デイティス/イフェッタ
アシェリが見つからない。
デイティスは魔物の跋扈するアージ・デッソの街を駆けていた。
街に異変が起こったのは鍛冶屋にいたときだった。
ようやく短剣を卒業し、直剣を新調した。武骨だが頑丈なものを選んだ。ガンズーから、最初の内はとにかく壊れにくいものにしろと勧められていたからだ。
言うとおり、これで正解だった。仕事道具であると同時に訓練用具でもある。練習に使っている丸太に一日打ちこむだけで柄はガタガタになるし、刃も見るからに劣化する。
鍛冶屋の職人とはすっかり馴染みになった。どうやら毎日欠かさず調整に来る者などそうそういないし、毎日これほど使いこむ者もいないとか。
なので、手直しと研ぎ方を教えてもらえることになった。その手解きを受けている最中だった。
鍛冶職人たちは荒くれも多い。こっちの心配などしてる場合かと言われ、剣を受け取ると走った。
ヒスクスの家はそこから近い。だがアンデッドと半魔に――エクセンを思い出し、もう少しで飛び出すところだった――行く手を遮られ、辿り着くのに苦労する。
逃げ惑う街の人々を躱し、目につく逃げ遅れた人を庇い、逃しながらデイティスは南東区画にある目的の家へ飛びこんだ。
無人の室内。
すでに避難したあとだったろうか。そう考えたが、家の中はとてもよく整頓されている。慌てて出たような痕跡は無い。
ならば、それ以前から外出していた? 心臓が早くなった。街のどこかで、彼女たちはこの混乱に巻きこまれているかもしれない。
先日の別れ際には、なにか用があるだとか特には言っていなかった。むしろ、新しい靴がほしくなったから、じゃあ一緒に見にいこうかなどと話していたのだ。
だからてっきりこの家にいるものだと思っていた。外に出たとしても、ちょっとした用事かなにかで、まだ近くにいるかもしれない。
走る。走る。誰も見落とさないように。とはいえ、すでに住民はかなりの数が逃げ出しているようで、代わりに逃げ遅れを探す衛兵、協会の職員や自分と同じ冒険者。そして魔物。
路地を抜けまた路地に入ると、鼠の小躯に出くわした。駆ける勢いのまま剣を薙ぐ。腰ほどの高さにある首が折れた。斬り飛ばすことはできない。自分にはまだそこまでの技量が無い。
土人形に混ざり魔獣まで増えてきた。各所から侵入されているようだ。
襲われていた少女を助け起こす。アシェリではない。近くにいた衛兵に任せ、デイティスはまた走る。
やはり鉄壁のガンズーは正しかった。これだけ駆け回ってもまだ動ける。走るべき時に走ることができる。
すれ違った冒険者たちが、黒狼の存在まで教えてくれた。嫌な記憶が蘇る。あれと遭遇してしまうと、今のデイティスではまだ勝てない。
兄と姉は無事だろうか。もしかしたら自分を探しているかもしれない。自分がアシェリを探すように、走り回っているかもしれない。この危険な場所を。
ごめん。口の中で呟く。彼女とその父親を見つけ、なんとか合流できればいいのだが。
ふと、上空を見上げた。そこには本来であれば、結界塔の姿があったはず。
あれが崩れた付近。危険だろうから、きっと救助の手もあまり伸びていないだろう。
もし彼女たちがあの辺りにいたなら。考えたくないことだが、あり得ないとも言い切れなかった。
そうしていると、落雷の衝撃が届いた。やたら近い。そして、マナの激しい揺れも感じた。
街中であれほどの魔術。セノアさん! きっと虹雷のセノアだ、勇者パーティが戦っている!
今ならば魔獣の群れを躱すことができるかもしれない。
デイティスは結界塔の位置を朧気に思い出しながら、足に一層の力を込めた。祈りながら。
はたして、アシェリはそこにいた。
結界塔は半ばから崩れ折れ、周囲に瓦礫が積み重なっている。
簡単に入りこめないよう周囲は厳重に封鎖されていたはずだが、その外壁も瓦礫に潰され無惨なものとなっていた。
敷地に落ちた瓦礫のひとつに小さく座って、少女は空を見上げていた。曇天の下で、髪に宿る虹が雨に濡れている。
「アシェリ!」
思わず叫ぶ。
無事でよかったとか、なぜこんなところにとか、言いたいことは多いのだが呼吸が定まらず言葉にならない。疲れはさほど無いが、かなり焦燥していたようだ。
それでも、もう大丈夫。見つけた。
彼女の前まで来て、デイティスは膝に手をついた。
「デイティス様、なぜここに?」
「な、なぜじゃないよ……し、心配したんだから。ずっと探し回って……でも、見つかってよかった」
「そう――そうですか。ごめんなさい」
幸い、近くに魔物の気配は少ない。
遠くから聞こえる戦いの喧騒も落ち着きを見せている。勇者パーティは――当たり前のことだが――魔物の群れを撃退したようだ。
だが魔物はまだ街中に散らばっている。ここも危険には変わらない。
「ほら行こうアシェリ、中央教会が住民を受け入れてる。早く逃げなきゃ――そうだ! ヒスクスさんは!? 一緒じゃないの!?」
「あの人はいません。ここには」
?
