第二幕 第三章 【4】 魔王降臨
行く! と意気込んでいたナルだったが、実際、後宮という場所についてよく知らない。
歴史小説で読んだり、ドラマなどの大奥といった印象がある程度だ。
後宮とはつまり、王の世継ぎを残すための場所だ。
時代や国によって、つまるところ文化によって違いがあるのだったか。
ヤコから礼儀作法をばっちりと習い、心身ともに疲労困憊になりながらも後宮に潜入したナルは、ほっと一息ついた。
たった今、新しく入った後宮の世話見習いたちが座敷に集められたところだ。
これから、どこへ配属になるのか決まるという。
世話見習いたちは、きりっと上品な者から、不安そうな者まで様々だ。纏っている着物も、ピンキリ揃っている。
予め得た情報では、花いちもんめ方式で引き抜かれるとか。
潜入できた安堵でほっとしつつも、周囲の世話見習いたちの表情を真似て緊張してみせる。
集まった三十人ほどの世話見習いたちは、次々にやってくる着飾った女たちに、吟味され、連れて行かれた。後半になると、見るだけ見て誰も連れて帰らない女もいる。
このまま最後まで残れば、下働きとしての労働が待っていた。
王の手つきを狙うならば、妃の世話役に抜擢されたいものだが、ナルは下働きを望んでいる。どこかの妃つきの世話役になれば、出入り可能な場所が限定されるからだ。
ゆえに、ナルの着物は中の下といったものである。
後宮へあがる前に、身体の垢をこれでもかと擦って髪を結われたので身綺麗にはなっているが、やはり、着物の質は大きなステータスになるのだろう。
(いい身なりの者ほど、育ちもいいものね)
当たり前のように、身なりの良い者と見目の美しい者は連れていかれ、順調にナルは残っていく。
三十人ほどから、僅か六人になったころ。
慌ただしく駆けてくる足音がした。
「よかった、残ってるわ!」
長い赤髪を頭上で結った年配の女性が、ざっと部屋を見てそう言った。
だが、ほっとした表情をしたのは一瞬で、すぐに不安そうに眉を顰める。
「ええっと……あら。あなた、随分と落ち着いているわね」
ナルは、自分が声を掛けられているとは気づかなかった。
落ち着いているつもりはないが、不安そうな顔をするのも疲れてきたのは確かだ。
「あなたと、そこのあなた。ついてらっしゃい」
(あれ!?)
従わねばならない雰囲気になって、ナルともう一人は座敷を出る。
その瞬間、入れ替わりに女官が座敷に入り、残っている者たちに下働きに入るよう命じた。
(えええええっ)
下働きになる、という序盤の計画から、とん挫してしまった。
「こちらは、十六王子です」
ナルたちを迎えにきた女は、こぢんまりとした部屋にいる四、五歳ほどの少年を示して言った。
(十六……十六!?)
後宮とは世継ぎを作るところだという認識はある。
だが、世継ぎをこさえすぎるのも、何かと継承諸々大変なのではなかろうか。
そんなナルの気持ちを知ってか知らずか、女は説明をした。
「現在、後宮におられる妃様の数は四十五人。王子は十八名、姫様は二十六人いらっしゃいます」
(わぁ)
他に言葉が出ない。
一夫多妻としては、普通なのかどうかも、ナルには判断しかねるのだから、「わぁ」以外なんと言えよう。
改めて、目の前にちょこんと正座している十六王子を見た。
黒髪にココナッツ色の瞳をした、可愛らしい顔立ちの王子だ。きりっとした目は強い意志を湛えている。
「あなた方には、この十六王子つきの世話役になってもらいます」
「はい」
「私は明日、新しく生まれた王子の乳母にならねばなりません。明日までに、引継ぎをすべて覚えるように」
言葉の端々に違和感を覚えたナルは、おそるおそる、視線を向けた。
「……あの」
「なんです?」
「ほかの世話係の人たちは……」
「いません。現在、後宮は人手不足ですから」
「えっと。では、王子殿下のお母上様は」
「十六王子及び十七、十八王子の母君は、出産と同時にお亡くなりになりました」
女はそう言って目を伏せると、静かに息をつく。
「妃様と王子、姫が多すぎて世話をする者が足りぬのです。乳母の私でさえ、こうして転々とせねばなりません」
(王様は自重したほうがいいんじゃないの?)
