鉄壁のガンズー、レクチャー/ドートン
ドートンが物心ついたころには、故郷であるベンメ村はすでに過酷な状況にあった。
ひと昔前まではもっと東にまで村は広がっていて、湿地を利用した産業もそれなりにあり、人も多かったのだという。
それも大蛇が現れてからは、西へ逃げるように逃げるように村の領域を狭め、全盛期の二分の一以下になってしまった。
外へ逃げ出す住民も多かった。
しかし一時的な疎開でもないのに、行く当ても無く貯えも無く外へ出て、暮らしていくことは難しい。旅立った夫婦が、子供を全滅させて逃げ帰ってきたこともあった。
そして、逃げ出すまでもなく人は減る一方だった。
ドートンが幼少時に遊んだ村の子供で、今も生き残れた者は指で数えるほどしか残っていない。
ドートンの家はかなり恵まれていたほうだ。
幸いに自身も、同じ日に先に産まれたダニエもすでに家を手伝っていた兄も、病や、毒や瘴気にやられることなく育った。
父は子供にも受け継がれた金髪を指して、どこかで貴族の血が入ったからうちは昔から身体が頑丈なのだなどと言っていた。本当かはわからないが、丈夫に生きていられることは確かだった。
でも、ふたつ下に産まれた妹のディナはダメだった。
四歳のころに、蛇の毒による症状が出た。
皮膚の下の血管が青黒く浮き上がり、そこから痺れて動かせなくなる。指先から広がって、全身に至る。大抵は、全身に回る前に衰弱して死ぬ。
ディナは早かった。痕が肩口まで広がったあたりで、もう起き上がることができなくなった。他の病も併発していた。
たしかに妹は苦しんだが、あまり長く患うことはなく、あっという間に亡くなってしまった。
母が泣いているのを、ドートンは後ろから見ているしかなかった。
ただ、次の年には家の内職を彼女にも教え始めるはずだったので、ダニエが教えたかったと泣くと、ようやく自分も少し泣いた。
それからなにも知らず眠る末弟の顔を見て、ドートンはもっと泣いた。
なにもできない自分の身を呪った。なんの力もない己を呪った。
神様どうか、妹を返してくださいと願った。それができないなら、どうか弟は連れていかないでくださいと願った。そしてそれも許されないなら、代わりに自分を連れていってくださいと願った。
ドートンは神の名を知らなかったので、とにかく誰でもいいから祈った。
しばらくして、祈りに答えは無いと悟ると――弟のデイティスだけは、なんとしてでも守ろうと誓った。
なんの力もない自分だが、それだけは叶えたかった。
だから、あの日。
誰も敵わなかった、悪魔のような蛇を打ち倒した彼らを見て。
自身の背丈よりも大きなその蛇の頭を掲げ、帰ってきたガンズーを見て。
これ以上はないというほどに悔しくて――そして、これ以上はないほど、その姿に憧れたのだ。
だがドートンにそんな生き方はできない。己が最もよくわかっていた。
確かに身体は丈夫に育った。しかしそれも他と比べて少しという程度だ。村には自分より大きい身体を持った者くらいいる。
ダニエはとても手先が器用で目端が利くし、デイティスには魔導の才があるかもしれないと村の導師は言った。兄はすでに父の農地を半分継いでいる。
家を出て、浄化され始めた湿地の近くに住み、ここで泥炭を採って暮らすのが自分の器だろうと思っていた。
父や村長にそろそろ身を固めろと言われ、それもいいかもしれないなどと思っていた。
デイティスが、冒険者になると言い出すまでは。
ほんの一瞬、気を失っていたことに気づいて、ドートンはむしろ自分がまだ生きていることに驚いた。
森の木立に背を預けて、座りこんだつもりだったがまだ腰は浮いていた。座るのさえ待たずに意識を手放したのか、あるいは身体がまだ緊張を解くなと言っていたのか。
左腕に走った数本の傷はどくどくと熱を持ってうずき、血が止まらない。
それでもこの程度の負傷で済んだのは奇跡だった。あの黒狼の膂力を思えば、腕が丸ごともぎ取られてもおかしくなかった。
デイティスとダニエは無事だろうか。あの馬車は無事だろうか。
ドートンは深く息を吐きながら家族の顔を思い浮かべる。
それから、馬車から覗いた少女の顔を思い浮かべようとして、一瞬しか見かけなかったのでほとんど顔など覚えていないことに気づき、自嘲した。
馬車を助けようと言い出したのはデイティスだった。どう頑張っても勝てそうにはない魔獣が相手で、ドートンもダニエも反対した。
