第二幕 第三章 【11】シンジュとナル③
神殿による大規模な粛清が行われ、風花国は新たな王を戴くことになった――。
それは、貧民街では然程重要視されていないことだ。
てっぺんが変わろうと自分たちの在り方が変わることがないと、これまでの経験から学んでいるからだ。
謀反に協力的だった貴族のなかでも、反発心を持つ者は見張りをつけてあるし、今後国政を動かす際にはさらに大きな反発が生まれるだろう。
だが、一つ一つ抑え、こなしていかなければならない。
「……なんだか、そわそわする」
「おや、トイレですか」
「サトミのそれって口癖なの? 私一応淑女なんですけど!」
防寒着を纏っているとはいえ、物凄く寒い冬の朝。
吉原のような都の中心から少し離れた広場に、石柱のような塔がある。
ナルは、多くの人々に混ざって、石柱を見上げて、体を揺すっていた。当然、トイレではない。単純に寒いのだ。
そんなナルの背中に、薄手とはいえ風を通さない保温に長けた上着を掛けてくれるリン。
驚いて振り返るナルに、リンはにっこり微笑んだ。
「着ているといい」
「リンが寒いじゃない!」
「私は鍛えているから問題ない。それに、女性は身体を冷やすものではないぞ。もっとナルは自分を大切にするべきだ」
「……ありがとう」
じゃあ遠慮なく、と掛けてくれた上着の襟を引っ張る。
隣でサトミが「男前ですねぇ」と笑い、さらに隣では、なぜか上着を半分脱いだ状態で固まっているアレクサンダーがいた。
「アレク? どうしたの」
「い、いや……別に出遅れたわけではなく、ちょっと、上着のなかがごわついていたから、着直そうと……」
「え?」
「なんでもないってことだよ!」
なんでもないならいいや、とナルは頷く。
こんな寒すぎる空の下で放心していたから、意識が飛んでしまっているのかと焦ってしまった。
「それにしても、人が多いな」
リンが辺りを見回して言う。
サトミが頷いた。
「そうですね。新王による、初の演説ですから。これまで王が代替わりしようと、国王が一般民の前に姿を現すなどありませんでした。今回は風花国始まって以来の女王ですし、前代未聞なことが多い。ここに集まる者たちも、それぞれ思うところがあるんでしょう」
石柱の周囲は厳重な警備が敷かれている。
そこから、民たちが立ち見できるよう整えた広場があり、やや離れた場所に、牛車ごと見ることが出来るよう貴族らの牛車席がある。
なぜ貴族である自分たちが平民より後ろなのかと反発する声がここまで聞こえてくるが、あの貴族の男は今後要注意人物の一人なので、せいぜい喚いて、『あんなことしたら今後こうなるよ』という見せしめになってほしい。
反対に、平民や貧民たちは、戸惑いながらも未知のことに期待と不安を抱えているようだ。
こうして立見席とはいえ、自分たちが貴族より前にいることが信じられないのだろう。
何もかも、風花国では初めてのこと。
だからこそ、王が変わったくらいで何とも思わない貧民たちもが、朝早くにこうして広場に集まったのだ。
暫くして、シロウの傍仕えの宦官が姿を現し、手をあげた。
途端に、広場に静寂が降りる。
続いて、シロウが姿を現した。
威厳ある王らしい着物を着ているが、それはこれまで通り男物だった。途端に貴族らから非難の声が出るが、シロウは気にした様子はない。
シロウ本人が諫める前に、他の貴族から「主上に無礼な!」という叱責が飛び、批判した貴族が黙り込むという驚きの展開になった。
すでに、シロウを気に入っている貴族も大勢いるようだ。
そういった者たちは、牛車のなかからではなく、地面に立ってシロウを見上げている。
そして、皆が固唾をのむなか、シロウの演説が始まった。
(大丈夫……あれだけ推敲を重ねたんだから)
何を隠そう、これからシロウが演説する内容は、ナルが事前に書き起こしたものだ。
今後の国の方針について、簡単にまとめたものなのだが、シロウならばうまく言葉にしてくれるだろう。
シロウは、よく通る声で話を始める。
「よく集まってくれた。私が、新たな国王として即位したシロウだ。とはいえ、即位の儀はまだ先ゆえ、仮の王といったところか。見ての通り、私は女だが男のような衣類を好む。先程、私の姿を罵倒するものがいたが――女が男の姿をしてはいけないという法律はない」
シロウは静かに息を吐いて、ぐっと顔をあげ、身体を乗り出した。
