6、できる男
これほどまでにゆったり過ごしたのは、久しぶりだ。
シンジュは、仕事着である漆黒の詰襟服に袖を通す。大きく折り返した袖口に、白銀の糸で、精緻だがシンプルな模様が描かれている以外は、左程目立った模様もない。
胸元には、長官の地位を表す月の形をしたピンバッジをつける。
色は、濃い赤。
刑部省の長官にのみ許された、身分を証明する「月の濃赤」ピンバッジだ。
ふと、奥の部屋からノックが聞こえた。
「開けますよ?」
「ああ」
夜着からドレスに着替えたナルが、シンジュの姿を見て目を見張り――そして、キラキラと瞳を輝かせた。
「旦那様、格好いいです!」
「そうか」
「出来る上司、ここに極まれり、ですね」
「出来るから今の地位にいる」
「そういう、謙遜がないところも、素敵です!」
「……お前の基準がわからん」
この二日間で、ナルがシンジュを異性として意識していないことはよくわかった。時折、頬を染めたり、うふふ、と少女のように微笑んだりするが、それはシンジュと「誰か」を重ねているようで、シンジュに対してではないようだ。
下手に惚れられても困るため、シンジュは今のナルに満足している。
このままシンジュの思惑通り「使える」ことがわかれば、望み通り、残党ホイホイに使ってやろう。
ふと、ナルが近づいてきて、シンジュの胸元に手を置いた。
シンジュは一瞬、縋られるのかと思った。
両手を男の胸に置き、そっと身を寄せて、自分が愛らしいとアピールする角度で見上げてくる――女とは、そうやって男の気を引く生き物だ。
ナルは、シンジュの胸に光るブローチの角度を整えて、表面を懐から出した生地でふき取る。そして、シンジュの袖の折り返しを両方確認して、次に詰襟に触れた。
「あ。髪がひと房、上着の中に入ってますよ」
「……どこだ。ああ。確かに」
ひとまとめに結んだつもりだったが、さらい残しがあったらしい。
普段ならありえない凡ミスだが、二日間、怠惰ともいえる余暇を過ごしたことで、高官という立場意識が鈍くなっているようだ。
もっとも、シンジュがこんなミスを犯すのは、この部屋でくらいだ。
屋敷を出るころには、すっかり意識が切り変わる。
改めて髪を結び終えると、ふと、ナルがじっとシンジュを見ていることに気づいた。
あのキラキラした目をしている。
嫌な予感がした。
「……なんだ?」
「髪を結ぶときに、少し俯き加減になる旦那様は、とても色っぽいですね! 不機嫌そうな顔もあいまって、『ったく、仕方ねぇ手伝ってやるよ』って残業中に言われたいです!」
「お前は残業をなんだと思っている」
思考が鈍くなっているのは、どうやらシンジュだけではないらしい。
ナルもまた、この二日ですっかりシンジュに慣れたようだ。最初は、発言一つ一つに気をつけていた彼女も今では、さらさらと話すようになった。
(まるで、残業の経験があるような口ぶりだ)
どこかで働いていた経験があるのだろうか、と考えてすぐに否定した。
彼女の実家は、レイヴェンナー侯爵家ほど身分は高くはないが、伯爵家のなかでも圧倒的歴史と資産を誇っていたのだ。
そのシルヴェナド家の一人娘が、どこかで働くなど考えられない。
この娘には、まだまだ秘密があるようだ。
ふ、と口の端をつり上げて笑う。
「あ、旦那様の今の笑顔!」
ナルはまだ、キラキラとした瞳をしていた。
激しく、本当に激しく、嫌な予感がした。
「なんだか、『残業を手伝っていた上司が、部下が女性だということを改めて認識して、エロいことを考えたような悪い顔』でした!」
「くだらん例えをするな。長いわ」
朝食をすませると、いつも通り、玄関ドアに横づけされた馬車へ向かう。
何気なく馬車に乗り込もうとして、馬車の前で足を止めると、一度振り返った。腰に差した家紋いりの房が、さらっと揺れる。
「――っ」
シンジュは、僅かに目を見張る。
親しい者が見れば、シンジュの驚きが相当なものであることがわかるだろうが、あいにく、ここにはシンジュの内面を見通すほど親しい者はいない。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
ドレスの端をもち、優雅に膝を折るナルがいた。
先ほどまでの、頭のおかしい発言からは想像もできない、淑女のそれだ。
