鉄壁のガンズー、飛べ/アスター
「すまない」
こちらの目を見つめて、静かにあの人は言った。
その言葉の意味するところが、アスターには今もはっきりわかっていない。
お前の名はアスター・カウェンサグだ。その名をみだりに出してはいけないが、絶対に覚えていなければならない。
物心つく前から、母は自分にそう言い聞かせた。
タンバールモースの裏街には、自分と同じ境遇の子供が多かった。様々な事情で表から逃げてきた女、あるいは娼婦の私生児。母は元々領主家の女中だったらしいが、アスターはそのころを知らないので、結局は後者と変わらない。
たいてい、ゴミ拾いか、ポン引きの真似事か、ゴロツキの小間使いをやって暮らしている。自分もあと何年か違えば、そうなっていただろう。
母はずっと、アルストラ様は必ず迎えに来てくださる、とうわ言のように繰り返していた。彼の子供として恥じないよう、貴族のような振る舞いや言葉使いを教えこまれた。
できることなら、その眼を潰したい。アルストラ様はその眼が嫌いだから。そんなことも言われたが、どうにか無事に過ごしてきた。この奇妙に輝く眼がどういう意味を持つのかは、誰も教えてはくれなかった。
おかげで周囲とはあまり馴染めない。母も同様、近場の娼婦には疎まれていたようだ。一度、外で周りの子供と同じ言葉でお喋りをしていたのを見つかり、酷く叱られたことがある。
「ごめんなさい」
いつしか、それが口癖になっていた気がする。言う度に、軽々しく謝罪の言葉を口にするな、口にするなら相応しい言葉を使えと言われた。
心のどこかで、母が信じるものを、アスターは冷ややかに感じていた。
だから、その夢物語が事実になるなんて思ってもみなかったのだ。
男爵の家からやってきた使いは、自分たちを忌むような目で見てきたが、そんな目は慣れたものだったのでどうとも思わない。
ただ母の願いが叶ったという点については、純粋に喜ばしく感じた。今後は、普通の親子と変わらない関係になれるだろうか。
呼んだのは子供だけ。それを聞いた母の姿を、あまり思い出したくはない。
アルストラ・カウェンサグという男について、アスターは特段の感慨を抱いたりはしなかった。
父親、という存在にピンと来なかったのもあるし、彼自身が父として接してきたりもしなかったからだ。嫡嗣として教育をするので、そうなるように。彼の要求はそれだけだった。
彼の妻、つまり義母にしてもそうだ。神経質そうで、ちょっとしたきっかけで怒り始めるし、あまり好意的な目を向けてはこなかったが、害してくるようなことも無い。むしろ機嫌のいいときは、一緒に菓子なんかも食べた。
しばらく男爵の家で過ごして気付く。父は結局のところ、子供が欲しいわけではないのだ。カウェンサグ家というシステムを維持することを目的に生きている。
跡継ぎとしての自分だけではなく、彼自身もそうあるようにしている。
それも貴族としてひとつの生き方である。でなければ、忌むべき虹瞳を迎え入れたりはできない。
教師をしてくれていた家令からそう教えられ、アスターは納得した。ならば自分もそう生きるべきなのだろうか。ここ以外にもう帰る場所は無い。
腹違いとはいえ、弟はかわいかった。産まれたことを祝福したし、ぷやぷやと眠る顔を見れば温かい気持ちになれた。
そして、自分の役割は終わったことを理解した。
このままここにいれば、弟の邪魔になってしまう。
「ごめんなさい」
家から出される際にも、アスターは粛々と従った。まさか人買いから、最終的に魔獣の馬車に詰めこまれることになるとは思わなかったが、これなら確実かもな、とどこか他人事に見ている自分もいた。