なにか口ぶりが気になったが、それよりも彼女の父親だ。一緒ではないというのなら、すでに避難している? まさか、彼もどこかで逃げ遅れているのか?
それなら探しに行かなければ。彼女だけが無事では意味が無い。親子揃って無事でいてくれなければ。
「わかった。まずアシェリを協会まで連れていって、そしたらヒスクスさんも探してくるから。だからまず、行こう」
「……デイティス様は、そのあとどうされます?」
「え? そうだな、えっと、あそうだ。兄ちゃんと姉ちゃんも見つけないと。それから、街の人たちを助けに行くかな。まだ逃げ遅れてる人がいるかもしれないし」
「デイティス様」
静かに言って、彼女はこちらの手を取った。
その手を、自分の胸に押し当てる。突然のことにドキドキするものがあったが、それ以上に困惑が強い。
「あ、アシェリ?」
「ねえデイティス様。私と一緒に来ませんこと? いえ、どうかお願いします。私は、貴方をお慕いしております」
「え、いや、え? 一緒にって、え?」
取った手を服の中にまで潜りこませて、彼女が顔を近づけてきた。
自分が彼女を好いているのはもちろんだし、向こうが好意を持って接してくれているのも感じていた。デイティスはそういうことに然程の感慨を抱かない性質だったが、けして喜ばしくないわけではない。
しかし――これはどうしたことだろう。指先に感じる柔らかな感触が、やたら遠く感じる。
顔に浮かんでいた困惑が、訝しさに変わったのがわかったのだろう。
アシェリは一瞬だけ悲しげな表情を見せると――無表情になった。
「そろそろ行きませんか」
唐突に、後ろから声。慌てて振り向くと、男がひとり立っていた。
「ひ――ヒスクスさん!? あの、これは」
ヒスクス。彼女の父親。
服の中に手を突っこんでいるのを見られては、さすがに怒られるだろうか。
そんな間抜けなことを思ったが、彼はこちらを一瞥するだけで、すぐに娘のほうへと視線を移す。
「……早かったかな?」
「いいえ。ちょうどいいわ。見込みも無かったのだし」
「左様で。まあ、戯れもほどほどに」
「そんなつもりでもなかったのだけれど」
「それは失礼」
なにか言い合うと、アシェリはするりとこちらの手を離し、彼のほうへ歩み寄っていった。
彼らの言葉の意味すらわからず、デイティスは立ち尽くす。
アシェリがくるりと踊るように回って、こちらを向いた。
いつもの彼女の表情。花が咲くような笑顔。
「デイティス様」
その目が薄く、ごく薄くひらく。
蛇のように。
「残念ですわ」
遠く瓦礫の影から、唐突になにかが飛び出した。
見覚えのある姿。よく知る姿。姉の姿だ。
「――デイティス! そのふたりから離れなさい!」
◇
ノノとガンズーがいないことは知っている。
むしろこのタイミングでなければ来れなかった。
七曜教の作法は知っているが、誰も見ていないのにわざわざ見栄を張るほど信心深いわけでもない。
だから、カゼフという男の墓標へ軽く――本当はもっと思いっきりやってやりたかったが、壊してしまうとノノが悲しむ。ついでにあの男も――蹴りを入れると、イフェッタはもうひとつの墓標の前でしゃがみこんだ。
「……ユノさん」
自分の母について、正直に言えば大した思い出が無い。そして恨みも無い。金遣いの荒い娼婦で、客に刺されて死んだことくらいしか覚えていないのだ。
ただ父親のわからない自分をなぜか産んで、いちおうは生かしてくれたので文句も無い。さらに言えば多少はまともな娼館に入っていたおかげで、自分も路頭に迷うことはなかった。
母、と言われて思い出す顔は、ひとつ。
成人前で娼館に置かれたせいで小間使いしかできない自分を、ずいぶんかわいがってくれた。歳なんてひと回りも違わないというのに。
他の娼婦に小突かれて泣く自分を庇う彼女。
売り物ではない小娘を無理に買おうとする客から守った彼女。
客の土産を夜中にふたりでこっそりと食べ笑う彼女。
本当の名前を、自分にだけ教えてくれた彼女。
もしも、もしも子供ができたら、もしも娘だったなら、親から継いだ名前をその子にも付けるのだと言っていた。
彼女から身請けの話を聞いたとき、イフェッタは我が事のように喜んだ。