「ああ。留守を頼む」
「かしこまりました。どうか、お体に気をつけて。ご無理をなさいませんよう」
そう言って顔をあげたナルは、仮面を貼り付けたような笑みを浮かべていた。
シンジュが馬車に乗り込むと、すぐに動き始める。
馬車が屋敷の門を出たころ、馬車のなかで待っていた秘書のブッシュが、口をひらいた。
「おはようございます、旦那様。随分とよくできた奥方様ですねぇ。私も、あんな繊細な笑みで見送ってもらいたいです。優しい笑顔ですねぇ」
「……そう見えるか」
「そりゃもう。命を救ってもらった旦那様に恩義を感じてるんでしょうね。ジザリからの報告書を見たときは、どんな変人だと思いましたけど。やはり、ジザリの報告書に不備があったのですね」
「そのようだ」
(変人という点では、ある意味で間違ってはいないが)
ふ、と鼻で笑ったとき。
「あ、旦那様。今、初夜を思い出してましたね? なんだか、いやらしい笑い方でしたよ~」
とブッシュに言われて、思わず顎に手をやる。
黙り込んだシンジュに、ブッシュが首を傾げて、付け加えた。
「あの、冗談ですよ?」
「わかっている」
とはいえ、この短時間に二度も似たようなことを言われてしまった。
(忘れよう。あの娘と、ブッシュの冗談だ。真に受けるほうがどうかしている)
シンジュは頭の中を仕事に切り替える。
今日からまた、慌ただしい日々が始まるのだから。
***
「奥方様、本日のご予定はございませんが、どのように過ごされますか」
部屋――だと思っていた夫婦の寝室――に戻ってきたナルは、ソファに座るなりカシアに聞かれた。
「お出かけでしたら、私の手で改めてドレスアップをさせて頂きますが」
「え、この姿酷い?」
「シンプルなのもよろしいですが、外出となると、奥方様の威厳というものも必要かと」
「ああ、そういう。大丈夫、出かける予定はないから」
てっきり、「一人でやらせたら何もできないのねアンタ!」と言われているのかと思ってしまった。
(いかんいかん、被害妄想になってる私。……よし!)
「ねぇ、カシア。私もシンジュ様の妻として、屋敷のことを知っておきたいの。ジザリと会えるかしら」
「この時間でしたら、ジザリ様はお部屋におられます。お呼び致しましょう」
「いいわ、私が行く。場所もわかるし」
言うなり立ち上がったナルに、カシアはやや驚いたような顔をした。だがすぐに、ナルの斜め後ろに付き従う。
「あ、そうだ。カシアにお使いをお願いしたいんだけど」
「必要なものがございましたら、使いをやりましょう」
「今度、旦那様が帰宅されたときに、サプライズをしたくて。カシアに、お願いしたいの」
カシアは何か言いたげに、可愛い眉をきゅっと寄せた。
初めて、カシアの無表情が露骨に壊れた瞬間だったが、カシアは「かしこまりました」と頭をさげる。
ナルは、必要なものをいくつか伝えて、カシアが歩いていくのを見届けてから、ジザリの部屋へ向かった。
今更だが、カシアも妙齢の女性である。
ナルと同じくらいの年齢だろうか。
(そういえば、カシアについて何も知らないな。歳もだし、既婚者か独身かも知らない)
屋敷内のことを把握するために、使用人それぞれの情報を頭に叩き込まねば。
幸い、実家にも多くの使用人がいたため、覚え方のコツは理解している。職種をいくつかのエリアに分けて、エリアごとに覚えていけばいいのだ。
(っと、ここがジザリの部屋だっけ)
本館にある使用人の自室は、執事部屋のみだ。
ほかの使用人たちは、離れに宿舎があるので、そこで住込みとして暮らしているという。
それを考えると、やはり執事という立場は特別なのだ。
特別だからこそ、与えることで相手を悦ばせる餌にもなる。内側に危険分子を抱え込む様なものだが、実行してしまう辺りに、シンジュの狡猾さが現れていた。
(なんか、ジザリに親近感がわいてきた)
ふ、と自嘲的に笑って、ドアをノックする。
返事はない。
改めてノックするが、やはり、返事はなかった。
(留守かな)
不在かどうかだけ確かめようと、ドアをひらく。
プライバシーに極力踏み込まないように、人物だけを探す――つもり、だった。
(ひっ)
ジザリがいた。
いた、けれど。
(ひいいいいいいいっ!)