徳川吉宗は後宮の運営資金を切り詰めるために、大奥の女を減らしたとか。
風花国は格差が大きく、飢える者もいる国だというのに、王は何をしているのだろう。
(ああ、右大臣の傀儡なんだっけ)
一瞬遠い目をしたナルだったが、ここでは従うしかない。
謹んでお受けいたします、と断りを入れてから、慌ただしい引継ぎが始まった。本来ならば、世話見習いとなるところを、なんとナルは、十六王子の侍女頭になってしまった。
人不足とは恐ろしい。
ちなみに一緒に連れてこられた少女は、ナルより二つ年上だった。
彼女は、侍女頭補佐だ。
引継ぎといっても、ほとんどが口頭説明である。
一日のスケジュール、侍女がやるべきこと、そして王子殿下がなさるべきこと。
ざっと一年を通してのスケジュールは、巻物として渡された。
行事の準備もせねばならないのだ。
そんなふうに慌ただしい初日が過ぎて、後宮の人員と資金不足を嫌でも知った。
「ねぇ、ナル……様」
「ナルでいいわ。どうしたの、ラン」
一緒に連れてこられたランという女性は、不安いっぱいの表情をしていた。
諸々の引継ぎを終え、王子の部屋のすぐ隣に位置する小部屋に二人はいる。すでに夜着に着替えており、あとは寝るだけだ。
聞いたところによると、現在の後宮ほど妃や世継ぎが増えたことはなかったようで、部屋も圧迫しているのだ。
十六王子が使えるのは、小部屋が二部屋である。
そのうちの一部屋がここだ。
「あたし……不安なの。覚えられないの」
「……大丈夫。それが普通よ」
それから幾つか話をしているうちに、慣れない環境と疲労に負けたのかランは眠った。
今、十六王子の乳母は、明日に備えて十八王子の元へ行っている。
ナルは何気なく、十六王子が眠っているだろう部屋を襖越しに見つめていると、カタン、と襖が開く音がした。
隣からだ。王子が廊下に出たのだろうか。
ナルは、与えられた質のいい上着を夜着に羽織り、そっと音のほうへ向かう。
十六王子が、廊下に立って庭を眺めていた。
手入れのされていない、草だらけの庭だ。
「眠れないのですか?」
声をかけると、王子ははっと振り返る。
五歳になったばかりで、名前は皇というらしい。
皇は頷いてから、苦笑した。
「そなたたちに迷惑をかける。すまないな」
大人びた言葉だった。
早熟な国だと知っているとはいえ、五歳の男児が言うには重みを感じる。
苦労してきたのだろう、と察することが出来た。
「とんでもございません。私としては大出世ですから」
「そなたも夢を見て後宮へ来たのだろう」
「私は、安定して暮らせるだけで充分です」
出世して贅沢な暮らしを望む者も多いが、ナルが後宮へ来たのは潜入捜査のためだ。
それを正直に言うことは出来ないが、黙っているのも心苦しく、安定して暮らすためだということにしておく。
「少しだけほっとしたよ。でももし、後宮での出世を望んでいるのなら、僕の元へ来てしまった時点で、夢は途絶えたと思ってほしい」
「殿下?」
「僕は父上と一度も会ったことがないんだ」
ナルは口をひらいて、閉じる。
言葉を選ばなければ。
「気を使わなくていい。末に近い王子など、誰も見ないのだから。僕は、許される限りゆったりと暮らすだけだ」
「お付き合いさせてくださいませ」
そう言うと、王子は驚いた顔をしたが、次の瞬間には、初めて笑った。
「助かる。頼むよ……名前は、なんだったか」
「ナルです」
「ナル。うん、よろしく」
こうして、ナルの後宮での怒涛の日々が始まった。
宣言通り翌日には、十六王子の乳母かつ唯一の世話役だった女は移動となり、ナルが侍女頭となった。
そうなると、定期的に外部と連絡を取るはずだった約束が果たせなくなるのは目に見えていたため、いくつか確立していた手段をすべて捨て、見回り宦官兵士の一人をカネで懐柔するという、やや危険だが確実な方法で外部と連絡を取り合う方法へと変更した。
アレクサンダーとリン、サトミは各々調査を続けており、すべての報告はヤコにいくようになっている。
ヤコが情報を整理し、それぞれに必要な内容を分けて、新たな情報や質問の打ち返しなどをくれるのだった。
