ノノ
彼らはなぜこうも優しいのだろう。
世界とはもう少し難の多いものだったはずなのだけど。
理由は――なんとなくわかる。
その世界をこじ開けた者がいたからだ。
ひらけた世界のその向こうからあの人はやってきた。
そりゃもう、その先には優しさが満ち溢れているに決まっている。
だからどうか、この世界を壊さないでほしい。
あの人のように、みんなを守れる力が欲しい。
剣さえ持てない短い指が恨めしい。
イフェッタの胸に剣が突き立つのを眺めていることしかできず、ノノはそんなことを思っていた。
でもきっと、みんな助かる。
だって必ず来る。
◇
剣を引き抜いた男はなにやら不可解そうな顔をしていた。うっすらと血の付着した刃の先端を見つめている。
崩れて倒れたイフェッタは動かない。
蹴り飛ばされ、通りに転がったフロリカも動かない。
だからノノは怒った。
本当ならば、一緒に怒ってくれる人がいる。
でも今、ここにはいない。自分がやらねばならない。
石ころを掴んだ。投げつける。もっと拾う。投げる。
「ああ、悪かった悪かった。俺もね、こんなにまでするたぁ思ってなかったんですよ。でも雇い主の要望なんでね、すまんね」
半笑いを浮かべながら、ジェイキンとか呼ばれていた男は片手で石を払う。まだまだ投げる。外套の表面にぺしんぺしんと当たって落ちる。
南門は外壁ごと半分ほどが崩れていて、その瓦礫が転がっている。自分でも掴めるような大きさのものは少ない。
関係ねぇバカやろうこのやろうやってやらぁ。パパならきっとそう言う。
自分の頭よりも大きい瓦礫を、ノノは抱え上げた。
「おいおい、危ねぇですよ」
どたまカチ割ってやる。どたまってなんだろう。きっと頭のことだと思う。
奴の頭に瓦礫が直撃している姿を想像しながら、うんしょ、と肩に力を入れた。
瓦礫は力なく地に落ちた。きっと後ろから首根っこを掴まれたからだ。そうでなければ、この石は縦横無尽に乱舞しジェイキンだろうが魔物だろうが頭を粉砕しつくしていた。
首を捻って後ろを見れば、禿げ頭を撫でる老人。ウィゴール。
「いや参った参った。遠いんじゃまったく。貴様、あっさり追い抜かしていきおって。苦労しとる年長者を負ぶってやるくらいの気遣いはできんのか」
「そういうのは命じられてないんでねぇ。たまにゃいい運動になったんじゃないですか」
「拾ってやった恩も忘れおってからに……」
この老人はパパと対峙していたはず。
ならば、そのパパはどこだ。辺りをきょろきょろ見回しても、その姿は無い。
「これこれ暴れるな。あの男ならおらんぞ。もう会えん」
「それなんですがね。野郎、這い出てきてましたよ。そこで力尽きたみたいですがね」
「バカを言うでない。地層の下のほうまで掘ったんじゃ。儂にだってもう場所なんぞわからんほど深くにな」
なにを言っているのかはわからないが、そのとおりだ。バカなことを言うんじゃない。
パパを誰だと思っている。ガンズーだ。
きっともうすぐ来る。
「本当なんだがな。まぁいいや、ガキも手に入ったことだし、さっさとご主人サマのとこに行きますか」
「何度も言うとるが、儂の主人はあれではない。ちょうど持ち場だから協力してやっとるだけなのじゃ。むしろ儂が上じゃ」
「へぇへぇ、左様で。俺の雇口は向こうなんで、どっちでもいいですよ」
老人がのんびり歩き始めれば、猫のようにぶら下げられたままの自分もぷらぷらと揺れる。捕まれた襟に手をやってみても、鱗でひんやりした腕は解けてくれそうにない。
来る。ガンズーは来る。もう来る。絶対来る。
「――ノノを離せこんにゃろう!」
ほら来た。
と思ったのだが、ちょっと声が違う。