タメが上手い。
「今後、この国は法治国家への道を歩むことになることを、ここに宣言する。ピンとこないものも多かろうが、現在ないがしろにされている法を新たに制定し直す。現在、風花国は、一部の者が権力をほしいままにしている状態であり、それを妨害されぬよう、鎖国政策を取っている。今後、徐々にではあるが開国し、近隣諸国との外交を重要視していく。――難しい話ばかりで、飽きるだろう? 簡単に言おう」
シロウは、ふっと笑う。
「私は、皆が飢えて死ぬことのない国を目指している。貴族も、平民も、貧民も、皆がこの国の民であり、一己である。何年、いや、なん十年先になるかわからない。だが、皆に伝えたいのは一つだ。私が今後行う政策すべては、皆が公平な立場になるためのものである、と――その理想を現実にするため、私は王として、我が女神の代弁者として、ここに君臨することを宣言する!」
人々から歓喜が起こる。
前半部分はよくわからないような顔をしていた民たちも、皆が飢えて死ぬことのない国を目指すというシロウの言葉に、感情を爆発させんがごとく声援を飛ばしていた。
(……ん? 待って、我が女神の代弁者って、なに?)
***
当然それはナルのことなのだが、聞いていた人々はそんなことは知らない。
貴族席では、「神殿と同じ道を歩まれるのは、主上が巫女様の素質をお持ちのためだったのか」「女神のお言葉を、民にもお伝えされるとはなんと慈悲深い」と、シロウに対する株があがっていた。
ちなみに、シロウとしては、ナルという素晴らしき女神がいるのだぞという自慢を大勢の前でしたかっただけで、特に深い意味はなかったのだが、結果的に貴族らの多くを懐柔することに成功したのである。
***
警備の人の案内に従って、順番に広間から出ていく。
この警備一つとっても、風花国ではありえないことだ。丁寧に「ゆっくり進んでくださーい」と声を張り上げる警備の人に、貧民たちは驚きでいっぱいである。
ちなみに、この警備兵は神殿関係者だ。
護衛兵や聖兵など、腕に覚えのある者がこうした警備に駆り出されている。
無事に演説もとい宣言は終えた。
ナルとしては、想定以上に民はもとより貴族らからも受けが良いように感じた。
「奥方は、このまま長官の屋敷へ向かうんですよね」
「あ、うん。ちょっと事情を聞いてくる」
「では、私はいったん別行動をとらせて頂きますね」
「ありがとう、サトミ。……いったん、よね? このままどこか行ったりしないでしょ?」
「おや、寂しいんですか?」
人波から離れた場所でそんなやり取りをする。
ナルは、むっと頬を膨らませた。
「寂しいわよ! 聞きたいことも沢山あるし」
「情報、ですか。答えられることなら、答えていきますよ?」
「好きな食べ物とか、今後の夢とか、いつか行ってみたい場所とか、好きな季節とか」
「……予想外に個人情報でした。それはすぐには答えられませんね、また改めて答えにきます」
サトミが笑い、リンとアレクサンダーが苦笑する。
ナルは「絶対だからね」と念を押す。
「それでは。奥方の護衛を頼みましたよ?」
「勿論だ」
「そのためにいるからね」
サトミとはいったん別れ、ナルはシンジュが新しく構えたという屋敷を目指して都へ戻った。
予めサトミが地図を書いてくれたので、場所はすぐにわかったのだが――。
目の前にそびえる屋敷に、ナルは唖然とした。
見た目は、和風の屋敷だ。
背の高い塀がぐるりと周囲を囲い、有刺鉄線が侵入者を阻んでいる。
「……ここ、一等地よね」
都の中心地には、十二の道がある。
干支の名がつけられた道はそれぞれ表裏が存在し、表通りはすべて一等地とされ、貴族のなかでも特別に地位が高い者のみが居住を許されるのだ。
(都の中心地の寅道に屋敷があるってことだから、てっきり寅道の裏通りだと思ってたら……表通りだった)
周囲にそびえる屋敷はどれも絢爛豪華だ。
だが目の前にある屋敷も負けていない。むしろ新築である分、他国の技術や使い勝手の良さを取り入れており、ひと目で住み心地が良さそうだとわかる。
「シンジュは、予想以上のことをするね」
「うむ。ナルはいつも予想の斜め上を行くがな!」
「確かに。そういう意味では、驚愕まで少し足りないか」
「叔父上もまだまだということだ。ナルには及ばない」
(馬鹿にされてる? されてるよね!?)
