第二幕 第二章 【2】 ベティエール②
まだ日が昇る前に、ベティエールは宿屋を出た。
また戻ってくるので、部屋はそのままだ。盗難防止に荷物だけは持っていくが、もとより微々たるものだった。
用意してきた酒と、昨日のうちに購入しておいた花を持ち、目的の場所を目指す。
街を出て、かつては皆が使用していた古道を通り、草を踏みしめてなだらかな傾斜をゆっくりと降りていく。
山をくだり、木々が乱立する不気味な森を歩いた。
年に一度とはいえ、通いなれた道だ。
しばらくすると、赤茶けた岩肌が現れる。
ベティエールは岩肌に手を当てると、上を見上げた。
この岩肌のうえに、かつて山を迂回して作られた古道がある。
馬車が一台通れるかどうかの広さで、時間帯によって一方通行となる道だった。雨や雨上がりの日は道がぬかるみ、崖から転落する可能性があるので使用してはいけないことになっていたのだが。
岩肌にそって歩けば、目指していた場所に辿り着いた。
少しだけ開けた場所で、大きな岩がごろごろしている。長い年月野ざらしにされた岩には苔が生えており、あちこちに散らばっている馬車の残骸は、傷んで朽ちていた。
最初にここへきてから、十年以上が経つ。
ここにあっただろう遺体は、当時の知り合いたちが、ベティエールが帰郷するまでに屋敷へ連れ帰ってくれていた。腐敗するために、略式の葬儀と埋葬をした彼らから、詳しい説明を聞いたベティエールは、ただ、ありがとうと答えたのだ。
いつものように、朽ちた馬車の傍にあった大岩のうえに、酒を置く。
その傍に花を供えた。
「……今年も、来ました、兄上」
そう言って、片膝をつく。
ここへくると、なぜ自分は生きているのだろうと考えてしまう。
父も兄もいないこの世界で、地位や身分も失ったこの世の中で、自分はなぜ、まだ生きているのだろうか、と。
「兄上は、家督を、継ぎたく、ないと、おっしゃって、いましたね」
これは独り言だ。
兄はもう、ここにはいない。
(私は、騎士になりたかった。……私たちはいつもお互いに譲り合ってきましたが、家督を請け負ってくださったのは兄上でした。私は望み通り、王都へ向かい、騎士学校へ通い、近衛として取り立てられました。すべて、兄上が取り計らってくださったからです)
ベティエールを猫可愛がりしていた父は、ベティエールが騎士になることを反対した。
それほど家督を継ぐのが嫌ならば、兄の補佐でも構わないから領地に残ってほしいとも言われた。
それでもベティエールは、どうしても騎士になりたくて、王都へ向かったのだ。
すべて、ベティエールの我儘だった。
使用人をはじめ街の者たちの中には誤解していた者も多いが、ベティエールが騎士になったのは、ベティエール自身の我儘にほかならない。
殺伐とした貴族家庭も多いなかで、ベティエールの父も兄も、とても温かかった。早くに母が他界したためか、お互いに協力的な一家だったと思う。
ふと苦笑する。
近衛騎士団に入ってからは、散々だった。
王子に「お前はなってないなぁ」と心底馬鹿にされ、王子のお気に入りだった文官に弟子入りさせられた。文官のくせにやたらと強く、ベティエールは武術や剣技だけではなく、あらゆる生き方をその文官から教わった。
おかげで、王子が王位に着くと同時に、近衛騎士団長に抜擢される名誉を賜った。
だが、その栄華は長く続かない。
後方支援として参加したルルフェウスの戦いにて、多くの平民を巻き込み近衛隊そのものが壊滅状態になり、ベティエールも重症の意識不明となった。
目が覚めたときには、すべてが終わっていた。
あっけないほどに、ベティエールは多くを失った。
近衛騎士団の壊滅。愛する父と兄家族の死亡。不自由な身体で、なんとか正式な辞任手続きをして、故郷に戻らなければという思いだけでリハビリに精を出した。
シンジュから、必ず戻るように使用人契約させられたあと帰宅して、やっとのこと、家族たちを弔った。
「――――私も、連れて行って、ほしい、兄上……」
そう呟いて、そっと目を閉じた。
思い出すのは、フェイロン主導で行われた奇妙な儀式の日に見た、白昼夢だ。
白昼夢のなかは、あの日の天気と同じ、雷雨だった。
ベティエールは『この場所』に立っていた。
足元には、ここ数年で腐敗が進んだはずの馬車の破片が、新しくなって落ちている。
そんな破片に塗れて、男が一人うつ伏せで倒れていた。
まさか、と思って駆けよれば、やはりそれは、兄だった。
痛ましい血まみれの顔で、何かを呟いている。
激しい雨音で何も聞こえないけれど、兄の口が小さく動いているのが見えた。
これはただの夢だ。