だが、見てしまった。馬車の中に商人らしき男と、その娘らしき少女を。
ディナが生きていれば、同じくらいかな。そんなふうに考えてしまった。
黒狼は知能が高いと聞くが、それでも投石をしながら挑発してみれば、突然の乱入者に攪乱させることができた。
大きく回りこむように投石を続けると、魔獣の包囲に穴が開いて、ダニエの誘導で馬車は難を逃れた。
だがそれでかえって魔獣たちの狙いは再び馬車に向かった。デイティスもそれに気づいたようだった。
馬車との間に立ちはだかろうとするデイティス。無茶だった。次の瞬間に彼は八つ裂きにされる。
だからドートンは、短剣を抜き放って一匹の黒狼に斬りつけた。
当然のように刃は届かなかった。だがその黒狼がこちらに向かって唸り声を上げたおかげで、他の三匹の狙いが混乱した。
近くの森に転がりこみながらドートンは、「真っ直ぐに逃げろ!」と叫んだ。
腕の傷を押さえて呻く。
森に逃れようとしたが、黒狼の速度に敵わなかった。どうにか木を盾にしたが腕を裂かれた。
血が落ちればきっと逃げ切れないし、それ以前に今すぐ死にそうだと思ったときに目に入ったのは、狼が嫌う臭いを発する低木。ベンメ村の周辺にも生えていたものだ。
それを掴み折ると、黒狼は甲高い鳴き声を上げて少し離れた。それでなんとかドートンは森の奥まで逃げることができた。
とはいえ、時間の問題だろうと思う。
少なくともあの一匹は追ってきているのがわかっていた。きっと血の匂いを辿って、今も近くにいるだろう。
下草を踏む音もさせず、きっとこちらを窺っている。
魔獣と化しても狼は慎重なのだなと、ドートンはぼんやり思った。
自分など、様子見せずとも即座に殺すことができる獲物だというのに。
死ぬのは怖い。当たり前だった。これから死ぬと思うと、震える。
だがそれ以上に、弟たちのことが心配だった。無事に街まで逃げたとして、きっと自分が死んだら悲しむだろう。
デイティスには挫けずに己の思う道を行ってほしいし、そんな彼をダニエにすべて任せることになってしまうのは心苦しかった。
そしてふと、尊敬する鉄壁のガンズーにひどく無礼な口をきいてしまったと思い出して、ダニエは代わりに謝ってくれるかなぁ、などと思った。
傷の熱にうだる頭を横に向けると、魔獣の目があった。
背を預ける木の後ろから、覗きこむようにそれはある。
鼻先が触れそうなほど至近だった。
くるるるる、と喉が鳴る音が聞こえる。
ああ、死んだな。そう思った。
黒狼がぎちぎち口の端を広げると、涎が落ちる。
笑ったようにも見えた。
黒狼は大きく口を開けると――
その姿のまま横へ吹っ飛んで、木立を叩き折った。
◇
「あああ痛ってぇ! 間違った右で蹴っちまった!」
片足立ちでぴょこぴょこ跳ねながら、ガンズーは叫んだ。
右足首から電撃のような痛みが走る。お前そりゃあそうだろう、と右足がオプソンの声で語りかけてくる気がした。
ひとしきり騒ぐと、ガンズーはそろりと右足を下ろしてから、ドートンへ振り向いた。
「おう、まだ生きてんな。やるなお前」
ドートンはなにが起こったかわからないようで、目を白黒させている。
傷を見てみれば、そこそこ深い。だが、致命傷とまではなっていない。
自分用に換えの包帯を持っていてよかった。そう思いながらガンズーは彼の腕に薬をすりこみ包帯で巻き始めた。
「な、なんで……」
「なんでってお前、たまたまだよ。お前さんの姉弟が言うもんだからよ。いい家族もったなぁ」
姉弟が無事なことがわかり、ドートンは安堵したようだった。
だが次の瞬間、彼が叫ぶ。
「危ねぇ!」
その声と同時に、ガンズーの背になにかがのしかかった。それから、首に噛みつかれる。狼の魔獣の爪先が肩にかかっている。
ドートンは絶望的な顔をしていたが、
「……ちょっと縛り終わるまで待ってろや」
ガンズーはそのまま包帯を繰り続けた。
信じられないものを目の当たりにしてドートンは目を剥いているし、魔獣はなにかおかしいと思ったのか、首から顎を外して今度は頭を噛んだ。
包帯を巻き終えて「よし」とガンズーが言うと、ドートンは「いやよしじゃなくて」と呟いた。
「待てっつーのにこんにゃろう汚ぇなぁ」
頭から魔獣の顎を無理やり引きはがして、ガンズーは額に垂れた涎を拭う。