二人の話を聞いて、なんだか力が抜けた。
ここでぼうっとしていても仕方がない。
よし、と気合を入れて、ナルは門の前に立つ門番に声をかけた。
実はさっきから、門番たちに『なにこいつ』といった不審な目で見られていたのだ。
だが、ナルが名前を告げると門番は慌てて屋敷へ駆けて行き――そして。
「おかえりなさいませ、奥様」
「……ジザリ」
懐かしい顔が、出迎えてくれる。
かつての執事姿から、和装へ変わっているが、紛れもなくジザリだ。
嬉しさで微笑むと、ジザリもほんのりと頬を赤らめて微笑む。
以前と変わらない姿に、ふわりと胸が温かくなった。
ジザリの案内で、ナルは屋敷のなかへ通された。
屋敷の内装は、風花国に準ずるいわゆる和風で、丁度良い塩梅に柳花国やモーレスロウ王国の国風が取り入れられていた。
ナルから見れば違和感はほとんどなく、確かにここはこっちのほうが使い勝手いいよねぇと思えるような、やや進化した内装になっている。
それらを繁々と眺めながら案内されたドアは、モーレスロウ王国王都にあったレイヴェンナー家の寝室と酷似していた。
ナルはごくりと生唾を飲み込み、ノックする。
シンジュの声がした。
うるさい心臓が静まるよう深呼吸をしながら、アレクサンダーとリンを部屋の前で待機させ、ナルは寝室に入った。
後ろ手でドアを閉めたナルは、息を飲んだ。
まんま、モーレスロウ王国王都で過ごした寝室と同じ部屋がそこにあった。
窓際には大きな鳥かごがあり、カラスがナルを見るなり甘えるように「ギエエエエエ」と鳴いた。
向かい合わせのソファも、奥に通じるドアの位置も――夫婦のベッドの場所やベッドのサイズも、シーツも、カーテンも、絨毯も、何もかもが同じである。
「どうした」
心地の良い低音ボイスに、ナルの胸は弾む。
ベッドで読書をするいつもの姿勢で背凭れに身を委ねたシンジュを見て、すぐに反対側に回ってベッドによじ登り、自分の定位置で正座をする。
シンジュが空気を読んで、ぱたんと本をたたむとナルと向かい合うように胡坐をかいて座った。
(……帰ってきた)
風花国だが、ナルの帰る場所は屋敷でもモーレスロウ王国でもなく、シンジュがいるところなのだと、改めて自覚する。
高揚感のなかに、ほっと心地の良い安堵がある。
前世で感じた――旅に出たいなと思って旅行へ行きながらも、自宅へ帰った瞬間が一番ほっとする感覚――に、よく似ている。
「あ、あの……」
「なんだ」
「ただいま、帰りました」
色々聞きたいし、招待くださってありがとうといった言葉も用意していたが、ナルからこぼれた言葉は帰宅の挨拶だった。
シンジュは当然だというように、鷹揚に頷いた。
「ああ。……おかえり」
「はい!」
(おかえり、だって……おかえりだって!)
