第二幕 第二章 【3】 温泉街 ~危うさの自覚~
「お待ちしておりましたわ、ナル」
ベルガン地方、ベルガン公爵の屋敷へつくと、ベロニアが出迎えてくれた。
今日は、ナルがお忍びということで、新たにベルガン公爵となったレガー・ベルガンは、ベルガン地方中心地にある、前ベルガン公爵の館にいる。
爵位を継いでからは、温泉街の統治を娘であるベロニアと、長年この地を治めてきた部下たち、それから地元で暮らす商人連盟に名を連ねる者たちの協力を得て、観光地を治めているとのことだ。
それは、レガーがこれまで築き上げてきた信頼や手腕による信用があるからこそ成せることだ。
「今だけお父様がお戻りになると邪推する者がいるかもしれませんので、あえて来させませんでした。本人は出迎えたいと申していたのですが……ご無礼をお許しくださいませ」
「無理を言ったのはこちらだもの」
ナルは、苦笑を浮かべて首をふる。
現ベルガン公爵の多忙さは、情報の一つとして聞いていた。
前任が、罪人として王族に言及されたのちの自害、という末路だったため、これまで良心的だった貴族の中でも、手のひらを翻した者が大勢いるときく。
前ベルガン公爵が、善良な貴族として有名だっただけに、落差が大きいのだ。
まだベルガン公爵が代替わりして二か月弱だが、前ベルガン公爵と繋がりのある者たちに相応の罰が下ったため、人不足ながらも、反発する者は少ないというのが、せめてもの救いだ。
(それにしても)
ナルに微笑むベロニアは、以前にも増して美しくなった。
ふわふわとしたお嬢様のあどけなさが消え、出来る女の風格がそこはかとなく漂っている。
孤児院や福祉関係の後任についたベロニアも、かなり苦労しているのだろう。
ボランティアに等しい他者への施しは、ナルには出来ないことだ。孤児院の運営などは、人の命を抱え込むことに等しい。簡単にできることではない。
「滞在期間なのですが、一泊でよかったかしら?」
「ええ」
「うふふ、とっておきの場所を用意致しましてよ?」
ベルガン地方への滞在は、一晩だけ。
もし、ここまで暗殺者が追ってくるのであれば、敵は徹底的にナルの行動を調べていることになる。
ただの療養ではないと最初から情報を得ていたのなら、国境を超える手前がもっとも警戒するべき場所だ。
意識が隣国へ向く今、意識せずとも油断してしまうのが国境の手前である。あと少しと気が緩む場合もあり、敵がもっとも奇襲をかけてくる可能性が高くなる。
事前に準備できることは終えているため、残りの手続きも、明日には出来るだろう。
ナルたちは、一泊でベルガン地方を発つ予定になっていた。
ベロニアの案内で向かったのは、温泉街にある、いかにも老舗といった清潔感あふれる旅館だった。
ここからは新しい馬車を雇い、国境を超える手筈になっているので、長旅に役立ってくれた馬車とはここでお別れだ。
馬車を見送り、ベロニアに案内されて旅館に入る。
もてなすために羽織を着た者が出迎えてくれて、手続きもなく、すぐに部屋へ案内された。
先に、アレクサンダーとジーンが部屋の確認を行い、怪しいところがないか確認してから、部屋に入る。ベロニアに失礼かと思ったナルだったが、ベロニアは「警戒するのは当然ですわ」と、気遣うナルに驚いた様子をみせた。
そういえば、ベロニアは今日、護衛を連れている。
以前は一人で屋敷を出ることもあった彼女だが、立場が変わり、危うい目にもあってきたのだろう。
大変な役目を押しつけてしまったと思う。
思うだけで、後悔もしないし申し訳なくも思わないのだけれど。
そもそも領地を治めることは貴族の義務だし、前ベルガン公爵に悪事を許してしまったことは、身内である彼らの責任でもあるのだから。
部屋に入ると、香を焚きしめたよい香りがした。
上品かつ自然な香りに癒されながら、部屋に入る。まず右手側に侍従の待機部屋があり、その前を通り過ぎると、十畳の居間があった。
畳の敷かれた和室で、座敷といった風体のよくある旅館スタイルだ。
わぁ、とナルは瞳を煌めかせた。
(畳がある! 土足だけど!)