ジザリは脚立に立って、自分の首に縄を通していた。
縄は天井のフックに吊ってあり、あとは本人が脚立を蹴れば、ぶらんぶらんだ。
「本当に私は駄目だ、駄目人間だ。生きている価値もない。産んでくれたお母さん、すみません。さようなら」
ジザリが脚立を蹴った。
ほぼ同時にナルも床を蹴る。
「ばかかああああっ」
止めさせようと、ジザリの足にしがみついた。
勢いあまって、そのまま転びそうになったために、ジザリの身体を引っ張る形になる。
「ぐふああっ」
奇妙な声が聞こえたと思った瞬間、縄が切れて、ジザリが落下する。ナルはすぐに体勢を入れ替えて、ジザリを受け止めたまま床に転がった。
ぎりぎり強打は免れた。
(し、師匠のもとで武術を学んでおいてよかった……何事も、経験だわ)
ほっとしてジザリを見ると、赤子のように丸まって両手で顔を隠していた。
そして。
「……死ぬかと思った」
と、ジザリが呟いた。
「死ぬつもりじゃなかったの⁉」
「死ぬつもりでした。出来なかった今、改めて死への恐怖に包まれています。怖かった」
ぐす、と。
鼻をすする音がして、ナルはさっと辺りを見回す。
転がる脚立、ちぎれた縄、赤子のように転がる執事。
ほかに誰もいない。
ということは、この女々しい「しくしくしく」という泣き声は、ジザリのものか。
ナルはため息をついて、ハンカチを渡した。
「まず、顔を拭いて」
「見ないでください。どうか、奥様」
しくしくしくしく。
心なしか、部屋がどんよりとしている。
窓の外は晴れているのに。
(まさか、無表情の下は、ネガティブ男子だったなんて)
なんとなく、本当になんとなくだが、ジザリの問題点がわかった気がした。
ナルはドアをしめてから、椅子に座った。
床に転がったままのジザリをぼうっと眺めながら、考える。
シンジュは、ジザリの後見人を斬首したといった。最近、処刑が行われたのはシルヴェナド家関係がほとんどだ。なかには別の理由で処刑された者もいるだろうが、そういった話は表には出てこないため、ナルは知らない。
「ねぇ、ジザリ。聞きたいんだけど」
「は、はい。なんでしょう」
少し回復してきたらしいジザリは、さすがに寝転がったままでは失礼だと思い至ったようで、慌てて身体を起こした。
床に正座して、顔をあげた頃には、いつもの無表情に戻っている。
「お見苦しいところをお見せ致しました。申し訳ございません。お怪我はございませんか」
「いや、もう、見苦しいとかいうレベルじゃなかったから。口から軽く心臓が飛び出したからね」
(落ち着いて、私。それより、早く話をしないと)
「ねぇ、ジザリ……ジザリの後見人って亡くなったのよね」
自分でも唐突すぎる自覚はあった。
ジザリは驚いた顔をしたまま、動きを止めてしまう。
それでもナルは、話を進める。
「それって、先のシルヴェナド家関係の理由?」
「……はい」
「そう。だったら、私のこと恨んでるわよね」
ジザリの後見人がどれほど悪事に加担していたかは知らない。
だが、
「大切な後見人が処刑されたのに、どうしてシルヴェナド家の長女が生きているんだ」
と思うのが自然だろう。
「私が、奥様を? なぜです? 私が、何か致しましたか?」
「何もされてないから、今確認してるの。私のこと、恨んでるわよね?」
「いいえ、まったく」
ジザリは無表情を崩して、心底意味がわからないというような表情をした。
そして、ジザリはふと、視線をさげる。
「……先ほどの件でしたら、自分が惨めで生きているのが辛くなったのです。私の後見人は、死にました。私には後ろ盾が無くなってしまったのです。近々、執事の職を解雇されるでしょう」
「どうしてそう思うの」
「旦那様は、私ではなく、私の後見人が気になっておられるご様子でしたので」
へにょり、と眉をさげるジザリからは、すっかり無表情の仮面が脱げていた。
そんなジザリを見て、ナルは笑う。
「いいじゃない、その感じ。無表情よりよっぽど好きよ」
「すっ」
がばっ、と顔をあげたジザリの頬がほんのりと赤い。
「この屋敷では無表情の使用人が多い、ってか、皆無表情だけど。そういう決まりがあるの?」
「い、いいえ。旦那様が無駄を嫌われる方ですので、会話を最小限に抑えた結果、このような振る舞いをしております」
「ああ、なるほど」
不必要なことを聞かされたり問われたりしたシンジュが、不機嫌を露わに一瞥し、使用人を黙らせる姿が思い浮かぶ。
「旦那様の前ではそれでいいと思うけど。私は、そうやって皆が表情をみせるのって、無駄だと思わないから」
ナルは、ジザリを執事らしくなるよう助言しようと思ってここにきた。
ナルにとって、ジザリはほとんど関わったことのない、無表情で寡黙な執事、という印象だったが、彼が「できる男」であることは知っている。
だから、いくつか助言をするだけでも、大きく変わると踏んだのだ。
ナルは、胸中で自嘲した。
シンジュの妻として、屋敷を統括する奥方として、やるべきこと。
それは、口だけの助言ではない。むしろ、自己肯定感の低いジザリに助言をすれば、逆効果になる可能性だってある。
「ねぇ、ジザリ。私も、旦那様の妻として屋敷のことを知っておきたいの。使用人について教えてくれない?」
「使用人、ですか」
「そう。屋敷で暮らしている使用人について、報告書としてまとめてほしいの」
「かしこまりました」
背筋を伸ばし、再び執事モードになったジザリににっこりと微笑んで、ナルは部屋を見回した。壁際の本棚に、所せましと「執事のなんたるか系」の本が並んでいる。
「すごく勉強してるのねぇ」
「すみません、自分は経験が浅いものでして」
「どれも高そうな本ばかりじゃない。給料そんなに貰ってるの?」
「九割は自学に使用しています」
(え、それって本代とか、そういう?)