こんな商売、女としていつ使い物にならなくなってもおかしくない。結婚ができる。子供ができる。彼女の夢だったのだ。
相手だって、最近の冒険者の中では一番の稼ぎ頭だ。彼女にすっかり惚れこんでいて、お前と一緒じゃなけりゃ生きている意味が無いとまで言ったらしい。きっと悪い話ではない。
そう思っていたのに。イフェッタはまた横の墓標を睨みつける。
死人に文句を言ってもしょうがない。今度は、蹴らないでおいた。そもそも立ち上がりたくなかった。
彼女が亡くなったと知って、そして旦那のその後を聞いて、ただただ無念の日々を送っていた。
一度だけ、子供の様子を見に行ったことがある。小さな身体で、家の傍の林をちょこちょこと動き回っていた。手に大量の木の実を集めて。
できることならなんとかしたい。
しかし気付けば、自分はもう娼婦としてはとうの立ち始めで、先を見越せる金もあるわけではない。こんな環境に子供を連れてくるのも抵抗がある。
なにより――無責任に面倒なんて見て、自分が真っ当にやれるかなどわからなかった。あの父親と同じ轍を踏まない自信が無い。
そんな言い訳をしながら、冬まで越してしまった。あの子は無事だろうか。
無念と後悔と自嘲に、その辺の適当なチンピラに刺されてしまったほうが楽かもな、なんてことまで考えていた。
あのとき声をかけてきた男。自分に似てるだとか言っていた。
だから、それはおそらく当たっている。
あっさりとイフェッタの望みを、誰より自分がやらねばならなかったことを叶えたあの男が、眩しい。
ならばこっちだって、腐っている場合じゃないのだ。
彼女から――母から教えてもらったいくつものこと。
その中で、最も大事なこと。
――恩だけは、忘れちゃダメだよ。人間のいっちばん大事なことなんだから。
何度も何度も、そう言い聞かせてもらった。もう聞き飽きたよと言っても、何度だって。
もう少しで、それすら失うところだった。
この恩を、イフェッタが口にすることは無い。
だが、だからこそ彼女にだけは、伝えねばならなかった。
(……任しといてよ、ユノさん)
そぼ降る雨の中で、彼女の声が聞こえた気がして。
それを遮る爆音が遠くから届き、イフェッタは心底ムカついた。
跳ねるように立ち上がる。音は街のほうから。首を回してみれば、アージェ川の向こう、煙が上がっている。かすかに影が見えるはずの結界塔が見当たらない。
「嘘でしょ……?」
事故かなにか? そんなはずはない。結界塔に限ってそれだけはない。
なにかが起こった。そしてもし結界が消えたとするなら、街の端にあるこの場所は危険だ。
そして異変は、川の向こうでも発生した。
田園地帯のそこかしこで土がざわめく。見る見るうちに人の形をとり、その数はちょっとした軍隊のようだ。
ノノの家の陰に隠れその様子を覗いていたイフェッタに、この状況がなんなのかわかりはしない。だが街の方角に見える煙の数が、どんどん増えている。
「なんだってのよ……!?」
下手に動けない。林の向こうからは魔獣らしき唸り声まで聞こえてきた。せめて家の中に逃げこむべきか。街に走って助けを求めるべきか。
判断がつかなかった。もどかしい。
「ねぇ」
急に頭上からかけられた声に、思わず生娘のような悲鳴を上げてしまった。無意味に顔を赤くし、見上げる。
小さな丸いなにかが屋根から見下ろしていた。落ちかけているようにしか見えない。
「あ、あんた……なにしてんの」
「ちょっとお願いがあるんだけど、聞いてくれるとボク嬉しい」
ノノのペットである不思議な蛙が言う。
彼の――話によれば、彼で正しいらしい――喋る言葉は、どこか間の抜けた響きがあったと記憶しているが、今もそれは変わらない。
変わらないが、真剣になにかを伝えようとしているのはわかった。
「近くにノインノールが来てるんだけど、なかなかお話を聞いてくれる相手が見つからなくてね。もうキミくらいしか思いつかなかったんだ。ボク残念。だから聞いてくれるといいな」
「ノノちゃん? ノノちゃんがどうしたって?」
「キミはやっぱりいい人だね。ボク感激。あの子とは違うね。本当はボクが行きたいんだけど、加減が難しくてね。怒られちゃうとノインノールに会えなくなっちゃうからね」