ゆったりとした時間を堪能できる、静謐な作りの座敷にあがり、そっと、畳に触れた。
「これ、藺草じゃなくて、絵……?」
「まぁ、ナルは藺草をご存じですの?」
慌てて口を押さえた。
あちらとこちらでは言葉が違うはずなのに、なぜか「藺草」が通じてしまった。まさか、双方の世界で同じ呼び名のものがあったなんて。
ナルの様子をどう受け取ったのか、ベロニアは満足げにうなづくと話を続けた。
「ここは、モーレスロウ王国ですから、座敷文化はあちらほど浸透していないのです。ですが、雰囲気を好まれるお客様も多く、靴のまま歩けるよう、畳風の床にしておりますの」
「なるほど。本物の畳の上を土足で歩かせるわけにはいきませんからね。それにしても、ぱっと見た感じ、どうみても畳です。香りがしないので、本物ではないとわかりますが、それ以外だと触れてみないとわかりませんね」
感心したシロウの言葉に、ベロニアは頬を緩めて、さらに隣の部屋へ障子をひらいた。
「こちらが寝室ですわ」
大きなベッドが二つ置いてある寝室は、和風モダンな、ベッドタイプの和室だった。
ランプの明かりが橙色のぬくもりあるもので、枕元には、利便性のよい枕台がある。衣装棚や化粧台、ソファや机まであり、当然のようにアメニティグッズがあちこちに見られた。
高級感溢れているのに、格式張っていないところもいい。
気軽に使える程度には、馴染みのある作りだ。
(わぁ、社員旅行のときに泊まった、ちょっとお高い旅館みたい)
日本基準でちょっとお高い旅館は、この国では珍しく、超高級に分類される。
文化そのものが違うのだから、ここまで和風テイストを取り入れた空間は、温泉街でもかなり稀有なはずだ。
「そしてこちらが、浴室ですの」
次にベロニアが案内したのは、居間から続く脱衣所と内風呂だった。
室内にある浴場にも関わらず、畳十五畳分ほどの広さがある。
片側の壁はガラス張りになっていて、風流な庭を見ることができた。灯篭や松の木、鯉が泳ぐ池が、落ち着いた雰囲気をかもし、ゆったりとした気分にさせてくれる。
ここまでくると、一泊の値段が恐ろしくなってくる。
とんでもない部屋を用意させてしまったのかもしれない。
「素晴らしい! こちらは、源泉をひいているのですね」
湯に手をつけたシロウが、喜びに顔をあげた。
「この匂い、温度、肌触り、ぬくもり方。温泉を引き入れる宿屋が、モーレスロウ王国にもあったとは。わたくし、感激致しました」
シロウが、「ああ温泉、愛する温泉~」と鼻歌を歌い始める。
「柳花国は、そんなに温泉が有名なの?」
「はい、文化ですからね。当然、風花国にも温泉文化がありますよ」
「……確か、柳花国と風花国は元々、一つの国なんだっけね」
「その通りです、さすが我が君」
シロウはそわそわと湯気が昇る内風呂を見回し、使いたくてたまらない様子を見せる。
「せっかくだから、皆にも交代で入って貰うわ。これだけ素晴らしい内風呂があるんだし」
今回は安全最優先の旅なので、宿屋にある大浴場などは利用しないことにしている。
なので、使える温泉はここだけなのだ。
「よろしいのですか!?」
ぱっ、とシロウがナルを振り返った。
モーレスロウ王国へ来て結構な年月が経っているというし、祖国の文化が懐かしく、嬉しいのだろう。
シロウの笑顔に、ナルもつられて微笑んだ。
ナルは座敷で一息ついた。
同じ部屋にはアレクサンダーが、入り口のドア付近ではリンが、護衛として待機している。
極秘での待機のため、今回、ドアの外に見張りを置くのを止めた。
以前のように一人だけ警備に立たせるには、危険な状況だし、外に警備を置くならば護衛二人を同時に置く必要がある。
そうなれば、ナルの傍に護衛騎士がいなくなってしまううえに、二人の護衛騎士の負担がかかりすぎるのだ。