これまではナルが出迎えるばかりだったから、おかえりと言われるのは斬新だ。
にやける表情を引き締めて、ぐっと顔をあげた。
「末永く、宜しくお願い致します」
「ほう、腹をくくったか? 離婚はいいのか」
「いいもなにも、シンジュ様が傍にいてくださるのなら、別れる理由なんかありません。元々別れたくなかったですし、嬉しいです。あの、あの……駄目ですか?」
もう遅いのだろうか。
あれだけ離婚離婚言った身でありながら、やっぱり結婚し続けたいと望むのはさすがに図々しい自覚がある。
「何を憂いているか知らんが、お前は結婚後、ずっと私の手のかかる妻だ。駄目も何もない。甘やかしてやると言ったのだから、好きにするといい」
にやりと悪い男の笑みで言うシンジュに、ナルは胸中で悶絶する。
(かっこいいいいいい)
離れている間に自覚した。
やはり自分は、シンジュにとんでもなく惚れているのだということを。
悪魔的笑みだろうが、魔王のようにふんぞりかえろうが、人を虫けら扱いしようが、どんなシンジュも全部好きなのだ。
(っと、いけないいけない。先に、ここへ来た目的を済ませないと!)
このまま抱き着いて甘えまくりたいところだが、そうはいかない。
ナルは、こほんと露骨な咳ばらいをして、話を始めた。
「あのう、モーレスロウ王国を出たってことなんですが……今、どんな感じになってるんですか? シンジュ様の立場として」
「大公の地位を返上し、その他、文官としてついていた地位もすべて自主退職してきた。当然、私一人では受理されぬことゆえ、陛下やバロックス殿下にも協力いただいた次第だ」
つまり、何かしらの取引があったということだ。
シンジュは一体、何をネタにバロックスの協力を取り付けたのか。考えると、恐ろしくなってきた。
「誤解しているようだが、バロックス殿下の目的は最初から明確だ」
「外交ですよね?」
「それは王子としての責務だ。彼個人の望みは、兄弟の安全。……殿下はああ見えて、弟思いだからな」
「あ、それって、陛下の第一王妃がどうこうっていう」
「知っていたのか。……その件について手を貸した。それだけだ」
それだけ、という言葉に一体どれほどの算段が隠されているのか、想像するのが怖くて、考えるのを止めた。なにせ、あのバロックスがシンジュを手放すことを了承したのだ。とんでもなく重大な事案に決まっている。
シンジュは、四十代という若さで刑部省の長官をしていた男だ。
彼の知識はとても深く、博識なんて言葉では表せない叡智が詰まっている。堂々とした風体で裁判長をこなすほどに、その場その場での判断も長け、人の上に君臨するに相応しい、まさに――そう、憧れのトリプルSクラスの上司なのだ。
モーレスロウ王国の内政についてナルは明るくないが、シンジュの後釜を見つけることが容易でないことくらいわかっている。
「……シンジュ様は、大変な苦労をされて、ここにおられるのですね」
思わずぽつりと呟いたナルに、シンジュは驚いた顔をした。
「今更だと思うが? お前とて、風花国への道のりは容易ではなかっただろう」
「私は、私がやりたかったから苦労して当然なんです! でも」
「私とて、私がやりたいことに全力を注いだまでだ」
呆れたように言い返されて、押し黙る。
そうなのか、と大人しく納得することにした。シンジュが「やりたいこと」を見つけたのならば、それが何より優先されるべきだと思ったのだ。
「ええっと、それで、風花国ではどういった暮らしをされるんですか?」
仕事もそうだが、こんな一等地に屋敷を新築でたてるなど、ナルの感覚ではありえない。
だが、都の貴族街に屋敷を構えるということは、シンジュの仕事先は、宮廷なのだろう。
「今後、風花国では大規模な内政変動が行われる。まずは人事だが、徐々に役割や部署名も変更になる予定だ。そのなかで、人事変更と同時に新設されるのが外務省だ。私はそこで、長官となることが内定している」
「………………え?」
(私より詳しくない? 内政の今後ってそんな予定になってるの?)