現実ではない。
そう思いながらも、ベティエールは兄の言葉を聞き取るために、耳を近づけた。
『ぁ』
「兄上」
もう少しで、聞こえる。
さらに身を寄せたとき。
『ベティ……』
兄の声が聞こえて、息を呑んだ。
「わ、私はここです、兄上!」
ベティエールは叫んだ。
白昼夢のなかにいるベティエールは、以前と同じ健康体だった。
活舌も滑らかで、鍛え抜かれた身体に力が入るのがわかる。
ベティエールはすぐさま兄を担ごうとしたけれど、兄に触れたくても身体をすり抜けてしまって触れなかった。
これは、夢なのだ。
そういえば、真冬の雨に打たれているのに、寒くない。
「兄上……兄上」
せめて言葉だけでも聞き逃すまいと、すぐ近くに顔を寄せて兄を呼ぶ。
『生きろ……ベティ』
微かに聞こえた兄の言葉に、こぼれんばかりに目を見張る。
死ぬ間際の兄が、こんなことを言うはずがない。
「兄上……」
『ベ、ティ――』
「兄上っ。兄上が生きてください。私よりも、兄上が!」
兄は、動かなくなった。
激しい雨に打ち付けられて、血まみれのまま、息絶えた。
おそらく、近くに兄の妻や子どもたちもいるだろう。
ベティエールが見ている白昼夢が、兄の事故があったあの日の現場ならば。
うるさい雨音を呆然と聞いているうちに、ベティエールは屋敷の大広間へ戻っていた。
ナルも白昼夢を見たそうだ。
ありえない白昼夢だった。
兄はベティエールを恨んでこそすれ、あのように生きることを願うはずがない。
ベティエールは、兄に家督を押しつけた。
好き放題生きて、実家にも帰らずに過ごした。
挙句、望んでなった近衛騎士として重体になり、兄が死ぬ原因をつくったのだ――。
ベティエールさえいなければ、兄はもっと有意義な人生を送れたのではないかと思わずにはいられない。
ビュオッ、と強い風が吹いて、そっと目を開いた。
身を切るような風に、着ていた外套の胸元を引き寄せる。
「……私も、連れて、行って、ほしい、と。毎年ここで、言って、いました。兄上、私はずっと、後悔、して……いました、から」
供えた酒をみる。
兄が好んだ酒だ。
「つい、この前、白昼夢、を見ました。兄上が、ここで、事切れた、ときの、現場に、私は、いました」
あの白昼夢が現実であっても。
偽物であっても。
もはや、どちらでも構わなかった。
ベティエールは、目を伏せる。
次に、顔をあげたとき――ベティエールの瞳からは、陰鬱な色が消えていた。
空がキラリと輝いた。
夜が明けて、差し込んだ朝日がベティエールを照らす。
薄暗かった辺りも陽の光に照らされて、殺伐とした印象しかなかった大地が、真冬にしては珍しく、苔や草花の多い一体であることを知る。
どこにでもある、ピンクの花が咲いていた。
どこにでもあるけれど、真冬の時期に森の中で育つはずがない。
何かにくっついて落ち、偶然ここで根を張って、広がったのだろう。
淡い陽光に照らされながら、目を眇める。
久しぶりに会ったフェイロンに、憐れむような目を向けられた。
確かに、憐れなのかもしれない。
だが、こうして自嘲できるだけいい。
もしベティエールがこのまま兄の元へ行けば、悲しむことがなくなるけれど、楽しいこともなくなってしまうのだ。
そんな当たり前のことに、今年になってようやく気づかされた。
「今年、出会い、が、ありました」
真っ直ぐに、未来を見据える少女と出会った。
小さな身体で、大きすぎる責任を背負って立っているその少女は、よく笑う。けれど本当は寂しくて辛くもあって、そんな姿をベティエールには見せてくれる。
弱みを見せれば、足を掬われかねない貴族社会で生きてきた彼女が、ベティエールに弱音を吐くということは、それだけ頼られているということだ。
――この信頼を裏切りたくない。
そう思ったとき、少しでもいい、遥か高みを望む彼女の力になろうと思った。
少し前の自分は、ここで朽ちてもよいと考えていた。
なのに、今のベティエールは、朽ちるどころか、現状に満足ができない我儘な男になっている。
このまま穏やかに余生を過ごすつもりだったのに、いつから、ナルが見つめる先を、自分も見てみたいと思うようになったのだろう。
ただの使用人のベティエールに向けてくる、不安そうな、心配そうな、すがるような、照れたような、信用しているというような、ナルの瞳はどれも真剣なのだ。
ナルが無邪気に慕ってくれることが、純粋に嬉しかった。
ふ、とベティエールは笑う。
犬をこっそり飼っていたのをナルに知られたとき、捨てられると思った。
けれど、ナルは犬を捨てず治療し、獣を嫌うシンジュを強引に説き伏せて、新しい飼い主をみつけてくれた。