後宮へ入ってから一週間が過ぎたころ、最初の返事がきた。
そこには、仲間うちだけがわかる暗号文字で、新情報が二つ記されていた。
一つめ、王が最近、常にぴりぴりと不機嫌であるという情報。
不機嫌な理由については、隣国から来た妹が謀反を狙っているのではないかと、周囲は噂しているらしい。
(ふむふむ)
現在の風花国の王は、右大臣の傀儡で愚鈍と聞いている。
だが、後宮内で聞いた王の評判はすこぶるいい。後宮という閉鎖的な空間だからかもしれないが、なんでも王は『美しくて、秀でていて、優しい』男らしい。
この違いが、ナルはなんとなく気がかりだ。
二つめは、モーレスロウ王国から使節団が到着したという情報だ。
一瞬、シンジュが特使をしているのかもしれない、と思ったが、使節団について詳しい説明は記載されていなかった。
(バロックス殿下は外交を望んでらしたし、やっと動いたってところか)
そんなことを考えつつ、読み終えた手紙を燃やした。
証拠隠滅は鉄則である。
三週間が過ぎて、徐々に怒涛の日々にも馴染んできた頃。
十六王子の元へ向かう途中、紫色の袴を羽織った桃色の髪をした男と、出会い頭にぶつかった。
慌ててその場にひれ伏す。
顔は見えなかったが、この後宮で身綺麗な姿をした男は、何番目かの王子しかいない。
廊下の端でひれ伏しながら、ナルは考える。
(こんな後宮の端っこに、なんの用?)
十六王子皇に来客の予定はない。
もしかして、懐柔した宦官の件が知られたのでは。
そんな焦りを覚えたとき。
「見つけた。きみが、花夏目家推薦の世話見習いだね」
(……ん?)
綺麗な声だ。
だが、どことなく年季を感じる。
「かしこまらなくていい、顔をあげてごらん」
花夏目家、というのは、ヤコの実家の名だ。
言われるまま顔をあげたナルは、そこにいた美貌の中年に絶句した。
どの国にも、イケオジは存在した――。
桃色の髪をふわふわカールさせたその男は、紫の羽織をゆったりと着流した姿で立っていた。
細められた瞳はピーコックグリーンで、優しさが溢れんばかりに輝いている。
ナルはその男から、バロックスに近しいカリスマ性を感じた。
「私は、この国の王をしてるんだけれど……おーい、聞こえてる?」
顔を覗き込まれて、ナルは目を瞬く。
突然過ぎて、頭の中がパニックだ。だがすぐに、今度は先ほどより深くひれ伏すと無礼を詫びて、形式上の挨拶と、自分のようなものを気遣ってくださった優しさを讃えた。
まさか、探りを入れたい相手が自分からやってきてくれるなんて。
遠回しに詮索する手間が省けたかもしれない、と希望を抱いたとき。
「あはは、丁寧だね。実はあまり時間がなくて、手早く用件を話したい。今、隣国から妹が来ていて、後宮の人手がそちらに取られてるんだ。だから、今夜右大臣家で開かれる宴に割く人員が足りないんだよ。きみ、右大臣家に手伝いに行ってくれないかな」
「……私が、ですか」
「そう。花夏目家の推薦なら、礼儀作法も正しいはずだ。あそこの今は亡き時次郎とは、友人だったんだよ」
そっと視線を向けると、王は憐憫を湛えた瞳を空中に向けていた。
時次郎を悼んでいるのだろうか。
「すまないが、すぐに用意してほしい。宴会そのものが想定外でね、バタついてしまうけれど。宴会が終えると必ずここに戻すと約束するから」
そっと身を屈めた王は、そう言ってナルの髪に触れた。
「これは命令だよ、ごめんね」
どこか寂しそうに言い終えると、集合時間と場所を伝え、去って行った。
一瞬の出来事だった。
突然の国王出現からの、右大臣家へのヘルプ。
いずれ右大臣家について探りたいと望んでいたため渡りに船だが、国王自らこうして右大臣家のヘルプをスカウトして回るなど、どれだけ人材不足なのだと頭を抱えてしまう。
ナルは、十六王子とランに事情を話し、涙目になるランを宥めて、支度をした。
王自らヘルプする人員を見定めているということは、それだけ重要な相手を持て成す宴会ということである。
もしかしたら、右大臣家の何かが掴めるかもしれない。
