
そしてやっぱり、あんな弱い生物が魔物であるとは思えない。
弱い。そう、弱いステータスだった。ステータスだ。
ケーはガンズーの能力を知っていた。いや、もしかしたらこちら以上にそれがなんなのか把握できているのかもしれない。
ガンズーは今までこの能力が魔術のたぐいだなどと考えたこともなかった。
しかし言われてみれば、なるほど確かに、こんな妙な技能は魔術魔導の延長と受け取れる気がしてきた。
そうなると、ガンズーの能力はそれほど特殊な事例ではない?
そもそも、転生者が特殊ではない? ケーも他の例を知っていた。
いや違うな。ガンズーは思った。
実際にこの能力を使える、感知する者がこれまでいなかった以上、やはり特異であると考えるほうが自然だ。
ケーの口ぶりからして、知っていたのではなく魔術的な解析でもって看破したような言い草だったのだ。それはそれでいよいよ奴の正体が知れないが。
とはいえ、他に転生者もいて、この能力のこともわかるとしたら――わかるとしたら――
なんだろう?
「ドたま痛くなってきた……」
ダメだ。一度に色々と考えすぎた。ガンズーは細かいことを考えるのが苦手なのだ。
とにかく、ケーにはまだまだ聞きたいことが山ほどある。
素直に答えてくれるとは思えない――ノノに聞いてもらおうかな――が、次はしっかりとっ捕まえて尋問してやろう。
そうだ。そして、もしもこの能力の詳細がわかれば――
ステータス限界という、この状況の打開策があるかもしれない。
そこまで考えて、ガンズーは再び寝室の扉を開けた。
ノノは幸せそうに眠っている。
「……まぁ、もうちょっと後でな」
ちょっとな。
気を取り直して、ガンズーは居間を見渡す。
改めて家の中を眺めてみれば、やはり広くはない。
広くはないのだが、居間があり寝室があり風呂場まであり、竈には煙突もついていて、逆にこの広さならば冬場の暖房代わりにもできそうだ。外にはきちんと便所が備えられている。
尋常ではなく充実した内装だった。もしかしたらアージ・デッソの中でも上等なほうかもしれない。
どうもカゼフはかなり稼いでいたようだ。上級冒険者としての稼ぎの大半をこの家そのものに注ぎこんだのではないだろうか。
金が無くなって、この家そのものを売り払う手もあったろうが、そうはしなかった。その理由はもうわからないが、おかげでその恩恵を受けられる。
というわけで、ガンズーは竈の前に立っていた。
夕食の準備をしてみようと思い立った。節制である。節約である。自炊である。
火の起こし方はわかる。それくらいはわかる。水の沸かし方もわかる。当然だ。鍋に水を張って竈の上に置けばいい。
さてそこからどうしよう。
ガンズーは料理をしたことがない。ガンズーになる前でもしたことがない。
傭兵団にいたころも作られたものを運ぶか運ばれるかだけだったし、冒険者になってからも野営の時は簡易的な保存食をそのまま齧っていた。
トルムに出会ってからは、料理が趣味だという彼にほぼ任せていたので、いよいよ料理などする機会がなかった。
この世界にも湯を入れて数分待てばいいだけの飯があればいいのに。ガンズーは思った。そして、ノノにそんなものばかり食わせるのか、と自己嫌悪した。
さて。食事である。飯を作るのである。
日持ちのする乾麺や米――この国の米はちょっと大きいし、炊いてもあまりぺたぺたしない――や塩漬けの肉や魚、根菜のたぐいなんかも買ってみた。悪くなりそうならそのまま齧ろうと、葉菜も少し。
いちおう、干し麦も堅パンも残っている。
塩も買った。胡椒も――てっきり希少なものと思っていた――買った。正体はわからないが、最も売れ行きのいい油も買った。砂糖らしい砂糖は無かったが、ザラメのような糖があったので買った。
で、これをどうしたら料理になるのだろう。
最初から難しいものを作る必要はない。まずはちょっとしたスープなんかでどうだろう。そう決めた。
そして、刃物の扱いは慣れているのだから、とりあえず肉と野菜を切ってみようと考えて――包丁やナイフのたぐいが無いことに気づいた。
ノノが起きてきたとき、ガンズーはテーブルの端でうなだれていた。
この家の弱点のひとつに、他の家が近くに無いというものがある。なにか借りにちょっと出ることができない。いや、行こうと思えば行けるかもしれないが、顔を知る相手がいない。
ご近所付き合い。そんな言葉がガンズーの頭に浮かんだ。