捨てれば、すぐに片付いたのに。
ナルは、あえて遠回りをして面倒事を背負いこんだのだ。
シンジュからすれば、ナルは「甘い」のだろう。
その後も、ナルの行動は貴族らしい部分が欠如していて、どこかしらに「甘さ」があった。
あのような考えと生き方をすれば、苦しいだろうに、改める様子はない。
でも。
だからこそ、力になりたいと思った。
生きていく上でベティエールが足を引っ張ったならば、シンジュはベティエールを切り捨てるだろう。
ベティエール自身も身を引くつもりだし、シンジュがそれを受け入れることも容易に想像がつく。
けれど、ナルは……また、馬鹿のように甘い考えを持ち出すだろう。
騎士団に居た頃の自分ならば、甘い考えなど邪魔だと考えた。けれど、辛酸を舐めた今のベティエールにとって、ナルほど信用できる者はいない。
ナルは決して、自分を見捨てないと確信できる。
「兄上。……私は、まだ、会いに、行けない、ようです」
ベティエールは、ざっと辺りを見回したあと。
その場をあとにした。
療養と言って王都を出たナルは、何かをするつもりのようだ。
シンジュが王都にいるということは、本格的に動くのはまだあとになるだろう。
シンジュは冷徹で切れる男だが、妻には非常に弱くてあまあまなのだ。
ナルとどんなやり取りをしたのか知らないが、危険な何かをしようとしているナルをそのままにするはずがない。
裏で画策し、いざナルの身に危険が迫ったとき、涼しい顔で助太刀とかするに決まっている。
やつはそういう男だ。
*
宿屋へ戻ってきたベティエールは、自分を見て驚く昔馴染みに眉をひそめた。
「ベティ、早いな今日は。いつも、夕方頃まで、ぶらぶらしてるじゃねぇか」
「時間が、勿体ない」
「もしかして、あの子たちと一緒に行く予定だったのか? ついさっき、出発しちまったぞ」
まだ間に合うかな、と困ったように呟く昔馴染みに、いや、と否定した。
「私は、王都へ、戻る」
休暇はとってあるから、その間に少しでも体力を戻そう。
毒に侵された後遺症で利き腕が思うように動かなくなったが、まだ左腕がある。
自分のことは自分で出来るとシンジュに示し、シンジュが行動をする際に、ついていけるよう準備をすすめよう。
ベティエールは、シンジュの専属料理人なのだから、主夫婦が行くところへ同行するのは当然のことだ。
「なんだよお前、変わったなぁ。あの子のためかー?」
とりあえず朝食を注文して、カウンターに座る。
「可愛い子だよな。真っ直ぐっつーかさ」
「誰、だ」
「昨夜、ご飯運んでもらった子」
出された酒を、噴き出すところだった。
あれは主だ、トレーを運ばせるなど恐れ多い、と怒れば、昔馴染みはかなり驚いた。
「主? あの子が?」
「ああ」
「ははぁ、だからか。夕食代も払ってくれたんだ。俺の驕りでよかったのに」
「……なんという」
頭を抱えたくなった。
久しぶりの故郷で鬱屈とした気分だったことは確かだが、ナルの手を煩わせてしまうなんて。
「お前さ、主の頭、ぽんぽんってやるんだな。すっげぇ優しい目で見てたから、てっきりこう、イケナイ関係なのかと思ったわ」
「そんなわけが――……そう、見えたのか? 冗談、だろう?」
「冗談なわけないだろ~」
あはは、と笑う昔馴染みにつられて、苦笑した。
まさか、シンジュも関係を疑っていたりしないだろうな、と考えて、今度こそ否定した。
親子ほど年の離れた自分とナルの関係を、疑うはずがない。
国王の命令とはいえ、絶望の淵にいたベティエールを無理やり使用人に引き立てた、国王の信頼厚い大公だ。
そのうえ、刑部省長官としてあらゆる罪人を法廷で裁き、身分関係なく容赦ない断罪をする、冷酷でありながら有能すぎる男でもある。
妻が年の離れた男と多少話をしたからといって、関係を勘ぐるはずがない。
シンジュは、そんな器の小さな男ではないのだから。
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ベティエールのお話でした。
かの戦いで、全てを失ったベティエールは、自責の念を抱えて、死すらも逃げだと己に赦さず、全てを抱えて、ただ、生きてきました。
主人公が当たり前のように彼を頼ったことで、ベティエールに自信や誇りを思い出させ、生き続けることへの意義を得たのです。
……というのが、ベティエール①②でした。
色々表現できなかった自覚があるので、ここにこそっと補足をば。
ベティエールを置いて、旅(?)を続ける一行。
次は、新婚旅行ぶりに、あの温泉地へ向かいます!