(でも、右大臣家の宴会に後宮の人間を連れていくなんて、ありえないんじゃないの)
万が一にも手籠めにされたらどうするのか。
いや、後宮の者が行くことで、相手に『手籠めにするな』という意思を発しているのか。
理由はどうあれ、断ることなどできないナルは、言われるまま集合場所に行き、集められた女たちと右大臣家へ向かった。
*
右大臣家は、古式ゆかしき日本家屋そのものだ。
平安貴族たちが暮らしてそうな、平屋のただっぴろい敷地を持っていた。
無駄に土地が広いのに、家屋を囲む塀の周囲には一定間隔に立つ兵士が目を光らせており、門扉には頑丈な鉄の錠前がついている。
馬車で正面の門からなかへ通されたナルたち「ヘルプ組」は、慌ただしく動く女たちの部屋に押し込まれた。ほどなくして厳めしい顔の老齢の女がやってくると、それぞれに仕事を割り振ってくる。
ナルは複数の女たちとともに、酒を宴会場へ運ぶ手伝いをさせられた。
接客相手がくると、ナルたち下準備組は下がり、見目麗しい天女のごとく衣をまとった女たちが座敷へあがる。
(わぁ。なんか雅って感じ)
消費されていく酒や料理を宴会場の襖前までひたすら運び。
下げられてくる皿を、厨房へ戻す。
それを繰り返しているうちに、指示を出している老齢の女に呼び止められた。
「これを、西の間に運べ」
「西の間ですか?」
「ああ。ここを出て、庭沿いに一つ目の角を左に曲がった場所に、小屋が立っている。そこだ」
「わかりました」
重箱のような箱を両手で抱え、中庭を歩いた。
聞こえてくるどんちゃん騒ぎは、宴会場が盛り上がっている証拠だろう。
(右大臣家で宴会ねぇ)
国民が苦しんでいるのに、国王は右大臣のために切迫している後宮の人員を貸し出すなんて。
大体、妻と子が多すぎる――。
「あ、あった」
老齢の女が言っていた小屋を見つけて、重箱を一度地面に置いてから、ドアを開いた。
建付けが悪く、なかなか開かない。
ガコン、という音と共に開き、かび臭い匂いが溢れてきたところで、やっと違和感を覚えた。
辺りが暗い。
屋敷の塀周りや宴会場に沢山いた警備の兵もいない。
そもそも、この物置のような小屋は、なぜ屋敷からほど近い場所にあるのか。
(……屋敷から近い場所に、小屋?)
――目の届く場所に置いておきたいのさ
ヤコの声が蘇り、サトミの手書き地図を思い出す。
メインの屋敷から近い場所に、ぽつんと倉庫のような牢獄があったアレだ。
ぞわっ、と背筋が悪寒に震えた。
全身の毛が逆立ったとき。
背後で、鐘が鳴り響いた。
カンカンカンカン、と連続で叩かれる、警鐘を鳴らす鐘だ。
複数の足音が近づいてきて、ナルは慌てて小屋の中に逃げ込む。
かび臭く、木板の床には大きな黒い染みがある。
格子のついた窓、転がる足枷。
隠れる場所などどこにもない。
慌ただしい足音がナルのいる小屋へ真っ直ぐ向かってくる音を聞いて、歯を食いしばった。
(はめられた!)
勢いよくドアが開き、武装した男どもがナルへ刀を突きつける。
鋭利な切っ先を向けられ、その場で制止した。
鈍っていた頭が、フル回転する。
後宮で過ごした数日、ヤコからの情報。
右大臣家で行われた宴会。
手紙をやり取りさせた宦官が裏切ったか――いや、王が来たあとにも手紙を頼んだが、視線や表情に偽っている不自然さはなかった。
花夏目家の誰かが、ナルを『不法入国者』として売ったのか――いや、ナルが不法入国者だと知っているのは、ヤコだけだ。彼女が裏切ったとは考えにくい。
そうだ。
後宮へやってきた王は、ナルを『花夏目家』の者と判断してここへやった。
ナルではなく、花夏目家が推薦した世話見習いを、罠に嵌めたといったところか。
とはいえ、一体なんの罠なのか。
突然警鐘がなり、一目散にやってきた兵士に取り囲まれ、剣を突き付けられたのだから、何かの容疑がかかっているのは確かだが。
(落ち着くのよ、ナル。……切り抜けないと)
ひと際明るい色の衣を纏った兵士が前に出て、ナルの全身を見据えた。
「お前を、右大臣殺害の犯人としてこの場で処刑する」
(右大臣殺害!?)