シンジュが仕事について決まっていると言ったのは、まだシロウが天馬を捕らえる前だったはず。
勿論、謀反を起こしてから今後を考えるなんてことはなく、概ね、謀反を成したのちのことは決めてあるのだが、それにしても詳しすぎないだろうか。
ナルの戸惑いを読んだシンジュは、補足をくれた。
「私とて、特使として滞在している間、無駄に日々を過ごしていたわけではない。シロウが仲間に引き入れた貴族や、日和見貴族のなかでも本格的に国を憂いている者たちに誠意を示した」
貴族のなかにも、このままでは国がつぶれることを知っていた者がいた。
元より第一王子派として、天馬が王位についた際に身分の格下げが行われ、武力を持てないようにされていたという。
圧倒的力を持つ右大臣と、不気味に身を潜める天馬。両者の存在に動けずにいた貴族らに、声をかけたのがシロウだ。シンジュはそのなかでも、真に国の現状を理解し今後を見通せる目をした有力者に己の存在がいかに有意義なものか売り込んだのだ。
(……抜け目のない旦那様だわ)
風花国を立て直すには、自国だけでは厳しい状況になっている。
貴族らの豪遊の財源は民の税だが、国内で循環しているわけではなく、元ベルガン公爵たちのような他国の悪党どもに金銭が流れていたのだ。
シロウが王になった暁には、内政の調整をしなければならない。
その際にもっとも重要となるのが、開国に向けて新設される外務省だ。だがここで問題が発生する。長年鎖国状態だった風花国で暮らす者が、外交のなんたるかを心得ているはずがない。知識としてあったとしても、他国の敏腕外交官に言い負かされて不利な条件を突き付けられかねない。
外交が今後の風花国にとって必須とはいえ、適任者がいないのだ。
ましてや、私腹を肥やそうと目論むものが外交になど携わったら、その時点で風花国は終わる。
(と、そこまで考えて、シンジュ様は動いたってことね)
まさに、シンジュは適任だ。
シンジュは元々モーレスロウ王国の高官ゆえに、モーレスロウ王国内部に精通している。柳花国とも関わりがある。
今現在、風花国には知られて困る内情もなく、他国へ媚びてでも財政を立て直したいと考えているのだから、シンジュのようなよそ者であっても、利益になると判断されたのだろう。
シンジュが他国のスパイであると疑う者もいるだろうが、そのへんは信用を勝ち得るしかない。
「それにしても凄いですね! 外交官って、そんなに簡単になれないですよね?」
「そうでもない。ある程度の知識があれば、誰でも可能だ」
「……例えば、どんな知識ですか?」
興味本位で尋ねると、シンジュが問い返してきた。
「外交とは、なんだと考えている?」
「国家間の交流でしょうか」
「そうだ。主権国家間で行われる取り決めのことだな。交渉や交際の内容としては、国益に関する関心が大きいだろうが――」
(うん、これ誰でもなれるものじゃないわ)
シンジュの説明を掻い摘んで理解しつつも、概ね聞き流す。
国王、外務大臣、その他諸々の立場にいる者によって権利が異なり、それぞれ重大な取り決めを行うのだが、両国の法律に沿って互いに国益を得るように調整しつつ話し合いを穏便に済ませる立場――ということで、いいのだろうか。
かなり端折ったが、ナルはそんなふうに理解した。
「それって他国の法律に精通していたらかなり有利ですよね。シンジュ様は刑部省で働いていた実績もありますし、適任だというのは私にもわかります」
「最初は内部の者の説得、その後外交官として他国との対談の提示。ある程度すすめば、人材育成に回ることになる。……まだ先の話だが」
(シンジュ様は、本腰を据えて、風花国で暮らしていくんだ……すごい)
ナルみたいに、先が見えないあやふやな状態ではなく、常に先を見通して動いている。
格の違いというものが大きすぎて、ナルには眩しい。
「あ、そうだ。ちなみに、第一王子って、天馬の長兄のことですか? 暗殺されたっていう」
シンジュの話によると、第一王子はかなりまともな人間だったように聞こえたが。
「残っている貴族らからは、そう聞いている。正しく国の崩壊を見抜き、王になった暁には貴族制度の見直しを提言していたそうだ。……問題は、そのときの国王である第一王子の父親や天馬が、それに反発していた点だな」
「自分の地位が脅かされる案件ですもんね」
ナルはあることを思ったが、今はそのことは頭の端においやった。
それよりも、シンジュと話していると、自分の小ささを思い知らされて恥ずかしくなる。
