第二幕 第三章 【5】シンジュ②
「よかった、のですか」
滞在先の座敷で、ベティエールが遠慮がちに言った。
護衛として傍にいるベティエールを除き、他のもの達は部屋にいない。
「何がです?」
二人きりゆえに、周囲の目も気にせず、言葉も丁寧なものになる。
シンジュは手元の熱燗を傾け、猪口に注いだ。
「ナルを、連れてきたほうが、よかったのでは」
「私はモーレスロウ王国使節団の特使です。ナルは入国申請をしていない、見つかれば厄介でしょう?」
この言葉は、本心ではなく建前だ。
先程、右大臣家で持て成しに呼ばれたのだが、そこで右大臣の暗殺が起きた。
使節団として、商談について話す場だった。だが、肝心の今後の取引や王との対面の手筈云々の話に移る前に、右大臣は血を吐き即死。
遅効性の毒だったのか、毒見役が倒れてどよめきが収まらぬ間に、右大臣も倒れたのだ。
その後は、医者がやってきて死亡を確認。
警鐘が鳴り、現場を保護すると警備の者がやってきた。
大人しく待機していたシンジュたちだが、座敷の外に待機させていた使節団の武官の一人が『外から突入してきた部隊がある』ことを報告にきて、きな臭いものを感じ、そちらに向かい――ナルに出会ったのだ。
「……それにしても、なぜこうも、厄介ごとに巻き込まれるんだあいつは」
自分から風花国へ行くと言い出したのだから、何かしら起こるのは当然だろう。
だが、まさか右大臣殺害容疑をかけられるなど、厄介なんてものではない。その場で殺害されてもおかしくない案件である。
「旦那様は、奥方を、助ける、運命にあるのでしょう」
「鼻で笑っても?」
ベティエールは軽口をたたくシンジュに、苦笑する。
あと少し遅ければ、間に合わなかったかもしれない。思い出すと、背筋がぞくりとする。
ナルがいる場では、使節団特使という立場を重視して平然を保ったが、愛する妻を失うかもしれなかった夫としては、その場で抱きしめてさらってしまいたかったのが本心だ。
口を滑らせて、敵の配下にナルを「妻」と言ってしまった、というか伝えるよう威圧してしまったが、後悔しても遅い。
もっとも、そんなことで窮地に追い込まれるつもりはないので、さほど問題ではないとシンジュは考える。
熱燗に口をつけ、ふと笑う。
幼い頃、この匂いが嫌いだった。
柳花国で生まれ、幼い頃にモーレスロウ王国に極秘に養子に出された。
血筋による争いを避けるため、また、国王が無事に即位できるようにするため、シンジュは『あくまで王に何かあったときの保険』として柳花国に所縁あるレイヴェンナー家に預けられる。
それからも、定期的に柳花国へ帰省するよう命じられ、母や姉妹へ挨拶と言う名の顔色伺いに出向いたものだ。
母は、シンジュがモーレスロウ王家へ養子に入ったことで第三王妃となり、絶対的な地位を築いていた。にも拘らず、シンジュと顔を合わせるたびに「王になりなさい」と、兄王子の暗殺を仄めかせてきたのは記憶に焼き付いている。
そうだ。
兄を守ろうと、兄のためにあろうと決めたのは、元々は母から兄を守るためだった。
(あの頃は、陛下とはほとんど顔を合わせたことがなかったな)
それにも関わらず、モーレスロウ王国国王になる兄のために生きるのだと決めたのだから、若さとは恐ろしい。無駄な正義感が、今の人生を歩むきっかけになったのだ。
勿論、ただ正義感だけでここまで来たわけではない。
大きかったのは、義兄に当たるフェイロンとの出会いだ。彼は貴族らしく、王のための剣になると懸命だった。
彼に触発され決意を新たにし、シンジュの決意は揺るぎないものになった。
そっと、目を伏せる。
ひたむきに未来を見据え、自分のためでなく誰かのためにあろうとしたあの頃は、人生でもっとも幸福だったかもしれない。
自嘲したシンジュに気づいたベティエールが、眉をひそめた。
「どうされました」
「フェイロンと共に切磋琢磨した日々を思い出していました。あの頃がもっとも充実し、幸福な日々だったと」
「なるほど。幼き日は、満たされて、いるものですから。……今の言葉、そのまま、ナルに伝えておきましょう」
「取り消します。今がもっとも充実し、幸福ですから」
ベティエールが笑い、シンジュは憮然とする。