これあかんやつ、と本能が告げる。
追っていた右大臣が殺害された、となれば、探っていた身としては不利だ。そもそも、ここで処刑されてしまえば死人に口なしである。
兵士たちがナルの両腕を掴み、床にしゃがませた。
肩を無理やり押されて、首を前に突き出した状態になる。
いつギロチンを下ろされてもおかしくない、あの姿勢だ。
従順なふりをして、近くの兵士を蹴りつけた。
一度は腕から逃れたが、二度目はない。再び取り押さえられると、今度は両腕をがっちりと背後で固定されてしまった。
すらっ、と刀を鞘から抜く音がした。
時代劇でよく聞こえる抜刀の音は、ただの効果音ではないらしい――。
(……死にたくない)
刀を握る明るい衣の男を睨みつけた。
相手は、ほんの少しだけ憐憫をその瞳に浮かべたが、刀を握った腕を構える姿勢は崩さない。
「ま、待って。ここで殺されるの? 介錯とかじゃなくて?」
「……自決を望むか。恐ろしい女だ、魔王に魂を売るとは」
ちょっと意味がわからないことを言われた。
周囲の兵士が、どよめくのを聞きながら、何か間違ったことを言ったらしいと察したけれど、今はそれどころではない。
何か、ここを逃れるすべはないか――。
ふいに。
小屋の外で、怒声が響いた。
目の前で、刀を構えていた男が「何事だ」と鋭く仲間に問う。
その瞬間、その仲間が血しぶきをまき散らしながら、ふっとんだ。
ナルを斬首しようとした男が戦う姿勢を取る。ドアから伸びてきた剣をかろうじて受け止めたが、相手が剣をひねった瞬間、刀は弾け飛んだ。
ぬっ、と熊のように現れた巨体は、素早く動いてナルを囲んでいた兵士たちを一瞬でなぎ倒す。
ゴウッ、とナルの髪が物凄い豪風で靡いたほどだ。
壁に打ち付けられた兵士たちは、僅か一撃で立ち上がることが出来なくなった。
静まり返った小屋に、コツ、と新たな男が入ってくる。
男は、先陣切って兵士たちをなぎ倒した男を見て、床に倒れ込んだ兵士たちを見て、そして、床に座り込んでいるナルを見た。
「……お前は、よく殺人犯にされるな」
「し……しんじゅ、さま?」
圧倒的高みから睥睨する態度。
冷徹な、人を虫のように見下す視線。
かび臭く、そこに血の匂いが混ざり始めた小屋に漂う、柑橘系の香水の香り。
旅の途中、話題の一つとしてサトミが教えてくれたことを思い出した。
シンジュが柑橘系の香水をつけはじめたのは、加齢臭を気にしてのものだとか。
「……本当に。本当に、シンジュ様ですか?」
ピンチにかけつけるなんて、ヒーローのようだ。
ぐず、と涙ぐむナルをひと睨みしたシンジュは、あちこちで唸りながら起き上がろうとしている兵士たちを見渡した。
「……おかしなものだ。先程の宴会では、酒に毒が混入されていたとか。ゆえに、右大臣も毒見役の小姓も死んだのだろう? なぜこの娘を捕らえる?」
シンジュの言葉に、先陣切って突入してきた巨体の男が、ナルを処刑しようとした隊長格の男を引っ張り上げた。
片手一本で軽々相手を持ち上げたその男は、よく見るとベティエールだ。
かつてより張りのある筋肉をもりもりさせた、精気漲る彼は、ふと目があったナルに、目を細めてみせた。
「っ、この娘が、右大臣を殺害したために、処罰する必要が、ある」
「お前たちは右大臣が殺害されたあとに、屋敷内へ突入してきた部隊のようだが? 現場も確認せずにこの小屋へ向かったのは、予定調和のように思えたが……そもそも、特使として宴会に招かれた私どもの安全が最優先だろう。愚か者が」
シンジュの抑揚のない冷酷な声音に、男は何かを言おうとしたが、やめたようだ。
ほんの僅かな間のあと、男は懐から短刀を取り出して己の首を切った――いや、切ろうとしたが、ベティエールに阻止され、床に組み伏せられる。
「勇気のあることだ。この国での自決は、悪魔に魂を売るおぞましい行為なのだろう? そこまでして、あるじを守りたいか。あいにく、お前ひとりが死んだとて変わらん。今すぐに、お前のあるじに告げろ。……私の妻に罪をかぶせようとした行い、その命をもって償ってもらうと」