ナルはそっと、ため息をついて項垂れた。
*
ナルが項垂れている。
シンジュは眉をひそめた。
いくつかの質問に答えたが、ナルを不安にさせたのだろうか。安心できるように説明したつもりだったのだが。
「どうした」
「……自分が恥ずかしくて。風花国に残るって言ったのに、私、仕事も決めてないし、今後の予定が白紙なんです」
「なんだと?」
ナルは小さく身体を震わせた。
ぎゅっと唇を噛む姿は、怯える小動物のようだ。
(ナルをこんなに怯えさせるなど……許さん)
誰がナルをここまで追い詰めたのか。
そもそもナルが風花国にいる概ねの理由としては、フェイロンやシロウの心の拠り所であると考えている。
仕事につく必要もない。
国政など重要な事案が出来た際には、シロウのほうからナルへ聞きにくるだろう。その際、いくつかアドバイスをする顧問のような立場でよいのだ。
そもそもシロウは優秀なので、ほとんど判断できるだろう。
何より、フェイロンも、シロウも、自ら望んで今の立場に立っている。シロウは王として、ナルの意向に沿うよう国政を動かすだろうし、フェイロンも神殿でナルが不利にならないよう、内側からあらゆる手段を用いて庇護するだろう。
「ナル」
「は、はい」
「お前は私の妻だ。ここで、私の帰りを待てばいい」
それが最善である。
ナルはもはや、バロックスの子飼いのような立場ではなく、シロウより上に立つ存在になったのだ。多くの者に慕われ、秀でた彼らが各々動くようになった今、ナルは一つの場所でどしりと構えるのが適切だとシンジュは考える。
ふいに。
ナルが、瞳を潤ませた。
今にもこぼれそうな涙に、シンジュは動揺する。
こんなときなのに、変わらず吸いつきたくなる唇が可愛いなどと不埒なことも考えながら、シンジュは冷静さを装い、「どうした」と問う。
「……シンジュ様が、優しい」
「お前にはいつも優しくしているつもりだが」
瞳をきらきらと輝かせて頬を上気させる妻に、シンジュは苦笑した。
慕われていると露骨にわかると、なんだか面映ゆい。
(今ならば、例のことを言えるのではないか)
何もシンジュが考えた『今後のこと』は仕事面だけではない。
重要なのは、私生活。
そう、夫婦の生活である。
「一つ、謝罪せねばならんことがある」
「なんでしょう」
「以前、隠居したらゆったり暮らそうと約束したが。まだまだ隠居は遠そうだ。最悪、反故になるかもしれん」
緊張した面持ちで聞いていたナルは、内容を聞くなり、ふにゃりと愛らしく笑った。
押し倒してほしいのかもしれない、とシンジュは真剣に考える。
「私、シンジュ様と一緒にいられるとわかっただけで、充分満たされています。今後、沢山困難もあると思いますけど、シンジュ様が傍に居てくだされば、それだけで乗り切れます」
「……ナル」
「はい、なんですか?」
「私もいい歳でな。……そろそろ考えねばならん」
ここからが、シンジュにとって本題だ。
最重要案件といってもいい。
以前に二人で、隠居した暁には、子をつくろうという話をしたことがある。
シルヴェナド家の娘の子となれば、それだけで迫害される可能性があるため、誰も二人を知らない場所で子育てしよう。
我が子が伸び伸びと暮らせるように――それが、隠居についての大前提。
だが、その隠居の件が遠くなったないし無くなりかけている。
そしてここは風花国。
シルヴェナド家がどうこうという輩は、モーレスロウ王国王都より極端に少ないだろう。
絶好の、子作りチャンスだ。
シンジュの言葉はナルに伝わったようで、ナルは頬を染めて目を見開いていく。
沈黙のなか、ふたり見つめ合う。
そして、ナルははにかんで頷いた。
シンジュの心のなかで、薔薇が咲き誇る。いや、薔薇だけではない。春夏秋冬問わず色とりどりの花が一斉に咲き誇った。
「そうですね……わかりました」
「わかってくれたか」
「はい、勿論です。外交面で多忙となるため、早めに新人教育に力を入れていくということですね! 私も微々たることながら、助力致します!」
「……」
「仕事に一途な旦那様、素敵です。旦那様の妻で、私、本当に嬉しいです」
「……ナル、外交面の教育も重要だが、私個人の世継――」
「私、しばらく神殿のほうでやることがあるので暫くはご一緒できないのが残念です。でも、頻繁に会いにきますね! ……あ、すみません、遮ってしまって」
「………………いや、構わない」
(なぜ先程頬を染めた?)