ナルは、ちら、とジザリを見た。
「ちなみに、貯金はある?」
「ございません」
「わぁ、清々しいほどきっぱりと言い切った」
ナルは立ち上がると、本棚に並ぶ本を何冊か取り出した。
「奥様?」
「手伝って」
「はい。あの、私の本をどうなさるおつもりで……?」
「こっちは、図書館へ寄贈して。残りはうっぱらうの」
衝撃のあまり固まるジザリを見返して、ナルは胸中でため息をつく。
それから、真っ直ぐに向かい合った。
シンジュほどではないが、ジザリは背が高い。あまり長い間話していると、首が痛くなりそうだ。
「ねぇ、初日に私が品数を減らしてって言ったのは、どうしてだと思う?」
「朝食のことでしたら、勿体ないから、少なくするようにお命じになった……と記憶しております」
「同じ日に、私、初めて庭に出て花を見たんだけど。何をしていたか知ってる?」
「私が拝見したのは、奥様が花壇で花びらを引っ張っておられるところでしたが、おそらく、花びらを味見されていたのでは」
「……ふぅん」
「てっきり、食用の花々に興味がおありなのだろうと」
「うん、その通り」
ジザリは、なぜそんなことを聞かれるのだろう、という顔をしている。
ナルは思う、「あんたわかってんじゃないの‼」と。主観が入りすぎるのも困りものだが、今、ジザリが感じたことを報告書に少しでも書いていれば、相手に変な誤解を与えずに済むのに。
「あの、奥様……私が、何か」
「ちなみにさ。先週の中頃、昼食にグラタンが出たんだけど。あのメニューって、料理長が決めたの?」
「はい」
「食材のチョイスは?」
「料理長です」
「ジザリは、一切、口をはさんでない?」
ジザリは少しの間考えたのち。
「ミルクを牛ではなくヤギのものにするようにと。それから、春野菜のサラダに使用する野菜を、いくつか私が決めさせていただきました。あとは……食事中に飲まれる水をレモン水か林檎酒に変えるように、と伝えております」
「……出来るのよね、ジザリってほんと」
ナルは牛乳アレルギーだ。
よって、牛乳を使用したものを好まない。この屋敷へ来てから言っていないが、出されるたびに避けてきたことを、ジザリは観察によって理解していたのだろう。
好みの野菜や飲み物もそうだ。
しっかりと観察して、それを適切な相手に伝えることも出来ている。
ナルは、ふと、思い浮かんだことを聞いた。
「ねぇ。もしかしてジザリ、旦那様が、怖い?」
「い、いいえ! そんなことはっ、決して‼」
(……わかりやすいな、この人)
色々聞きたいことはあるけれど、とりあえず。
「本は、うっぱらうから」
「で、ですが、自分は未熟者でして」
「一読したんでしょ?」
「はい」
ナルは、ジザリが両手で抱える本の上に、どさっと追加で本を乗せる。
「だったら、もう手放してしまいましょう。基礎が出来てるジザリには、不要。むしろ足枷になるから」
ハウツー本は、まるで答えのように、様々なことが理由とともに載っている。
間違いではない。
だが、多方面から見ると、また別の答えを導き出すこともできる。
「考え方が偏ってしまうし、ジザリのいいところを無くしてしまうかもしれない」
「私の、いいところ……?」
「そう。だから、参考書は卒業!」
驚いた表情のジザリに気づいて、ナルは訝るようにジザリをみる。
ジザリは、はっと我に返ると。
頬を朱色にして、「かしこまりました」と呟いた。
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