せっかく意気込んだので、食事は作った。
当初の予定どおりスープにした。水に塩と胡椒と肉と葉菜を入れて煮込んだだけのものをスープと呼ぶかは分からないが、とにかくスープにした。
葉菜は手でちぎった。肉も手でちぎった。めっためたになった。
しょっぱくなりすぎては食えないだろうと、そこだけは細心の注意をはらった。
「……どうだ?」
ノノの顔は皺まなかったし、文句も言わずに食べてくれたので、かえってガンズーは申し訳ない気持ちになってしまった。
改めて自分も食べてみるが、意外と食えなくはない。
案外やれるもんじゃねぇかなどと思ったが、よくよく味わってみれば、大雑把に塩漬け肉と胡椒の風味しかしていない。
ノノの足は静かだった。
「……ナイフだな」
料理用のナイフを買おう。
ガンズーの持ち歩く道具の中に雑用の小さなナイフはあるが、やはりそれは使わない。
毒のある植物の採取や魔獣の解体にさんざん使ったものだから抵抗がある。
ナイフ一本で料理の腕が変わることはないが、とにかく買うことに決めた。
節約を誓った途端にまた買うものが出てきてしまった。
前途多難だな。ガンズーは天井を仰いだ。手持ちの金も一度しっかり数え直さなければなるまい。
と、食事――まぁ少なくとも食事にはなった――を終えたノノが、しきりに鼻をひくひくさせていた。
なんだろうかと、ガンズーも周囲の臭いを嗅いでみるが、特に異常はないように思える。
服もまだそこまで、と頭を傾げて嗅いでみたら、わりと臭かった。獣臭である。そういえば狼の魔獣に噛みつかれていた。
そこでノノが「ん!」と声を上げた。
「あたま」
「頭?」
「あたま」
そう彼女が言うので頭に手をやり、その手のひらを嗅いでみる。
ちょっと凄かった。というか、正体不明の汚れも少しついてきた。魔獣に頭をしゃぶられたことを思い出す。
「うお、マジか。ずっとついてたから鼻バカんなってたかな」
手は念入りに洗ったものの、髪にまで気が回らなかった。傭兵やら旅の冒険者やらをやっていると、こういうところに鈍感になってしまう。
数日間、水浴びもできない状況が続いたりすることもあるので、多少の――多少どころではないと言われれば反論できない――汚れや臭いは意識の外に置くようになってしまう。
セノアのおかげでここ数年はマシな環境だったとはいえ、染みついた習性はなかなか拭えない。
そういえば、ノノは最後にいつ身体を洗ったろう。
孤児院にも風呂はあるだろうから、あちらに泊まったときがおそらく最後か。
そして頭の上で蛙が転がったばかりである。ケーは見た限り汚れを身体に乗せていたりはしなかったが、しかし野生生物に変わりはなかろう。
「風呂いれてみるか」
せっかくドートンが風呂釜を洗ってくれたのだから、使わない手はない。
七曜教は清潔を広く民衆に推奨してきた。
なので、少なくともスエス半島において入浴の文化はかなり古くから根づいていて、行水だけでなく湯浴みや蒸し風呂も一般的だった。
どうもカルドゥメクトリ山脈や内海の向こうの国でもそうらしい。
ガンズーがこの世界の常識で最初に驚いたのがこの点である。マナの存在や耳の形の違いよりもこれが意外だった。
なにせ最初はまさに中世ヨーロッパの世界だと思ったのだ。ガンズーの貧相な知識でも、衛生観念はあまり高くないものだと思っていた。
だからガンズーは、おおむね古代ローマみたいなもんなのかな、と考えた――映画で観たので。それにしても建築物や食物や服飾と、文明全体としてはやはり中世から近世ヨーロッパに近い気がする。
困ったことに半島内でも元号が統一されていなかった――なんだっけ、えーと確か、き、紀年法? あれが国でバラバラ――ので、このあたりがよくわからない。
とりあえず今はバスコー建国六十三年であり、七曜教が制定した紀元からすると二百八十五年であるらしい。
いつか落ち着いたら、王都の図書館でこの国やこの世界の歴史を調べてみたいかも、とは思っている。レイスンあたりに教えてもらうのもいい。まぁ、いつかな。多分な。
もう少し世界史ちゃんと勉強してりゃ興味も出たのかなぁ、なんてことも考えてしまう。
ともあれ、元日本人であるガンズーにとってこの文化はありがたい。
もうすぐ日が沈む。暗くなる前に準備しようと、風呂釜を抱えた。
意気揚々と川へ向かい、風呂釜にゴミが入らないよう覆いを当てて水を汲む。たっぷり汲んでもそのまま持ち運べるのがこの身体のいいところだなと思った。