そもそも神殿のほうでやることとはなんだ。
そこはかとなく、ナルの背後にフェイロンのニヤリとした幻が見える気がするのだが。
「ごほん、ナル。お前は私の妻だ。いつでも帰ってこい、ここはお前の家だ」
そう言って焦りを誤魔化したが。
そのとき、予期せぬことが起きた。
感極まってどうしようもなくなったナルが、シンジュに飛びついたのだ。
ぐりぐりと首に擦り寄られれば、ナル自身の香りが増して、愛しさで胸がいっぱいになる。咄嗟に抱きしめ返そうとした瞬間、ナルがさらにぐりぐりしてきたので、勢い余って押し倒される格好でベッドに転がった。
「……ナル」
これは久しぶりに、夫婦の営みの時間だろう。
雰囲気がそう言っている。
「シンジュ様、お話、聞かせてください」
首元でくぐもった声がして、腰を撫でようとした手を止める。
「さっき、ジザリに会いました。他の使用人たちのその後は、どうなったんですか?」
確かにナルは使用人たちとも仲がよかったため、気になるだろう。
シンジュは、ナルを一度抱え上げて、自分の身体の上に乗せた。寝転んだままなので、小動物を腹に乗せているような見目である。
ナルの頭を撫でながら、シンジュはナルに乞われるまま話をした。
カシアというメイドも共にきているが、概ねの使用人はモーレスロウ王国に家族がいるのでそのままレイヴェンナー家の屋敷で仕えていること。ベティエールは諸々の片付けのためにモーレスロウ王国へ帰国したが、段取りを終えてから、再びここへやってくることなど。
ナルは、瞳を煌めかせ、嬉しそうに話を聞いている。
その可愛らしさと愛しさに、こういった時間をもてることも幸福だとシンジュは思った。
(そうだ。慌てることはない。ナルはこうして、私のもとにいるのだから)
なにせ、ここにはナルをやたら溺愛しているメイドもいなければ、ナルを利用しようとする腹黒王子も、ナルを孫だとほざく男もいないのだ。
そう考えて機嫌をよくしたシンジュは、ナルを抱きしめながら問う。
「お前のほうはどうだ? 変わったことはないか」
ナルはやや考えたのち、微笑んだ。
「おばあさまが出来ました! 孫が欲しかったみたいで、おばあ様って呼んでいいって言ってくださったんです!」
「………………そうか」
シンジュは思い出した。
ナルは究極のタラシであり、あらゆる人物を誑し込んでくるということを――。
これ以上厄介なやつを増やすなと叫びたいのを堪えた自分を、シンジュはさりげなく褒めたのだった。
閲覧、ありがとうございます。
評価を下さった方、心から感謝しております。
誤字脱字報告も、嬉しく思っております!
残り数話、頑張ります~!
宜しくお願い致します!