ただ、同乗したふたりの子供は不憫に感じた。自分とは違って、きっと彼女たちには愛すべき家族がいるはずなのだ。
消えるべき自分とは違う。
自分の帰る場所は、結局どこだったのだろう。
パウラのことを思う。あるべき場所に帰った彼女を思う。
ノノのことを思う。新たな居場所を得た彼女を思う。
母にも、父にも、弟にも、あるいは誰にとっても。
初めから自分などいなければよかったのではないか。
アスターはずっと、そう思っている。
「ごめんなさい」
「すまない」
あの人は確かにそう言った。
単純に考えれば、自分を拉致しようとした者たちのひとりなのだから、その行為に対するものだろう。その後、詳しい事情はあまり教えられなかったが、彼が反対していたということだけは聞いた。
なら、それだけか。本当にそれだけか。
巻きこんでしまってすまない。ただそれだけ言うために、あんな目をするものだろうか。
今にも泣きそうな目をするものだろうか。
正にこれから、ガンズーと戦おうとしているのは自分にだってわかった。そんなときに、あんな優しい声を出せるものだろうか。
ガンズー。あのガンズー。自分を助けに来た。きっと勝ってくれるのだろうと思った。あの人はきっと、倒されてしまうだろうとも思った。
事実そうなって、額の雨粒を拭ってくれて。やっぱりこの人は強い、信じたとおりだったと感じた。
そして、あの人を殺さないでくれてありがとう。心の中でだけそう呟いた。
独白を聞いた。告解を聞いた。
ガンズーにだって見劣りしない、とても大きな背が、嘘のように小さく萎れていたのを見た。
それで勝手に、自分と同じなのでは、と納得したのだ。
きっとあの人は、ずっとなにかに謝りながら生きてきた人だ。
自分も同じ。母に、父に、弟に、ずっと謝っている。生まれてしまってごめんなさいと、ずっと思っている。
取るに足らない自分の半生。彼はその数倍の時間を、自責と後悔を抱えたまま生きてきた。
強いんだな、と思った。
自分は諦めた。いや、諦めすらできなかった。このまま自分が消えればそれでいい、そう考えていたのに、死なずに済むとわかった途端に未練が湧いた。こそこそと故郷の近くから、母の姿が見えないかなと期待していた。
ガンズーは強い。その姿に憧れる。
けれど、自分があんなふうになれるとは思えなかった。
強くて、弱くて、足掻いて彷徨い、そうして生きてきたあの人の顔。
それでもなお優しかったあの顔を、アスターが忘れることはない。
◇
首を振った力だけで、身体に圧し掛かる瓦礫を跳ね飛ばした。
そのままガンズーは顔面から倒れた。脳震盪かなにかだったのだろうか、やはり頭の芯に重みを感じる。手足の感覚がふわふわと定まらず、もつれる。
だがもがくように前進した。転がるように肩で進んだ。力を入れ過ぎて固まった右手は、なんとか斧を引きずってくれた。
視界の向こう、遠く、バシェットが立っている。
その背から、刃の先端が覗いている。
後ろには小さな子供の姿。もしかしたら、血が降りかかったかもしれない。
彼は倒れない。
それどころか、己を貫く人形の腕を掴み、鎖を巻きつけ、その場へ縫いつけた。あの人形の力ならば、あっさり振り解かれてもおかしくない。しかし彼は動かなかった。
残った片腕が乱打される。バシェットの身体から再び血が散る。それでも彼は動かない。
だったら俺が動け! さっさと走れ俺の足! なにやってんだこの役立たず!