「いいから早く言いなさい! お願いってなに!?」
「南のほうにノインノールがいるんだけど、もうあんまり動けないと思うんだ。ちょっと危ないけど、迎えに行ってあげてくれないかな」
「南――」
今まさにアージェ川の向こうで、東門が落ちたらしい。ということは、あの人形の群れが街中に雪崩れこんでいる。
ちょっと危ない、どころではない。
じゃあ、ノノはもっと危ない。
「南のどこ!?」
「大きい門がある辺りかな」
「南門ね、わかった! 連れてくればいいの!?」
「安全なトコに逃げてくれればいいよ。ボクは出かけるから」
「え、ちょっと、どこ行くの――」
言い切る前に、蛙はすいと屋根の上に身を隠した。
「ボクは忙しいんだ。ノインノールが悲しむからね」
家の陰から少し離れ屋根の上を窺ってみるが、もうその姿は無い。
ともかく、彼の話が本当ならノノが危ない。こんなタイミングで、下らない嘘を言う理由も無いだろう。わずかな時間、一緒に暮らしたが、あの蛙がノノを大事に思っているのは確かだ。
行くしかない。覚悟を決めろ。
「もうっ! あのバカはなにしてんのよ!」
あの子に危険があるというなら、その身を守るはずの者が近くにいないということだ。
様々な罵倒を思い浮かべながら、イフェッタは駆け出した。
街の冒険者や衛兵、協会員、さらには戦える一般人までも混じり、魔物の群れと衝突していた。東西通り周辺はもはや混乱の坩堝だ。
街に入りこんだ魔物は人形だけではなかったらしい。どうやらアンデッドのたぐいまで湧いている。なにが起こっているのだろう。
考える暇は無かった。彼らが魔物を引きつけてくれているおかげで、どうにか身を潜め南東区画まで抜けた。
そちらも酷かった。あちらこちらで火の手が上がり、魔獣がうろついている。
冒険者に声をかけられた。逃げるように言われるが、ちょっとまだ用が済んでいないのである。
襲ってきた小さな魔獣を、申し訳ないと思いながら彼に押しつけ、走る。
ここまで来れたのはただの運。それはわかっている。
それなら一生分の運をここで使いたい。
それが叶ったのかは知らないが、外周通りに辿り着き、周囲に魔物が少ないことがわかりイフェッタはひとつ息を吐いた。
いやまだだ、終わってない。ここからだ。ノノを見つけなければ。
無惨に崩れた南門が目に入った。この辺りのはずだが、考えてみればあの蛙はなにを根拠に言ったのだろう。
不安になりながら辺りを見回す。南北通りの向こう、中央広場のほうでは戦闘の気配が続いている。急げ。
ふと、門の内側、普段は待避所に使われる窪みに、人影があることに気付いた。
近寄ってみる。修道女? なぜこんなところに?
そしてその隣、彼女の修道服を心配するように掴む小さな姿。
「ノノちゃん!」
叫んだ。走ったせいでかすれている。
名前を呼ばれて、その子はこちらに目を向けた。虹の眼。間違いなかった。
そして、壁にもたれて座っていた修道女も顔を上げた。気を失っているように見えたが、意識はあったようだ。
なにがあったのか聞こうと、彼女の肩に手を置こうとした。
その手を、先に捕まれる。切羽詰まった勢いだった。
「お願いします! この子を――この子を連れて逃げて!」
修道女は身体のところどころが汚れ、傷ついていた。長く走ってきたのか、足先は泥で汚れ、靴が無い。血が滲んでいる。
ノノは彼女の服を掴んで離さない。
「落ち着いて、なにがあったの? なんでこの子を――」
「時間が無いの! もうそこまで追ってきて――」
とん、と石床を叩く音が聞こえた。
それまで足音なんて少しも無かった。ひとつ、その場に突然。
振り向けば、黒い外套に身を包んだ者がいた。
無造作にフードを捲る。男だ。髪を全て後ろに撫でつけている。どこかで見たような――
「いや参った。意外と足が早いですね修道院のお嬢さん」
思い出す。たしか、あいつが冒険者パーティとごたついてた時に、一度遭遇したのだったか。
「ま、もう警戒することもねぇかな」
ジェイキンとか呼ばれていただろうか。
その男が、抜き身の剣を携えていた。