ベティエールは、男を立たせて小屋の外へ押し出した。
息をひそめて見守っていた兵士たちへベティエールが視線をやると、彼らは足をもつれさせながら、隊長格の男のもとへ向かう。
ベティエールに切られた者の止血も行いながら、とぼとぼと去って行く。
哀愁漂う背中からは、諦めのような何かが見て取れた。
「――さて」
静まり返った小屋に、玲瓏な声が響く。
美しいが、身体の芯が震えるような恐怖を覚えた。
シンジュの、先程より一層冷ややかさを増した視線が、ナルを射抜く。
「お前はここで何をしている?」
「……え、えっと」
「まさか、私の妻ともあろう者が体よく、また『殺人犯』にしたてられた……などということはあるまい」
「ひっ!」
感動の再会なんて、なかった。
もはや、そこにいるのはヒーローではない。
魔王だ。魔王上司だ。
「あまり、いじめるのは、如何かと」
やんわりとベティエールが仲裁に入ってくれたおかげで、シンジュはため息一つで詰問を切り上げた。
シンジュはナルへゆっくりと歩み寄ると、腕を引いて強引に立たせた。
掴まれた腕から伝わる熱、それに、柑橘系の香りに交じって、懐かしさを覚える愛しいシンジュの香りがする。
ナルはすっと視線をさげた。
シンジュの腕が離れると同時に、「申し訳ございません」と詫びる。
「謝罪など不要。だが……まぁいい。手こずるはずが、相手が阿呆なおかげで想定より早く片が付きそうだからな」
露骨に嘲笑するシンジュに、ナルは苦笑する。
右大臣が殺害されたという。
シンジュが証言しているし、誰かの飼い犬だろう兵士たちがなぜかナルを捕まえにきた。
――黒幕は他にいる
あの言葉は、右大臣ではない者が裏で糸を引いているということを伝えたかったのだろう。
だが。
「愚かな者を王にしたものだ。モーレスロウ王国では考えられん」
黒幕は、王。
右大臣の傀儡であるように見せかけて、大人しく身を潜めていたらしい。
それが人生最大の失策だとは知らずに。
後宮で見た、紫の羽織が脳裏に浮かぶ。
そこに、父の姿が重なった。
愚かで醜悪な、人を名乗るのもおこがましい生き物――。
仲間割れか。それとも、探られていると知り、証拠隠滅として全ての罪を右大臣になすりつけたかったのか。
理由は定かではないが、王が協力者だった右大臣を屠った。その罪を、花夏目家推薦の世話見習いに着せて、とっとと殺してしまう。
今日のところは、そんな計画だったのだろう。
今回ばかりは、ナルも軽率過ぎたといえる。
思えば、王がナルを選定にきたときから、おかしかった。王自ら来たのもそうだが、やけに花夏目家にこだわっていたように思う。
(時次郎さんの名前も出してたし……何かあるのかも)
逡巡したあと、首を横に振る。
考えても仕方がない、改めてヤコに聞くことにして、花夏目家のことは思考からおいやった。
「ですが、シンジュ様。愚王とはいえ、相手は正当な王位継承を持って王となった者。追い落とすには根回しに時間を要します。……何より、神殿が厄介です」
だからこそ、右大臣は自分の犯行を偽装することもほとんどなかった。ピッタが隠していた通行証もそうだ。ナルならば、どうしても通行証が必要になったとしても、不正に加担して己の名を貸すのならば、必ず通行証の処分を信頼できる部下に任せる。
あえてそれをしなくてもいいほど、右大臣は地位を確固たるものにしていたのだ。
愚かな傀儡を演じている分、王のほうが知的なのかもしれない。
王が黒幕となれば、まずは二大勢力である神殿側の情報収集からしなければ――。
「問題ない」
「……は?」
「神殿は、すでに手中だ」
「へい?」
奇妙な声が漏れた。
シンジュが露骨なため息をつくと、ナルの額を指でつっついた。
「お前は」
つんっ。
「やることが」
つんっ。
「遅い!」
つつつつんっ!