だが、今のベティエールの言葉で、気づけたことがあった。ナルと出会えたからこそ、こうして過去を振り返る余裕があるのだと。
ほんの一年前、ナルと出会う以前のシンジュは絵にかいたような冷徹な男だった。司法では平等かつ公正な判断を行い、国の定めた法による正義を順守する姿勢を崩さなかった。
もっともそれは表向きに過ぎず、ルルフェウスの戦いの一件を調べるために、地位や身分などを多少利用していたが。
(……今がもっとも充実し、幸福、か)
その通りだ。
あれだけ守ろうと思っていた兄王は今、確固たる地位を築こうとしている。彼には優秀な息子がおり、長年悩みの種だった第一王妃の件も片がつくだろう。
もう、シンジュは兄王のために身を削る必要はない。
あれほど兄のために生きようと誓ったにも関わらず、己のやりたいことは、すでに兄王のためにあることではなくなっている。
今、シンジュがもっとも望むことは――。
ベティエールが、顔をあげた。
障子の向こうへ鋭い目を向けるのを見て、シンジュは猪口を置いた。
「レイヴェンナー様、王の使者を名乗る者が来ております」
使節団に同行している書記官の一人だった。
声から緊張した様子が見て取れた。
当然だろう。右大臣とのやり取りも、その王に取り次いで貰えるかどうかの話だったのだ。それを、一足飛びで王のほうから使者を寄越したとなれば、書記官の動揺もわかる。
「ほう? なんと言っている?」
「それが、直接特使様にお話したいと」
「……わかった。客間へ通せ」
王の使者は、王から『謁見許可』が下りたことを知らせるものだった。
右大臣に任せっきりだった外交について、他に代役できる者がおらず、自分がやらざるを得なくなったというところか。
王への謁見希望は、到着した初日に通達されているはずだ。
待機日数を考えても、今ここで謁見許可が下りたのは右大臣の件か――それとも、シンジュが右大臣家で『妻を――』と言ったことが関係しているのか。
どちらでも構わない。
使者には是と答え、翌日の指定された時間。
シンジュは、品位を損なわないように気をつけつつ警護を厳重にし、王との謁見へ向かった。
謁見の間は、思いのほか物寂しいものだった。
一段高い場所に座った王は、御簾の向こうにいて顔が見えない。
シンジュは特使として来ているため、その向かい側に礼を持って首を垂れた。
斜め後ろにはベティエールが控えているが、謁見の間ゆえ、武器は持っていない。
背後には、使節団でも重要な役割を担う者や元ブブルウ商会のフィーゴが控えた。
(……気に入らんな)
風花国には、御簾を下す文化などなかったはずだ。
あくまで御簾は、眠る際に姿を隠すためのもの。堂々と謁見の間に設えるものではない。
シンジュは、王についての情報を反芻する。
正確な年齢はわからないが、王位についた時期を考え逆算すると、シンジュと変わらないはずだ。
即位する前まで複数人いた兄弟姉妹は全員不幸な事故で他界、残る兄弟は、柳花国で生まれたシロウだけ。
そのシロウが、現在柳花国から賓客として来ているというから、鼻で笑ってしまう。
(シロウを警戒しているだろうな)
王位欲しさに親族を屠った男は、同じような目に自分が合うかもしれないと考えるものだ。
もしかしたら、右大臣を切り捨てたのもシロウが関係あるのかもしれない。
だとすれば、浅はかどころか、とても小さな男である。
風花国では、然程名前を重要視しない。
幼少期の名は知らないが、大人になってからは『天馬』と名乗っているらしい。
天を駆ける馬――なんと驕った名だろうと思わないでもないが、風花国は絶対君主である。
王が何をしようが、周りは従うのみだ。
シンジュは、言葉を発してもよいと許可が下りたのを見止め、より深く頭を下げたあと、顔をあげた。
自分がモーレスロウ王国使節団特使であることを名乗り、此度の使節団派遣の理由を伝える。
「……なるほど」
御簾の向こうから、低く美しい男の声がした。
「モーレスロウ王国は、我が風花国と貿易がしたいと……国交を持ちたいと、そういうことかな」
「はい」
鋭く切り返すと、御簾の傍に控えている三つ編みの男が睨んできた。
王の小姓だろう。今にも脇差に手がかかりそうだ。
そんな小姓を咎めることなく、王は「ふむ」と頷いた。