ゆえに、入り口付近と、ナルの傍にそれぞれ待機して貰っているのだが、騎士が二人もいてくれると心強いものだ。
ちなみに、ジーンは部屋の安全を確認して早々、王都へ連絡を取ると言って出て行った。
シロウは内風呂から出てこないまま、ベロニアと何やら熱のこもった「温泉話」をしている。
(わざわざ内風呂でしなくても……湯気で暑いでしょうに)
そんな心配をしていると、ベロニアが内風呂から出てきた。
湯気のこもった部屋にいたものだから、少しだけ頬が赤くなっている。
「ベロニア、なんだか暑そう――」
「ナル、わたくしが間違っておりましたわ!」
「……え?」
興奮冷めやらぬ様子で、ベロニアは願うように両手を組む。
「すぐに準備に取り掛かるわ、安心してちょうだい。皆優秀ですもの」
「待って、なんの話をしてるの?」
「勿論、温泉ですわ」
ベロニアは、すっと令嬢らしい笑みに戻ると、令嬢らしい優雅な足取りで部屋を出て行った。
客室の前で待たせていたベロニアの護衛が、「急ぎですか!?」と驚いた声をあげている。
なぜか嫌な予感がして、ベロニアに続いて内風呂から出てきたシロウへ視線を向ける
「なんの話をしてたの?」
「温泉の素晴らしさについて語っておりました。我が君も、柳花国の文化に詳しいご様子。ぜひとも、語りましょう」
「……あ、あんまり詳しくないかな、行ったことないし」
「そうなのですか? 藺草をご存じでしたように思いましたが」
「きょ、興味があるの。他国の文化について。シロウから聞きたいんだけど、いい?」
「勿論です!」
シロウは、柳花国特有の文化について話し始めた。
聞いている限りかなり日本文化に近いようだ。
ふんふん、と「瓦屋根の家があり、庭で盆栽を育てる人もいる」という話を聞いていたとき、ベロニアが戻ってきた。
彼女はなぜか、突貫工事のオジサン軍団のような人々を連れている。
そしてそのまま、集団で内風呂へ入って行った。
(……何ごと?)
シロウはベロニアの存在や行動に一切頓着せず、話を続けている。
アレクサンダーは任務中ゆえに見ないふりを決め込むことにしたようで、リンは真面目に「仕事中」という姿勢だ。
ナルは、ちらちらと、ベロニアが連れてきたオジサンたちが出入りする様子を眺めつつ、シロウの話を聞くけれど、話が頭に入ってこない。
「……我が君。柳花国へ渡ったあと、都へは寄らず、可能な限り安全な旅路で次の目的地へ向かう予定なのですが。『宵衣』という地域で、一泊致します」
「それなら、出立前の予定調整のときに聞いたけれど?」
「段取りはすべてお伝え致しました。……もう一つ。叔父上は言わなくてよいと仰いましたが」
「……シンジュ様が?」
シンジュが必要ないと決めたことを、聞いてもいいのだろうか。
ナルが何かを言う前に、シロウが口を開いた。
「一泊する屋敷は、叔父上が幼少期を過ごされた屋敷なのです」
「え!?」
それは、かなり興味がある。
けれど。
むむむ、と悩むナルを見たシロウが、ふと、真面目な顔をした。
元精鋭隊副官として働いていた姿を彷彿とさせる――つまり、これはただの雑談ではないということ。
「……シロウは私が知っておく必要がある、って判断したのね」
シロウは、目を眇めて嬉しそうに頷いた。
「さすが我が君。叔父上のように、感情で動かない貴女は、わたくしにとって至上の主です」
「……私、かなり感情的だと思うけど」
「叔父上のおっしゃる甘いと、わたくしの考える甘いは、別物ですゆえ」
「終わりましたわ」
そこへ、ベロニアが内風呂から戻ってきた。
しっとり汗ばんでいるが、振る舞いは優雅なままだ。
シロウはすぐに水を用意しようとしたが、ベロニアはそれをやんわりと断り、帰宅せねばならないと帰って行った。
当然ながら、工事のオジサンたちも一緒に帰っていく。
(……何が起きたの?)