外周通りの向こうから走りこんできたのは、ドートンというパパの友だち――弟子とか言っていたがやり取りを見ていると友だちみたいに思える――だった。
ほんの少しガッカリしたのは、絶対に黙っておこう。
「なんだありゃ」
「邪魔だの。おい貴様、なんとかせぇ」
「なんとかするほどのモンかねぇ……」
鉄槌――あんなもの持っていたっけ? ――を掲げて走り寄るドートンに、緩々と向き直るジェイキン。
自分を掴んだままのウィゴールは、それを全く無視して歩を進めようとする。
別方向から飛んできた短剣が、彼の腕にある鱗に弾かれた。
「――チッ!」
「今度はなんじゃ」
煩わしそうに言いながら老人が顔を上げると、やはりその反対方向から影。
一瞬だけ見えた顔はやはり知っているものだった。ダニエが、大振りの短剣を片手に突撃してくる。
が、そこに柱が立った。地面が爆散したように上方へ噴き出したのだと思う。
ゴロゴロと横へ転がって、彼女はすぐに身を起こした。
「ありゃ。勘がええのう。吹き飛ばしちゃるつもりじゃったが」
「ふう、ふう……集中、感知、動作。集中、感知、動作……」
肩で息をしながら、ダニエはなにか己に言い聞かせるように呟く。ウィゴールはそれをつまらなさそうに眺めていた。
「おい、ジェイキンとやら。これもどうにかせぇ」
「あいよー」
振り回される鉄槌を遊ぶように躱していた黒衣の男が、急に速度を上げて身を翻した。
横から突きこまれた蹴りを、ドートンは目で追うこともできなかったようだ。
ただ、動かなかった。吹き飛ぶのは我慢したらしい。だからその足を掴むことだってできた。
「ありゃ?」
「ふんがぁっ!」
一回転して相手を投げ飛ばしたドートンが、そのままヨロヨロと蹲った。投げられたジェイキンは空中で姿勢を戻し、ちょうど南北通りの中央辺りに降り立つ。
「ぐっおおお……アバラ折れたちくしょおおお痛くねえぇうぐぐ」
「いやー、折れる程度で済ますつもりじゃなかったんですよ。なんだコイツやたら硬ぇなぁ」
「おいなに遊んどる。さっさと行くぞい」
「人のこと言えんでしょうが」
ウィゴールが杖でひとつ、ふたつと地面を叩けば、土でできた槍が地面から飛び出す。横へ飛び前へ飛び、ダニエは辛くも躱し続けていた。距離はこちらに近づいてもいないが、けして離れてもいない。
「ノノちゃん!」
「あーもうやかましい。蠅じゃないんじゃからさっさと落ちんかい」
言って、最後に目の前の広い範囲を爆散させると、ウィゴールはその杖をジェイキンへ向けた。
「儂は疲れとるんじゃ。露払いくらい若いモンがやらんでどうする」
「へいへい。俺も働き詰めなんですけどね。ま、ガキ連れ帰りゃ終わりだし、休みまでもうすぐだ」
「そうだね、ゆっくり休むといいよ」
唐突な声と共に剣閃。ノノの目にはジェイキンが断ち切られたように見えた。
残像を残して大きく跳んだ彼と、その目線の先には銀髪を揺らす姿。
「勇者トルム――!?」
「おーい君たち、大丈夫? ありがとね、下がってて」
彼は驚愕の声を上げるジェイキンを無視して、遠くで転がるドートンとダニエの心配をしている。
両手に剣と盾を携えて、自然体ですたすたと歩いてきた。
なるほど。パパが言っていた。あの人はパパの一番の友だちだ。
パパはどうやら今、ちょっと忙しいらしい。
だから彼が来たのだ。なるほど。
舌打ちが響き、黒衣の男が持つ剣が小さな金属音と共に光沢を失っていく。背後からは、「だから遊ぶなと言うたんじゃまったく」などとぶつぶつ聞こえてきた。
「魔術剣かぁ……」
ジェイキンの持つ剣をひと目して、それからトルムはこちらに視線を移す。うーんと考える素振りをして、右手の剣を顔の前に翳した。
「【銀の剣】」