「まずは、使節団の皆に、我が国のいざこざに巻き込んでしまったことを詫びよう。右大臣家での一件は聞いている。そなたらに大事なくてよかった」
恐縮さを示すために、頭を軽くさげる。
「……犯人は、捕まったのですか?」
「口を慎め、発言の許可は出ていないっ!」
シンジュを睨んでいた小姓が叫び、王が苦笑して「よい、小太郎」と窘めた。
小太郎というらしい小姓は、すぐに姿勢を整え王に詫びる。
「犯人についてだが、残念ながらまだ捕まっていない」
「そうですか」
「その件もあり、今は貿易に関して対応できぬ。すべて右大臣が取り仕切っていたこともあるが、風花国の内情を鑑みても、余裕がないのだ」
「風花国国王、これまでのように、小規模なもので構わないのです」
「右大臣が内密に行っていたブブルウ商会との取引ならば、私の知ったことではない。鎖国を改めるつもりはないゆえ、此度の貿易は諦めよ。だが」
王は少し余韻を残すように言葉を途切れさせて、続ける。
「だが、今後も同じとは思わぬ。あくまで余裕がないのは現状であって、将来もそうとは限らぬゆえ。こちらに余裕が出来た暁には、いくつかの条件のもと、貿易や取引拡大について前向きに検討したいと思っている」
良いように聞こえるが、改めて出直してこい、ということである。
(貿易が目的ならば、ここであらゆる手札を駆使して是と言わせるところだが――)
シンジュは、少しばかり粘って見せたが、諦めてその場を立った。
退室する際、王が嗤ったのを察した。
完全に風花国の者の目から見えなくなると、シンジュも笑う。
「なにが、おかしい、のですか?」
「足元に蔓延る危険にも気付かぬ愚王でしたね」
「……旦那様は、何を企んで、おられる?」
「なに、とは?」
「確かに、神殿はもう、こちらの手中に、落ちたと言っても、いいでしょう。だが、それ以後、何をしているのか、教えてはくれませんか」
ベティエールは、水面下でシンジュが動いていると思っているのか。
なるほど、と頷く。
「何もしていません。変わらず、優秀な密偵を一人潜り込ませているだけです」
「だが、王を追い落とす、のでしょう。そのための、情報が不足していると、ナルに言っていたでは、ありませんか」
「あの情報は、モーレスロウ王国へ持ち帰る際に必要な情報というだけです」
「……私には、旦那様の考えが、わかりません」
「私のような、ただの使節団特使に、腐った豚とはいえ、一国の王を追い落とす力があると思いますか?」
特使が他国の王を殺害すれば、それは謀反ではなく暗殺だ。国家間の諍いどころか戦争である。
「だが、ナルには……」
「私がするとは言っていません。そもそも、私にそんな力はない。私が出来るのは、神殿側を手に入れることだけですから」
そうだ。
ルルフェウスの戦いを激化させ、数多の被害を出した黒幕を導き出せても、追い落とすことなどできはしない。
それほど敵は強大なのだ。
だからこそ、毒をばらまくなどと、利益にもならない無意味で大胆な行動を取ったのだろうけれど。いや、シンジュが知らないだけで、利益になっているのか。
くっ、と笑う。
ベティエールが心底疑わしい目をしていた。
まったくもって、心外だ。
シンジュはもとより、こういう性格なのだから。
やっと、ここまできた。
悲劇が起きた、あの日から十年は経った。シンジュの大切な者たちは、広義の意味で様々に姿を変え、かの毒の脅威を常に警戒する日々。
シルヴェナド伯爵や元ベルガン公爵、彼らと手を組み――いや、彼らさえ手駒のように使ってきた、全ての黒幕まで、たどり着いたのだ。
(必ず、潰してやる)
決意を新たにしたシンジュは、先程の天馬という風花国の王を思い出す。影武者である可能性も捨てきれないが、あれが本人だとすれば、平々凡々な王、といった印象だった。
だがその印象も、シンジュがその場を去ろうとしたとき、風花国国王が鼻で笑ったような気配を感じた瞬間に変わる。
あれは、他者を見下すことに慣れた男だ。
滑稽なほど、己の力を過信している自信過剰な者の笑いかただった。
あの男相手に、ナルが後れをとるとは思えない。
念の為の備えはしておくとして。
シンジュは『今後のこと』を考えた。
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