「ただいま戻りました……何か、いかつい男集団及びベロニア様とすれ違ったんですけど、なんですかアレ」
客室へ戻ってきたジーンは、なんともいえない顰めた顔でそう言った。
「……わかんない。内風呂を工事してたんじゃないかな。どこか壊れてたのかも」
「今ですか? ふむ、でしたらもう一度、安全を確認してきましょう」
ジーンが肩をすくめて、内風呂へと向かう。
もう一度、ということは、最初に確認した際、ジーンが内風呂を調べたのだろう。
ジーンならば、僅かな変化にも気づくだろうし、不審な部分も見つけてくれる。
シロウが夕食の支度を始めて(今日は娯楽のための宿泊ではないので、安全配慮のために食事は持参なのだ)、ナルは二杯目の紅茶をゆったりと嗜んだ。
「あら、おかえりなさい。時間がかかったのね」
戻ってきたジーンは、軽く肩を竦めた。
「変化がありすぎて、念入りに調べる必要があったので」
「変化がありすぎて?」
「内風呂が、混浴仕様になってますよ」
「……は?」
意味が分からずに、ナル自ら内風呂を見に行く。
(え)
広い風呂の真ん中に、仕切りが出来ていた。
仕切りは出入り口まで続いており、出入り口部分の仕切りだけ開閉式になっている。
ドアを開いた状態で脱衣所へ行くとき、仕切りの向こう側にいる者からは姿が見えないようになっているようだ。
「……混浴っていうか、隣接してる? いや、湯舟の真ん中に仕切りがあるんだから、混浴に変わりないか」
一つの風呂を仲良く半分こしている状態になっている。
「これは素晴らしい! これこそ、温泉の原点にして至高! やや見目が理想と違いますが、まさしく温泉に相応しい姿になりましたね」
後ろから覗き込んできたシロウの言葉に、ナルはギロリとシロウを睨みつけた。
「どういうことよ!?」
「先程、ベロニア嬢へ温泉の歴史についてお話したのです。本来の柳花国では、温泉は男女共に入るものだと。困惑されておられましたが、今日、我が君が一人で入浴される危険性および全員で混浴する際の安全性について、お話させて頂いた次第です」
(……意味がわからない)
シロウいわく、最小限の護衛と侍女しかいない状態なのに、交代で湯を与えるのは危険とのこと。
だが、混浴として、部屋の奥にある浴室に全員で入れば問題ないというのだ。
強引すぎる説明に、言い返そうとしたところに。
「おや、交代で使うことになったんですか?」
ジーンが、顎に手を当てて難しい顔をした。
途端にナルは、何かいけないことをしてしまったのかと不安になった。
「駄目だった?」
「シロウ殿のおっしゃる通り、皆で使うほうが安全性は高まりますねぇ」
「なんでよ!?」
「二人一組が護衛の基本ですから。一人で護衛させておくなど、不安で仕方ありませんよ」
あ、とナルは声をあげる。
以前と違って、今は命を狙われているのだ。
アレクサンダーが風呂に浸かるとなると、その間、リンがドアの近くで守衛のように立つことになる。ナルはフリーになるし、リンが倒された場合、それを知らせる者もいない。
気づいたら部屋の奥まで侵入されていた、しかも護衛もいない、という状況になりかねないのだ。
シロウは侍女で護衛ではないし、ジーンも文官として付き添っているだけなので、護衛任務は仕事外だ。……ナルは二人とも戦えることを知っているけれど、仕事外のことまでやらせるつもりはない。
(……これは、結構、軽率だった……かも)
命を本格的に狙われる、という事実を軽く見ていたのかもしれない。
シロウやジーンは、念には念を入れて、石橋をたたきまくって安全を確認してくれているのに。
「……僭越ながら、発言してもよろしいでしょうか」
「どうぞ、アレク」
「俺、風呂は別にいいですよ。リンも仕事を優先させ――」
「笑止!」
シロウが、これ以上ないほど侮蔑を露わにした顔で、アレクサンダーを睨んだ。
「我が君の、我らを気遣ってくださったお言葉を否定するのですか。あなたはなんて傲慢なのです、身の程を弁えなさい!」
「はぁ?」
「それに、これは我が君のご厚意を最上級のもてなし且つ安全に遂行できるよう、多忙を極めるベロニア嬢が整えてくださったのですよ。もてなして頂く側として、精一杯堪能し、どれだけ機能的且つ利便性に長けていたか、報告させていただく――これこそが、我らの義務ではございませんか!」
ナルは、ジーンを見上げた。
肩をすくめて、「その通りです」と仕草で示してみせる。
ナルは、そっと息をつく。
遊びではないのに、豪華な内風呂を見て浮かれてしまったことは否めない。
ベロニアの手まで煩わせて、使いませんでしたで許されるはずもなかった。
「まぁ、いいんじゃないですか。あなたがこうして、自分の立場を改めて知る機会を得たと思えば」
「ごめんなさい、軽率だったわ」
「それを補佐するのが、私の仕事ですからねぇ。問題ありませんよ」
ジーンはそう言ってくれるけれど。
恍惚とした顔で内風呂を眺めるシロウと、何かを堪えるよう顔をしかめるアレクサンダーを見る限り、なんだか面倒なことになりそうだった。
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次回、国境を越えて隣国へ。