赤みがかっていたその刀身が、かすかに光ると真っ白に染まった。なにか砂糖が塗されたように瞬いていて、ノノはお菓子の剣だろうかと思った。
ひゅん。こちらを見据えたまま、トルムが無造作に剣を振る。
はっきり見えたのは、おそらくまだ雨が続いているから。霧雨の中を、月を描いたような白い軌跡が飛ぶ。
それを向けられたジェイキンは、身を滑らせて躱した。先ほどまでの余裕を持った動きではなかった。
「【暗霞】!」
トルムへ駆けると同時に叫ぶような声。彼らの周囲が唐突に黒く染まる。大きな靄のようだ。
が、即座にその中から飛び出してくる銀の姿。くるりとその場で回転すると、靄を両断するように剣閃を飛ばす。
飛ぶ斬撃に押し出されるようにしてジェイキンも靄から現れた。そのまま、向かいにある宿屋の壁に突っこみ瓦礫の中へ。
もうそちらを見ることなく、トルムはこちらへ駆けだした。
「ええい邪魔くさい!」
イラだった声。そして横から乱暴に振り下ろされた杖。
地面が小さく弾かれる。ぐしゃりと謎の音。
トルムの足先が地面に沈んでいる。
「ふっ!」
一瞬。
彼がしたのは息を吐いて前傾姿勢になっただけだった。
そうしただけで、もうその姿は手を伸ばせば届くほどの近くにまで迫っている。後ろに、泥を蹴り飛ばしたような跡だけ点々と残る。
横薙ぎにこちらの頭上、ウィゴールの首を狙う剣。
ウィゴールは――やるだろうなと思った――ノノをその剣の前に差し出した。
トルムは剣を止めない。
ふほ、と老人の奇妙な笑い声が聞こえた。
身体を引かれる感触だけわかった。それと、歪む視界。
気付いた時には誰か別の人間に抱えられ、数歩先に剣を薙ぎきったトルムの姿。
「ふいー、危ない危ない」
振り向いてみれば、女が額の汗を拭っていた。ノノは彼女に横から掻っ攫われたらしい。この顔もどこかで見たような。
「み、ミーク様……」
「ダニエちゃんナイス! よく頑張ったね! 間に合ってよかったよー」
「ホントだよ。本気で斬りにいってたから、もし来なかったらどうしようかと思ってた」
「え!? マジだったのトルム!? あたしも危なかったじゃん!」
「ごめんよ。でもミークならやってくれると思ってた」
「うへへ」
なにやらわちゃわちゃ言っているが、ノノは別のところを見ていた。
上空、崩れた宿屋に残っていた煙突の上。
頬を半分ほど割ったウィゴールが、こちらを睥睨している。
「忌々しい」
獣のようなしゃがみ方をして、老人は呟く。小さく呻いただけだろうに、なぜかこちらまで聞こえた。
杖はもう手に無い。トルムの足元に転がっていた。
「ねートルムあれどうすんの?」
「ここでどうにかしたいけど、セノアたちも心配だね。街も回りきれてないし」
「あたしノノちゃん抱っこしてるから弓使えなーい」
「うーん僕ひとりでやれるかなぁ。どうかなぁ」
「そこは自信持って言えよ勇者さんよー」
見上げる彼らの言葉は軽い。
そういえばパパも、戦いの最中だろうとあれこれぼやいていた。きっと彼らの作法なのだろう。
友だちなんだなぁ、友だちって似るのかな。そう思った。
パパも早く来たらいいのに。前も遅かったんだよね。やれやれまったく。
「もうええわ。片っ端から埋めちゃる。虹瞳なんぞ探せば他にもおるわい。お前らはここで死ね」
トカゲのように開いた口から、トカゲそのものの舌が伸びた。
同時に、ずしんと響く地鳴り。周囲の地面にびしびしと亀裂が走る。遠くでドートンが喚いている。
剣を腰だめにして、トルムが深く構えた。銀色の剣が輝きを増す。
間に合うだろうか。まあ、心配ない。そろそろ来るから。
あ、来た。
街の外壁、その上から影が跳ぶ。トカゲに向かって。
大きな影。人一倍はある巨体。
その巨体に似合う、長大な斧。
大斧が、ウィゴールに振り下ろされた。