「結構痛いです!」
「わざとだ!」
「でもっ、神殿を手中ってどういうことですか。意味がわかりませんよっ」
「今回の件、右大臣を調べると、『誰かの指示』で動いているのがわかった。もっともその『誰か』とは互いに利用しているような関係のようでな。それが可能な相手となれば、この国の王しかいない。こうして情報収集の幅を絞った」
「情報収集って、風花国でですか!?」
サトミでも不可能だと言っていたのに、どうやって。
「あいにく、こちらにはシルヴェナド家を崩壊させてすぐに動かした手駒がいる。安易な潜入で情報を得られるほど、風花国の警備は軽くない。とはいえ、潜伏させて半年ほどで黒幕までたどり着けたのは、やはりあいつの腕がいいからだろうな」
「まさか、刑部省の者を異国に潜入させたんですか!? 治外法権ですよ!」
万が一知られたら、外交問題に発展しかねない。
いつだったか、フェイロンもそのことを危惧して、毒に関して黙っているようナルに進言したはずだ。
なのに。
「それがどうした。そもそも、他の誰に言われるまでもなく、とっくに他国へ潜伏させていた」
しれっ、と爆弾発言が飛び出す。
(ぐっ、なんか……そっちのほうが、シンジュ様っぽいかも)
どうやらナルは、シンジュに関して完全に読み違えていたようだ。
シンジュは手柄が欲しいというタイプではないが、己の目的のためならば道理から外れもするし、長官という立場を利用もするのだろう。
もとよりシンジュは、ルルフェウスの戦いについて調べていた。
いつどのタイミングで右大臣の件を知ったのかわからないが、『ユーリシアの御使い』と名付けた謎の組織――つまるところ、ルルフェウスの戦いを煽った第三者の解明及び捕縛に、力を注いでいることはナルも知っていたはずなのに。
(だったら、私が風花国へ行くって言いだしたとき、一言くらいくれてもよかったんじゃない!?)
「ナル」
「……はい」
ふてくされていると、腕のなかに閉じこめられた。
いきなり抱きしめられて、驚きと緊張で胸がバクバクと鳴った。
「私では、王を追い落とすための大義名分を見つけられぬ。私がなんのために、お前をあっさり風花国へ向かわせたと思っている?」
「それは――」
これまでの、そして今日のシンジュの言動を繋ぎ合わせれば、答えはすぐに出た。
「――ルルフェウスの戦いの際、使われた夢蜘蛛。あの毒に関して情報を掴み確固たる証拠とし、大義名分を得て、黒幕である風花国の王を引きずり下ろすため、です」
「まさしくだな。それで、成果は」
「ございます」
後宮で受け取った一枚目の手紙に、サトミが夢蜘蛛の経路について全貌を掴んだという報告があった。
それだけではない。アレクサンダーとリンがピッタたちを調べに向かった先で、近隣に十年以上前に『流行り病で焼かれた村』があると知り、調べたところ、夢蜘蛛の実験が行われたと思しき痕跡を見つけた。
数十年前に神殿を離れた神殿関係者が、ひそかに暮らしていた村だったという。
王と右大臣は、彼らをモルモットのように実験体にして、夢蜘蛛の効果や広がりかたを実験したのだ。
それらを端的に報告すると、シンジュは再会後初めて、満足そうに微笑んだ。
腕の中のナルを抱きしめて、背中を軽く撫でる。
ふわ、と胸の奥が軽くなり、シンジュにしがみついた。
やっぱり、シンジュはヒーローだ。
ナルにとって、最愛最高の夫である。
「もうじき、長らく骨を折った此度の件も、片がつく。くくくっ、特等席で、この世を我が物と驕る下劣な豚が失墜するところを、見てやろう」
(……ヒーロー……うーん)
発言はどう聞いても、魔王のそれだった。
評価、閲覧、ありがとうございます!
ここ何話か説明ターンだったので、今回は駆け足でした。
やっとシンジュと再会しました。
(魔王=シンジュです、サブタイトル酷い。。)