風呂釜といっても、ちょっと深いたらいのようなもの――ドラム缶風呂だな――だが、どうにかガンズーの巨体も収まりそうである。さすがに肩までは浸かれないだろうが。
風呂釜を戻して、焚口から火を起こし薪をくべる。水がほどよく温まってきたので薪を少し散らしてから、ゲス板を沈めた。
「おっしノノ、身体洗うぞ――」
と言ったところで、んん、とガンズーは止まった。
言うまでもないことだが、ノノは女の子である。
ガンズーはいくらなんでも三、四歳の子供の裸に興奮するような嗜好はしていないが、かといってつい先日から共に暮らすようになったばかりの人間がそんな面倒まで見てしまっていいものだろうかと迷った。
そもそもなぜこの瞬間まで気づかなかったのかと自問する。ガンズーは大雑把な男だった。反省しようと思った。
しかし彼女はまだひとりで風呂に入れないだろう。一緒に暮らす限りはガンズーの仕事となる。腹をくくらなければなるまい。
天国にいるであろうノノの母に祈る。
いよいよとなったら、俺が責任をもってあの子にしっかりした旦那を見つけるから、許してくれと。けして悪い始末にはしないから、信じてくれと祈った。ついでに地獄に行ったかもしれないカゼフにも祈った。
などとしているあいだにノノはさっさと全裸になってとてとて向かってくる。
あばら骨が浮いている。手足も細い。ガリガリだった。
くだらねーこと悩んでる場合じゃねぇわこれ、とガンズーは自戒した。
幸いにも、道具袋の中にオリーブ石鹸が残っていたので使う。すっかり縮んでいるが、まだしばらくはもつ。
手桶でノノにお湯をかけ、石鹸を泡立てながら、垢すりなんかも欲しいなとガンズーはぼんやり思った。
「め!」
「うお! すまんすまん、目に入ったか? ごめんな」
「んー」
手拭いで顔を拭いてやるとノノは目をしばたかせた。
彼女の黒髪は細く柔らかい。洗い流してみるとよくわかる。
切り揃えた頃からただ伸ばすままになっていただろうに、さほどの癖も無い。少し栄養が足りていない感じもするが、奇麗なものだった。
温度を確認してから、ちょっとつやつやしたその子を湯舟に上げてやる。
「熱くねぇか?」
「ん」
丁度いいようだ。
風呂釜の深さからノノは立っていなければならないので、釜のへりに寄りかかっている。
火の具合を見てみるか、とガンズーが身を返そうとすると、服の裾を掴まれた。
「ん」
「ん?」
「ん」
「んん?」
「入るよ」
「……もしかして、いつもは母ちゃんと入ってたか?」
「たぶん」
「……父ちゃんもか?」
「たぶん」
「そうかぁ……」
やっぱりガンズーはかなり迷ったが、最終的に根負けした。
なので、
「あ゛ぁ~」
湯船に浸かると抗いようのない声が出て、ガンズーは溶けそうになった。
湯の半分近くが勢いよくこぼれ出て、排水口へ吸い込まれていく――単に川のほうへ流れ落ちるようになっているだけだが――のを、ガンズーの膝に座ってノノは眺めている。
やはり風呂はいい。ここ最近のあれやこれやが浄化されて抜け出ていくように感じる。
足首になかなか染みたが、だんだんと温かさにほぐされていって、きっと治りもよくなるだろうと思う。
大変だったなぁ、としみじみ思った。
トルムたちと離れて、飲んだくれて、イフェッタに介護されて、子供たちを助けて、魔族と戦って、大掃除やらされて、慣れない買い物もして、新人たちのために走って、変な蛙がやってきて、飯なんて作って。
ノノと暮らすことになって。
まだ一週間も経ってねぇんだなぁ。ガンズーは軽く驚いた。ここまで怒涛の展開はこれまでの旅でもそうそうなかった。
ノノにとってもそうだ。まだ短い人生が、あっという間に激変した。
明日からまた、まるっきり未知の生活になる。
未踏の洞窟に踏みこむのとはまた違う、奇妙な期待と不安があったが――
「ま、一個一個やってくしかねぇな」
まずは真っ当な食事を作れるようになろう。
ノノの髪を大きめの布で吹きながらガンズーは、やはりどちらかといえば不安が大きいかもしれん、と独りごちた。
布をひとつ絞ると、自分の身体と頭も拭く。
誰かに習うのもいいかもな。ガンズーは思った。
ノノがこちらを見上げている。自分の作った食事で、彼女の足をぱたぱたさせてやろう。
目下の目標を定めて、ガンズーは布で股間をぱんと叩いた。
虹の眼がこちらをじっと見ていた。
「ちんちん」
やめなさい。