そして、
「こんなとこまで来ちまった自分を恨んでくれよ」
言って魔獣の頭に手刀を振り下ろす。
ぽぐん、と小気味のいい音が響いて、魔獣の首から上は地面すれすれまで垂れ落ちた。
ちょっと想定と違う倒し方になったが、割れて中身が散るよりはいいかとガンズーは頷く。
振り返ってみると、ドートンはなんだか納得いかないような茫然とした顔をしていた。
「お前、魔獣を相手にしたことは?」
「――え、え? いや、無い、無いっす。魔獣どころか野犬や害獣とかも」
「んじゃちょっと剣貸せ。せっかくだから土産話に教えてやる」
短剣を受け取ると、ガンズーは魔獣の目に切っ先を入れる。
「真面目に鍛えてりゃ、そのうち小躯くらい相手にできるようになる。けっこういんだよ、そのときんなって核石の採り方わかんねぇってのが」
「は、はぁ……」
「あ、ていうかお前、傷は平気か? そこまで血は出てなかったが」
「た、多分大丈夫……ちょっとふらつく、つきますけど……」
「んじゃ大丈夫だ。いいか、死なねぇくらいの傷はなるべく我慢して自力で治すんだ。そうすりゃ身体はばんばん頑丈になる。ああでも、ちゃんと消毒はすんだぞ。病気は怖ぇからな」
「無茶……」
ドートンはもしかしたら「無茶いうな」と言いたかったのかもしれない。だがガンズーは事実しか言っていない。
ステータス嘘つかない。
まぁ、ガンズー並みの頑健さを手に入れる人間はまず他にいないが。
「コツは、死なないくらいってとこだ。死ぬな。だから、あんまり無茶して家族に心配させんなよ」
「す、すんません」
「おう。しかしまぁ、冒険者なんて無茶するのが仕事みたいなもんだしなぁ。だからお前はよくやった。誇れ」
「……はい」
眼球から水分を出し、サクサクと割って、水晶体を周りの筋膜から切り外していく。
瘴気の靄が滲んできたので、一度放って散らせる。
「ガンズー……さん、は」
「ん?」
「勇者様たちが戻ったら、また一緒に行くんすか……ですか」
「おう。そのつもりだぞ」
「あの、あの子はどうすんすか」
「それなんだよなぁ。連れてくわけにもいかねぇし。ま、そのときんなったら考えるぜ。あいつら――トルムたちも一緒に考えてくれるだろうしな。ただ」
「ただ?」
「そのときまでは、ノノと一緒にいてやりたいんだよ。なんつーか、ほんと色々あってなぁ。ちょっとぐれぇ、この世界も捨てたもんじゃないって教えてやりてぇ」
瘴気が散ったので、眼球を拾いなおす。
ふと見ると、ドートンは少し悩むような顔をしていた。
「他にも……あんな子は、いる」
「そうだな。でもなぁ、困ったことに俺の腕はそんな長くねぇんだよ。他の奴よりゃちょっとでかい自信はあるけどな」
「そんなもんじゃねぇ! あんた、もっといくらでもやれるだろ!」
ドートンが声を荒げ、痛んだのか左腕を抱えた。
その声にガンズーは少しだけ面食らったが、ひとつ嘆息して、
「と、俺も思ってた」
「え?」
「昨日も言ったが、今回ちっと俺は役に立てねぇことんなってよ。そりゃあもう参ったぜ。自信なんかどっか行っちまった。だが」
再び水晶体を取り出すために短剣の刃をたてる。
質の悪い刃では苦労する作業だが、なかなか調子がいい。アージ・デッソの鍛冶師はやはり質が高いようだ。
「考え直した。できねぇことがあるなら、できることやりゃいい。俺ができねぇことは、できる奴に任せる。トルムたち仲間とかにな。そしたら、それからはまた俺があいつらを助ける番だ」
「……あんたができないことなんて」
「そんで、もっと助けたい連中もいるが、ちょっと手が足りねぇ。お前らみたいなのが育ってくれりゃ、助けになってくれて嬉しいんだがな」
「……は?」
外した水晶体を頭上にかざして眺める。流石にウークヘイグンの――魔族のものには届かないが、質が良かった。
手ぬぐいで拭きあげ、ドートンに差しだす。
「いや、え?」
「採り方わかったか? やるよ。売ればまぁ、ひと月分くらいの金にはなるだろうが、なるべく売るな。もしもの時にとっとけ」
「あの、でもこれ」
「お前のおかげであの馬車は助かった。お前の姉弟も助かった。俺はそこにいなかったから、お前がここにいてくれて助かった。お前さんの手柄だ」
ドートンは差し出された核石をしばらく眺めていたが――
受け取ると、祈るように強く目を閉じた。