「ぬああああっ! やらせん!」
横から飛びこんだ影があった。槍を振り回す丸い姿。鎧は下半身だけに残り、上半身は半ば裸に近い。
シーブスの鎧は先の一撃でほぼ砕かれたらしい。その背も血塗れだが、穂先に豪風を纏わせ人形の腕を果敢に防いでいる。
「ガンズーさん」
頭上から唐突に声。捩じるように首を回せば、外壁に空いた穴からシウィーが頭だけを出していた。その身は先ほどまでのガンズーと同様に埋まっているようだ。
「飛ばします」
一瞬、その言葉の意味がわからなかったが、彼女の周囲のマナが渦巻いていることに気付く。そして、自分の足元にも。
足は言うことを聞かない。腕も痺れている。
しかしまだ、この身体が消え失せたわけじゃない。
「やれぇ!」
「【隆】!」
ずど、と衝撃が内から胸を叩いた。地に突いた手先や足先から届いたはずだが、響いたのは胸だった。
一瞬の後、肌に風を裂く感触。視界の端で、自分がいた場所に大きな土山ができているのがわかった。
浮遊感。全身がぱちぱちと雨を弾いている。
ガンズーは、タンバールモース全域を望めるほどの上空にいた。
さあ、自分の体重はどれくらいだったか。
この斧は、重さにしてどれほどだったか。
なんにせよ――
身体が重力に引っ張られる。落下を始めた。
――これで通じなきゃ、どうしようもねぇな!
眼下で点になっていた人形が、バシェットが、アスターが、コーデッサが、シーブスが近づいてくる。
ここが正念場だ。いい加減もうたっぷり休んだろう俺の身体。
鼓膜を打ち続ける風の中で、ガンズーは大斧を構えた。行くぞ相棒、お前も根性見せろ。
「――どけぇシーーーブスッ!」
激突までもう数秒も無い。ガンズーは力の限り叫んだ。
人形と鍔迫り合いをしていたシーブスが頭上を見上げた。と同時、薙ぎ払われて吹っ飛ぶ。当然ながら、人形もこちらに気付く。
目にあたるような窪みさえ無い平坦な頭がこちらを向く。自由な片腕に、またも金属体が集まった。丸く固まる。叩き落とすつもりか。
だが、片腕はバシェットに拘束され、もう片方に質量を集中。
身体が薄くなってんぞ!
斧の柄を掴む両手を、思い切り捻った。
「頼むぜ相棒!」
ガンズーは空中で勢いよく前転。大斧をぐるりと回すように。
しゅる、と仕込み刀が柄の中を滑る感触が、妙にゆっくりと感じられた。
爆発音にすら近い音を上げて、巨大な斧が回転しながら飛ぶ。
斧刃は見事に人形の腕、その先を叩きつけ、地面にまで抉りこんだ。
――浅い! ガンズーは歯噛みした。
斧はたしかに人形の腕にくい込み、地面に押しつけている。だが半端だ。あれではすぐに斧ごとこちらを振り払ってしまう。
もうやるしかない! 突っこむしかない! もっと早く落ちろ俺の身体!
「――【氷華】!」
黒い靄を吐いてうずくまっていたコーデッサが叫んだ。
大斧、そしてその下の腕を丸ごと包むような氷の華が咲く。
稼げた時間は瞬き一度分。
だが十分だ。
人形の胸、わずかな傷跡へ向け、飛びこむように刀の切っ先を激突させた。
根本まで突き入った仕込み刀。硬く軟らかな感触の向こうに、肉のような手応えがあった。
背中を叩かれる。氷と斧を跳ね飛ばした人形の片腕が、背後で暴れている。適当に打っているだけだが、未だその力は強い。
「さっさと止まれオラァッ!」
滅茶苦茶に刀で人形の中をかき回した。間違いなくなにかを裂いている感触はある。どこまでやればいいのかなんてわからない。
べきん、と小気味いい音を発して、刀は折れた。弾みで背中から落ちる。頭の上を拳が通り過ぎ、人形は自分の胸を打って――
源泥の塊は、その姿で静止した。
少しの間。それから人形の姿は急速に縮まり、凝縮していく。最後には、ことりと小さな握り拳程度の青白い石が落ちた。
それから、胴体がメタメタに裂けた男が現れた。そのまま地面に崩れ落ち、黒く滲んでいく。
「――終わった?」
無意識にそう言っていた。自分が発した言葉だとしばらくわからなかった。
おそらく終わった。静かだからだ。
己の喉から漏れる荒い息と、雨の音しかしない。
あとは、
「おじさん!」
アスターの叫びと、バシェットの膝が地を打つ音。